なぜ政治の素人だったゼレンスキーはたった一日で「覚醒」したのか?
ロシアのウクライナ侵攻開始から4年。2002年に刊行された名著『戦争広告代理店』で現代の国際政治を裏で動かすPR情報戦の実態を解き明かしたノンフィクション作家・高木徹氏(元NHKチーフ・プロデューサー)は、この戦争をどう見ているか?
『群像』2026年1月号より始まった新連載『ウクライナPR情報戦 演者の「成功」と「落日」』の第5回前編を特別公開!
「私たちはここにいる」
二〇二二年二月二十五日、ロシアによるウクライナ侵攻翌日夜に発信された、ゼレンスキー大統領とその部下の五人の男たちによる「私たちはここにいる」の三十秒の映像は、PR情報戦の歴史上、最も効果をあげた動画として記憶されるだろう。
スーツを脱ぎ捨て、カーキ色の服装に身を包んだ男たちの、まもなくロシア軍がここ大統領官邸にやってきて、自分たちが捕らえられるとしても、決して逃げることはない、というメッセージはあまりにも強力だった。
私自身、ゼレンスキー大統領の名前は知っていても、その風貌の記憶がはっきりあったわけではなく、この時にそれを認知したので、ゼレンスキー大統領=カーキ色の服というイメージが脳内に定着した。そして、キーウに留まり続ける指導者の身を案じた。
じっさい、アメリカの軍や政府、情報機関は、ロシアの侵攻が始まれば短期間でキーウがロシア軍の手に落ちると予想していた。それを考えれば、この時のゼレンスキー大統領とその部下たちの決断はいくら称賛してもしきれないほどだ。それをこれほど如実に表した映像はない。余計な言葉がなく、短かったことはテレビやSNSで拡散されるのにうってつけだ。手振れのあるスマホでの撮影は迫真性を極限まで高めていた。「ゼレンスキー大統領はキーウから逃げ出した」という噂がウクライナで広がっていたタイミングでそれを見事に打ち消したという背景もドラマチックだ。素晴らしい動画PR戦略だった。
だが、それにしても、とも思う。人は一日でこうまで変われるものなのだろうか。
前日の朝、侵攻が始まった直後には、予想外の攻撃で、どう対処したらよいのかわからないといわんばかりの疲れた顔のノーネクタイのスーツ姿で、とにかく「パニックにならないように、家にいてください」と国民に弱々しく語るのがやっとだった大統領が、だ。
政治の素人
私が今に至るまで信頼して話を聞くロシアやウクライナなどの地域の専門家は、概して今もゼレンスキー大統領を政治家としてあまり評価していない。世の中の多くの人々が持っている「暴虐で強大なロシアに対して一歩も引かずに立ち上がった指導者」といった英雄的なイメージとはかけ離れたもので、驚くこともある。それは二〇二二年二月以前からウクライナの政情をウォッチしており、それまでのゼレンスキー大統領のこともよく知っているからだ。
ゼレンスキー大統領は、経済界で権勢をふるう政商オリガルヒと政官界が結託し、腐敗にまみれたウクライナの汚濁を一掃する高校教師出身の青年大統領を描いた大人気ドラマに主演したあと、その余勢をかって実際の大統領選挙に打って出た。政治経験がないことが人気の源となり、二〇一四年のマイダン革命の後に大統領になっていた現職のポロシェンコ氏を二〇一九年四月に大差で破って当選した。ウクライナ侵攻が始まる三年弱前のことである。
五月に大統領になるとすぐに議会を解散して、自ら創設しやはり政治経験のない立候補者を集めた与党が大勝利して建国以来初めて過半数を占める政党になった。当初はプーチン大統領とも交渉してドンバス地域の紛争を終わらせる、と言っていたが、そのめどは全く立たず、次第に反ロシアの姿勢を強めながら、支持率は低下を続け、自らの与党をまとめることができずに分裂騒動がおき、議会での過半数も失った。その一方で、東部地域を地盤とする野党の指導者を親ロだと言って拘禁したり、その政党を活動禁止にしたりという荒っぽいこともしている。別の政敵の陣営の放送局を放送停止に追い込むこともしていた。
一言でいえば政治の素人のポピュリストであり、国内外ともに混乱が深まっていた。
二〇二一年からロシア軍がウクライナ国境に軍を展開させ、危機が深まってからも有効な手立てが打てなかった。侵攻直前のゼレンスキー大統領と欧米政府の間のやり取りについてはさまざまな調査報道があるが、それらがほぼ共通して指摘しているのが、ゼレンスキー大統領が迫りくるロシアの侵攻について繰り返し警告されていたのに、その現実に目を向けなかったことだ。
ニクソン元米大統領の不正を暴き辞任に追い込んだ「大統領の陰謀」の歴史的スクープ以来、米政界の内情を取材し続けるアメリカの伝説的記者ボブ・ウッドワード氏の著書『WAR 3つの戦争』によれば、二月十九日という侵攻直前の段階になっても、ミュンヘンでアメリカのハリス副大統領(当時)と会談したゼレンスキー大統領は「いまにもロシアがあなたがたの国を侵略する可能性が高い」という警告に対して、「私たちは、彼らが侵略するとは思っていません」と反論した、という。
