●おじさんたちが愛らしくて仕方ない
反町隆史、大森南朋、津田健次郎のトリプル主演で、“こんなはずじゃなかった”大人たちの再会と再生を描いた「1988青春回収ヒューマンコメディ」のフジテレビ系ドラマ『ラムネモンキー』(毎週水曜22:00〜 ※TVer、FODで配信)の最終話が、25日に放送された。

普段はネガティブなコメントであふれやすいSNSだが、こと本作に関してはポジティブなコメントが多数を占めた。その理由と、本作が『ラムネモンキー』としかあり得なかった、真のタイトル回収について考えてみた。

(左から)反町隆史、大森南朋、戸田恵子、木竜麻生、津田健次郎、福本莉子 (C)フジテレビ

○【第11話あらすじ】ラストに、まさかのマチルダ本人登場

吉井雄太(反町)は、罪をすべて認めて加賀見六郎(高田純次)の汚職についても打ち明けると決意し、藤巻肇(大森)、菊原紀介(津田)、西野白馬(福本莉子)は、自分の生活に影響が及ぶことを覚悟の上でそれを了承する。

清々しい気持ちで、丹辺市の高台でラムネを飲む一同。その時、UFOが現れ、マチルダこと宮下未散(木竜麻生)が降りてきた! マチルダは「消した記憶を戻してあげる」と言うと雄太たちの頭に手をかざす。一同が目を開けると、UFOもマチルダも消えていた…。

記憶を取り戻した雄太たち。雄太の胸に引っかかり続けてきた「マチルダがいなくなったのは自分たちのせいなのか?」という疑念。その思いは、兄・健人(松村雄基)との過去にも深く結びついていた。逃げ続けてきた後悔と、向き合うべき“過去”。

一方で、雄太は保管していたマチルダの骨とボールペンを、白馬が働くカフェに持っていく。鶴見(濱尾ノリタカ)は実行犯である多胡秀明(梶原善)だけでも逮捕するべく、単独で捜査するという。しばらく骨を保管しておいてほしいと3人に頼み、店を後にした鶴見。

しかしその後、紀介の口から思いもよらない言葉が飛び出した。なんとその骨とボールペンは紀介が購入した別人のもの。泥に埋めたのも、紀介本人だという。紀介は全員でもう一度、マチルダ事件に向き合いたかったのだ。

かくして3人は今回の事件の真相にたどり着いた。いや、それはまだ入口だった。実は実行犯と思われていた多胡は、今は警視庁公安部の人間であり、あの当時、紀介の母らと同時に、沼に沈めたマチルダを即座に救い出していたのだ。つまり、マチルダは、今もどこかで生きている──

そして、雄太たちは“マチルダとの約束”を果たすべく、再び高台へと向かう。アラフィフになって映画の続きを撮影するために。それを白馬がスマホで撮る。その3人の頭を叩く者が突如、現れた。それは後ろ姿であったが、現代のマチルダ(戸田恵子)であることは、3人にはすぐに分かったのだった。

戸田恵子 (C)フジテレビ

○SNS絶賛…ネガティブポストが少ない理由は?

なんとも粋な終わり方であった。後ろ姿の現代マチルダを演じたのは、戸田恵子。そして戸田といえば、かつて『機動戦士ガンダム』で実際に、マチルダの声優を務めていたのだ。スタッフの遊び心が最後までいっぱいにつまった、最高の最終回であった。

SNSでは、「なんかいろいろあったが、最終回まで古沢良太らしくてすごく良かった」といった声や「ほんわか最終回」、「離脱しなくてよかった」「まったく予想していなかったラストだった」「いろんな伏線が回収されて、爽やかな気持ちになれた」など、SNSでは珍しいほどに絶賛の声が多数。ただ一部、「よく理解できなくて何度か見直した」という声もあり、確かにさまざまな要素がギュッと詰まりすぎた最終回でもあった。

ネガティブな情報が多いネット空間において、これだけポジティブな意見が圧倒的なのは、まず「古沢良太ファン」が見ていたことが挙げられるだろう。古沢脚本は基本、一筋縄ではいかない。映画『キサラギ』でも最後の最後までどんでん返しが続き、ファンはそれを「古沢らしさ」だとすでに納得しているのだ。

次に考えられるのが、殺人事件などを取り扱いながらも「肩の力を抜いて」見られるドラマだったということだ。特に、反町、大森、津田らが、ガンダーラ珈琲に集まって過去の思い出を話すシーンは、それだけでスピンオフができそうなほど充実しており、さらに、ゆったりと「肩の力を抜いて」見られた。

