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講演会や文筆業など幅広く活躍されてきた、エッセイストの海老名香葉子さん。東京大空襲で兄以外の家族6人を亡くし、18歳で初代林家三平さんと結婚、林家一門を大黒柱として支え、2025年12月24日に92歳で逝去されました。そこで今回は、作家・ノンフィクションライターの瀬戸内みなみさんが各界著名人の人生に迫った連載を書籍化した『わが人生に悔いなし』から一部を抜粋し、海老名さんの言葉をお届けします。

【写真】2016年12月の海老名香葉子さん

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東京大空襲

明るく賑やかだった日々も町も、あるときぷっつりと、跡形もなく消えてしまった。

1945年3月10未明、米軍B29大編隊が投下する大量の焼夷弾(しょういだん)が、普通の人々が暮らす東京の下町一帯を焼き払ったのだ。

東京大空襲である。

そのとき海老名香葉子はたったひとりで家族から離れ、静岡県沼津市にいた叔母のもとへ疎開していた。

3月9日は夜になっても、空襲警報が解除にならなかった。数え切れないほどのB29が駿河湾上空を東京方面へ飛んでいく。香葉子は本当に怖いと思いながら、真夜中の香貫山(かぬきやま)に登った。夜空の向こうの端のほうが赤らんで見える。

あれは東京だろうか、横浜だろうか、近くに見えるから……と叔母たちが心配そうに話すのを聞きながら棒立ちになって、いつも首にかけているお守りを撫で続けた。東京を出る前に、母が涙をぽろぽろこぼしながらかけてくれたものだ。

「神さまどうか、うちのみんなを助けてください。どうか死なないようにしてください。お願いです」

凍てつくような山肌に正座をしていた。寒さの記憶もないのは、夢中だったからだろう。

「お人形さんも着物も、本箱も机もなんにもいりません。だから助けてください。お願いします、神さま」

叔母に抱き起こされて明け方家に戻ったが、学校に行くと友だちに取り囲まれた。

「かよちゃん、本所、深川は全滅だって……」

逃げるように叔母の許へ帰った。叔父がけんめいに調べてくれたが、東京の家族のことは何ひとつわからないまま、日が経っていった。

火の海とはあのことをいうんだ

3番目の兄、喜三郎が沼津に現れたのは4日目のことだった。真っ黒に汚れて唇が腫れ上がり、ボロボロになった服を着て、麦畑の向こうに立っていた。

「かよ子、ごめん。みんな死んじゃったんだ……」


『わが人生に悔いなし』(著:瀬戸内みなみ/飛鳥新社)

二人で抱き合って泣きに泣いた。夜になって兄は香葉子の前に座り、手を握って、こういった。

「ぼく1回しか話したくないから、よく聞くんだよ」

あの夜、警防団の班長だった父は家にいなかった。母は兄や弟たちと畳の下の防空壕(ぼうくうごう)に入っていた。父が帰ってきたときには、火はもう家の2階にまで回っていた。一家は逃げ遅れたのだ。

かよ子、火の海とはあのことをいうんだ、と兄がいう。前も後ろも、右も左も、上も下も、みんな火だったんだ。母が弟を背負い、一番上の兄が祖母の手を引いて、そのなかを走って逃げた。

風上へ逃げて、中和(ちゅうわ)小学校までたどり着いたが、門がしっかり閉じられていて開かない。必死で塀を乗り越えて、校舎の窓下に身を寄せ合った。熱くて熱くてたまらない。息ができない。防空頭巾がジリジリと焼け始めていた。

メンコ1枚だけが、弟の生きた証

母がおぶっていた弟を下ろし、胸に抱いて地面に突っ伏した。その上から父が覆いかぶさる。祖母と兄たちは横でひとかたまりになっていた。

一番上の兄が2番目と3番目の兄をじっと見て、

「日本男児だ、いさぎよく舌を噛み切ろう」といった。

「喜三郎、見ろ!」

突然、父が叫んだ。高いところの窓が、少しだけ隙間のように開いていた。あそこから入れ、と父がいった。

兄は夢中でよじ登ったのだろう。後のことは、もうわからない。

「兄はこれまでに3回だけ、あの時のことを話してくれました。ひとりだけ生き残ってしまったのが苦しくて、話せないんです。死ねなかった自分が申し訳ないといって、その度、泣いていました」

喜三郎は13歳、香葉子は11歳だった。

「弟の孝之輔はたった4歳でした。あの頃のことだから写真もありません。少しは撮ったのかもしれないけど、みんな焼けてしまいましたからね。疎開する前に弟からもらったメンコが今でも手元にあります。このひょっとこのメンコ1枚だけが、弟の生きた証なんですよ」

戦争は人の心まで変える

沼津の叔母が止めるのを振り切って、兄は帰るあてもない東京へひとりで帰っていった。香葉子もその後、叔母の許を離れ、親戚や知り合いの家を転々とする生活を5年間続けることになる。荷物は背中に背負った小さな行李(こうり)がひとつだけ。中には弟のメンコと、疎開中に両親からもらった手紙などわずかに残った思い出の品が、お守りとして入っていた。

「戦争はひとの心まで変えてしまうんです。孤児になったわたしが頼らざるをえなかったおじさん、おばさんたちは、戦前は悪い人たちじゃありませんでした。お祭りや法事でみんな集まっては、かよ子ちゃん、かよ子ちゃんって優しくしてくれたんです。それが、手のひらを返したようになっちゃって。お前たちが死んでくれればよかったのにって、何度もいわれましたね。『お前じゃなくて、お前の父ちゃんが生きていてくれればよかったのに』って。

戦後はどこの家も生活が苦しかったから、厄介者まで養う余裕はなかったんです。それに父の姉妹たちにとっては、父が東京の下町、本所(ほんじょ)(現在の墨田区)に代々続く江戸和竿(えどわさお)の老舗『竿忠』の後継ぎで、本家でしたから。

土地や生命保険などの父の財産は、わたしを引き取って後見人になった伯母たちがさっさと処分し、山分けして、きれいさっぱりすっからかんになってしまいました」

いつも笑顔でいなさいね

寂しくて辛くて、本所の家の跡に何度も何度も行った。懐かしい町は見渡す限り焼き払われていた。入口の石段だけが、家がそこにあったしるしだ。灰を掘り返すと、父の仕事道具や、母の湯のみ茶碗のかけら、弟の昼寝布団の切れ端が見つかった。

「父が疎開先にくれた手紙に、『寂しくなったら東京の空に向かって、父ちゃん父ちゃん父ちゃんと、3回呼んでごらんなさい』というのがありました。夜空に向かって、父ちゃーん、母ちゃーん、みんなー、と叫びました」

東京を発って沼津へ疎開する日の朝、母は涙をこぼしながら、

「かよ子は元気で明るくて、ひとに好かれる子だから、大丈夫よね」

と、何度も繰り返した。

「いつも笑顔でいなさいね」

※本稿は、『わが人生に悔いなし』(飛鳥新社)の一部を再編集したものです。