また、開戦前から二〇二四年二月までロシア軍に対するウクライナ軍の戦いを指揮したザルジニー元司令官(現駐イギリス大使)がイギリスの有力紙「ガーディアン」に語ったところによれば、侵攻二日前の二月二十二日にいたっても、戒厳令の発出を求めるザルジニー司令官に対し、ゼレンスキー大統領はそれを認めず、軍は有効な部隊の配置がとれなかった。
二十二日といえば、前日にクレムリンでプーチン大統領が異例の「安全保障会議」をテレビ中継のもとで行い、それまで八年間の政策を変更してドンバスの両「人民共和国」の国家承認を行ったあとである(前回参照)。それを見て日本でさえも事態を注視していた多くの人が侵攻を覚悟したくらいのタイミングだった。
それどころか、このガーディアンの記事によれば、翌早朝に侵攻が始まる前夜でさえ、ゼレンスキー大統領は「戦争はない」と普通に就寝していた、というのだ。アメリカABCのキャスターなどに、米政府から間もなく侵攻が始まるというショートメッセージが伝えられていたころである。
これが本当だとすれば、ゼレンスキー大統領は迫りくる恐ろしい事態を前にして、まともな判断能力さえ失っていたといえる。危機が迫る国家の指導者として、一言でいえば無能だった。
それがどうして、一日で「覚醒」することができたのだろうか。
世界を席巻した六単語のフレーズ
この動画がどれだけ事前にPR戦略として準備されていたものか、という観点から考えると、ここまで述べたように、肝心のゼレンスキー大統領自身が侵攻を予測して手を打っていた形跡はなく、動画もその場のアイディアで撮影されたものだろう。
後にキーウ占領の恐れが遠のき、ゼレンスキー大統領自身が国外も含めて飛び回る余裕が出てきてからは、機材をふんだんに使って編集を施した映画のような動画も撮影するようになっていくが、この段階では、即興的な短い動画だったことが、切迫感につながり結果的に成功を収めた。
動画でのゼレンスキー大統領の話し方も、人心を鼓舞するものではなく、淡々と抑揚なく事実だけを述べている。顔つきも無表情に近い。「決意のキーウ残留」というよりは、準備もなく侵攻が始まってしまい、脱出の決断もできず留まってしまったというのが真相ではないか、と私には見てとれる映像だ。そのリアリティが良かったのだ。
ゼレンスキー大統領は有力な制作プロダクションを経営していた。映像で背後にいるイェルマーク大統領府長官(当時)はその会社出身であり、ポドリャク大統領府顧問は元ジャーナリストだ。動画の重要性を十分理解した仲間との「撮って出し」の動画をSNSへのアップで発信したのだろう。その言語がウクライナ語であることからも、本来はウクライナ国民に彼らの現状を率直に知らせる狙いだったと考えられる。
だが、この日から、世界は、ウクライナの指導者がゼレンスキー、という名前であることを知り、その大統領はカーキ色のTシャツを着ていると認識した。いったんインターネット空間に、ロシアの侵攻をまさに受けつつある大統領の姿が劇的に現れれば、世界中のメディアがその動画を放送することになる。「戦争PR特化型指導者」ゼレンスキー大統領の誕生を、世界が放っておくことはなかった。
さらに、この動画とともにゼレンスキー大統領が語ったとされる言葉が世界を席巻した。それを最初に報じたAP通信によれば、“I need ammunition, not a ride.”というセリフである。
素直に訳すと、「私に必要なのは弾薬だ、乗り物ではない」となる。日本の報道でもそのように伝えられた。だが、not a rideという表現にはもう少しニュアンスも感じる。クルマ社会のアメリカで、友達や家族に「ちょっと乗せてくれる?」と頼みたくなることは日常茶飯事だが、その時に必ず使うのがGive me a rideという表現でとても気軽な言い方だ。つまり、ゼレンスキー大統領は、アメリカに対して、お気軽に「脱出するための乗り物(この場合はヘリコプターだろうが)に乗せてあげますよ」などというのではなく、与えるというのなら、砲弾とミサイルをくれ、その覚悟がキミたちにあるのか? と決然と問うた、ということになる。それをこのわずか六単語のフレーズは表現している。
この「ゼレンスキー大統領の言葉」が最初に伝えられたのは「私たちはここにいる」の動画と同じ二月二十五日で、動画とセットで翌二十六日にはあっという間に世界を駆けめぐった。ほとんどすべてのメディアがこの言葉を使い、その勇気を称賛し、脱出方法ではなく、ロシアと戦う武器をウクライナに与えよ、という大合唱が世界中に起きた。
だが、ゼレンスキー大統領は、本当にこの言葉を言ったのだろうか?
(続きはこちらhttps://gendai.media/articles/-/165992)
