経済学者・成田悠輔さんがゲストと「聞かれちゃいけない話」をする連載。今回のゲストは、歌い手のAdoさんです。(構成・伊藤秀倫)

【画像】成田悠輔氏との対談に登場したAdo

◆◆◆

 Ado 仮に私が2026年に生まれたとして、今のAdoと同じかたちになれたかといえば、やっぱり違うと思います。


成田悠輔氏との対談に登場したAdo

実は自堕落なAdo

 成田 もし今生まれたとしたらどう変わってたでしょう?

 Ado そもそも私は歌っていたのかな、と。今って、人間の好奇心を刺激するものが溢れかえりすぎている時代なので、自分が表現する側になるというよりは、消費者側になってたかもしれない。もともと自堕落ですが、もっと自堕落になっていたのではないかな、と。

 成田 自堕落なんですか(笑)。

 Ado すごくキビキビ動く人間かと言われたら、結構ギリギリ行動の人間です。もし、もっと若い子どもの頃に今のこの環境におかれたら、創作に手を出したとしても、長続きしなかったかも、と思います。

 成田 作品やコンテンツを作って出すことがかつてなく簡単になった。その分、出した瞬間すぐ反応や数字が返ってきちゃう怖い時代でもあります。スタジオや書斎に客の群衆が24時間流れ込んできてるかのような。即時評価の渦にみんな飲み込まれるなかで、自分を保って長くやり続けるのは至難ですよね。

 Ado そうですね。今は何か知ろうとすればすぐ答えが返ってきて、いろんな渦が一気に押し寄せてくる中で本当に自分の足で立って歩けているのか、という不安は正直あります。今のAdoの視点ですらそう思うので、この時代にゼロから表現者として活動を続けられる自信はあまりないです。

「最初で最後の歌い手」

 成田 人間が作り出してしまったそんな新世界で人間が戦い続けられるかは疑問ですね。考える科学者や作るクリエイターのような役割は、人間が注力するものではなくなっていくという予感さえあります。代わりに人間こそがすべき役割は、体と心を張って人々を動かす武将や司祭のような前近代の指導者的なものになっていくんじゃないかとか。今まさに大量発生中のポピュリスト政治家たちはその前触れという気も。

 その点、自分の姿形は出さずキャラ化した“歌い手”(動画共有サイトなどで自分の歌声を披露している人)というスタイルは、人間と人間でないものの中間をいくクリエイター兼指導者ですよね。その形態を日本でメジャーな歴史に刻んだのはAdoさんということになると思うんです。一方で、お話ししていると古い時代のいかにも人間臭い葛藤や逡巡もお持ちじゃないですか。その意味でAdoさんは、20世紀的人間アーティストと21世紀に立ち上がりつつある新しいものの境目に現れた「最初で最後の歌い手」みたいな存在だと勝手に思ってまして。

 Ado 確かに容姿をあまり大きく出さないシークレットなかたちで活動しているのは、誰かにとっては面白くは見えたのだろうなと思います。ただ“歌い手”という私のアーティスト性は、子どもの頃から見てきたニコニコ動画で活動している歌い手の方々から来ているので、私にとっては当たり前で大好きで、ずっと身近にあったものです。もし誰も歌い手を名乗らなくなっても、私は一人でもそれを背負い続けたいとは思っています。

 成田 人間と人間でないものという文脈で、音や声を生成するAIが爆誕してますよね。ニュースを読むキャスターの声なんかは、中性中立無感情でただただ聞きやすい人工声の方が生身声よりいいとみんな気づいてしまった。音楽や歌唱はそこまでは行ってませんが、数十年先の音楽はどうなってるでしょう?

 Ado 私は人工的な方向と人間的な方向と、二極化がさらに激しくなるかな、と思っておりまして。このままバーチャルリアリティやAIの技術が進んでいけば、完全にAIでできたバーチャルなアーティストが、生身のアーティストと同じように、観客と同じ空間でパフォーマンスをすることも可能になっていく。ただ、そうなると逆に、人間はやっぱり人間というものに惹かれるし、本能的に求めるのだとも思います。だから、より人間らしいものを求める人も増えていくのではないかなと思います。

※本記事の全文(約7500字)は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(Ado×成田悠輔「Ado 私の不登校体験」)。

※全文では、以下の内容についても語られています。
・不完全さでしか補えない力
・人間はきれいな生き物じゃない
・不登校という選択

(Ado,成田 悠輔/文藝春秋 2026年5月号)