(写真提供:Photo AC)

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かつて日本には、城が2万5000〜3万ほどもあったと言われています。「近くの城に関する資料を調べてみると、怪談や思わぬ物語の発見があるかも知れません」と語るのは、『生き屏風』で日本ホラー小説大賞短編賞を受賞し、怪談イベントにも多数出演する小説家・田辺青蛙さんです。そこで今回は、田辺さんが日本全国の名城にまつわる怪談の数々を集めた『名城怪談』から一部を抜粋してお届けします。

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種さらいお銀

弘前城下に、両親を亡くしたお銀という数えで14になる娘がいた。

天明3年(1783)、浅間山の噴火による降灰と、それに続く冷害の影響は遠く離れた津軽にも及んでいた。

朝も冷たい風が吹き、夏も日が翳(かげ)り、田植えをした苗は育たずに枯れてしまった。

そうして、辺りは大飢饉に見舞われ、米蔵は空っぽ。皆が山に行き、木の皮や草の根をかじって命をつないでいたが、それすら尽きようとしていた。

お銀には、幼い弟妹がいて手足は棒切れのようにやせ細って唇もひび割れていた。

親代わりのお銀はそんな姿を見るだけで、やり切れない気持ちになった。

近所の蔵には種籾(たねもみ)がわずかに残されていたが、それは来年の作物の命。掟で、種籾に手をつける者は死罪と定められていた。

種籾泥棒の犯人

ある夜、お銀は決心した。

お銀はぼろ布に身を包み、月影に紛れて蔵に忍び込んだ。心臓が鳴り、汗が冷たく背を流れたが、弟や妹の顔を思い出すと足は止まらなかった。蔵の隙間から小さな麻袋に籾を詰め、懐に隠して逃げ帰った。


『名城怪談』(著:田辺青蛙、監修:北川央、イラスト:うめだまりこ/エクスナレッジ)

家に戻ったお銀は、籾をすり鉢で砕き、わずかな水で粥を煮た。幼い弟妹は目を輝かせ、水に色がついただけのような薄い粥を笑顔で食べた。お銀も一口だけ口に含んだが、罪の重さに喉が詰まった。それでも、弟妹の笑顔を見ると、やってよかったと思えた。

だが、翌朝、辺りは騒ぎとなった。蔵の籾が減っていることが発覚したのだ。近所の人々は互いに目を光らせ、ついにお銀の家で隠していた籾の袋が見つかったことが決定打となり、種籾泥棒の犯人ということが発覚してしまった。

ミズナラの木に

お銀は土間に額を擦りつけ、泣きながら詫びた。

だが、掟は冷酷だった。村人の中にはお銀に同情する者もいたが、飢饉の恐怖は皆の心を固くしていた。お銀は長い髪の毛を川の側のミズナラの木に縄のようにかけられて、吊るされた。体は木に縛られたままで、足先は半分しか地面についていなかった。

種籾を盗んだものはこうなるという見せしめの意味合いもあったのだろう。

お銀は許しを請い、声の限りに叫んだ。その叫び声が朝も夕も聞こえたが、誰も近づくことを許されなかった。

そして、漆黒の闇に黒髪でぶら下がった状態で、お銀はこと切れた。

お銀の遺体は、そのまま枝に吊り下げられたまま、幾日も冷たい風に吹かれ続けた。

やがて腐った頭皮から髪の毛がずるりと抜け落ちて、遺体は川に落ちて流されていった。

ミズナラの枝には黒髪が引っかかったままで、夜に近くを通り過ぎた人には、お銀のすすり泣き、許しを請う声が聞こえた……。

お銀の髪

黒髪がどうなったか行方は分からない。

だが、実際にお銀が吊るされたという「お銀の木」と呼ばれるミズナラの木が昔はあった。


(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)

だが、今は場所が分からなくなってしまったという。

人によっては弘前公園のどこかに移植されたという人もいたが、それも事実かどうかわからない。

城下にある専修寺付近は、施行小屋が設けられ、また、餓死者を埋葬した場所とも伝えられている。そんな専修寺にある餓死供養名号塔(がしくようみょうごうとう)は、嘉永6年(1853)に建立された天保大飢饉の供養塔だが、数百人の女性の髪を編んだ縄を引綱として運ばれたという。天明飢饉とはずいぶん時期がずれるが、もしかしたら殺されたお銀の髪もその中に混ざっていたかもしれない。

飢饉と飢餓という大きな敵

天明飢饉の供養塔も、弘前城下をはじめ津軽地方にはたくさん建立されており、今も当時の悲惨さを伝えている。

そして、弘前藩の八代藩主津軽信明が、津軽藩内の飢饉の問題追及と改善に努めた記録が残されている。その策が功を奏したのか、寛政2年(1790)に弘前藩領は豊作になり、城下を餓鬼のような姿でうろつく人も見なくなった。

命の火を燃やし尽くすほど、飢饉と飢餓という大きな敵と戦い続けていたからだろうか、そんな矢先に信明は病没。亡くなったのは彼の誕生日で、数えで30歳だったそうだ。

※本稿は、『名城怪談』(エクスナレッジ)の一部を再編集したものです。