しかも、交わされる会話がサブカル寄りなのも良かった。当時、サブカルは一部のオタクだけのものであったが、現在はメインカルチャーを凌駕し、若い層は特に、サブカルにどっぷりと浸った文化が形成されているように見える。そんな時代背景も、『ラムネモンキー』は味方につけた。

さらに白馬の言葉を借りるなら、「ジェイソンや、魔女や、ゾンビがいて、秘密結社や毒ガス工場がある1988年」というキャッチーで、時代を象徴していて、中二病的で、荒唐無稽な妄想が会話で飛び交っていた。令和っ子の白馬にとっても、それは、この時代とは地続きとは思えないファンタジーな話が本当にあったのかとワクワクしたに違いない。

懐かしさと奇抜さ、おじさんの思い出とそれを聞かされる令和っ子。マチルダ事件という縦軸を塗りつぶすぐらい濃厚に、これだけの懐古と癒やしがあった。面白くないわけがないし、同世代ながら、あのおじさんたちが愛らしくて仕方がなかった。これらをネット民も感じていたのかもしれない。

●「だって、所詮みんな、永遠の中二病でしょ?」
何より印象的だったのは、ラストの白馬のモノローグである。「記憶は記憶であって、事実ではない。妄想癖のある中二病のオタクならなおさらだ。もしかすると、3人のおじさんたちとの“冒険の日々”も、すべて妄想で、いつか弾けて消えるのかも。炭酸のラムネのように──」

この一節は、本作の主題を一気に浮かび上がらせる。記憶とは、単なる過去の保存ではなく、想起のたびに書き換えられる“現在の解釈”である。心理学的に言えば、記憶は固定された記録ではなく、再構成され続ける可塑的な現象だ。

ここで、タイトル『ラムネモンキー』は静かに回収される。そう──今この瞬間に「現実」として生きている時間すらも、未来から見れば、炭酸のように弾けて消え、あるいは味わいそのものが変質してしまうのかもしれない。すなわち、記憶は事実を保存するのではなく、意味を編集し続ける装置なのだ。

特に白馬のように、これから未来へと歩み出していく存在にとって、その感覚はより切実だったはずである。今のリアリティは、いずれ“編集された過去”へと変わる。そうした時間の非対称性が、このモノローグにはにじんでいる。

人生とは、過去とは、歩んできた道とは──もしかするとすべてが、ラムネのようなものなのかもしれない。弾けて、消える。子どもの頃、「こんなに美味しいものはない」と思っていた味も、大人になってから飲めば、ただの「ラムネ」に過ぎなかった──そんな経験を持つ人も少なくないだろう。価値とは絶対ではなく、経験によって更新され続けるものだからだ。

もちろん、すべての過去が爽やかに弾けるものばかりではない。中には、深く傷つき、それが今もなお痛みとして残り、人格に影を落としているような記憶もある。トラウマとして反復され、現在を規定してしまうほどの重みを持つ過去も存在する。

だが、それでもなお──その記憶すら「固定された事実」ではなく、「変化しうる意味」であるならば。

理想論かもしれない。それでも、その痛みもいつか「ラムネ」のように、パチパチと弾けて軽くなる日が来るかもしれない。あるいは、マチルダ事件のような強烈な記憶の周囲に、実は確かに存在していた“ささやかな青春のきらめき”を、後から見つけ出せるかもしれない。

つらいばかりではなかった──そう思える余地が、人には残されているのではないだろうか。実際に、決して楽な青春ではなかった筆者自身も、本作からそのような感触を受け取った。

そして、白馬は最後にこう言う。「だって、所詮みんな、永遠の中二病でしょ?」。この言葉は、現実認識そのものへの軽やかな転覆である。目の前の現実とは、突き詰めれば脳内の電気信号が構築した主観的な世界にすぎない。であるならば──

中二病でいてもいいではないか! 妄想し、夢を見て、自分なりの意味づけの中で生きることは、単なる「逃げ」ではない。それはむしろ、不確かな現実を生き抜くための、ひとつの積極的な戦略であり、人生を「楽しく感じて」生きるための技法なのではないか。

『ラムネモンキー』は、そのことを静かに、しかし確かに提示したのではないかと、個人的に感じた。













(C)フジテレビ

衣輪晋一 きぬわ しんいち メディア研究家。インドネシアでボランティア後に帰国。雑誌「TVガイド」「メンズナックル」など、「マイナビニュース」「ORICON NEWS」「週刊女性PRIME」など、カンテレ公式HP、メルマガ「JEN」、書籍「見てしまった人の怖い話」「さすがといわせる東京選抜グルメ2014」「アジアのいかしたTシャツ」(ネタ提供)、制作会社でのドラマ企画アドバイザーなど幅広く活動中。 この著者の記事一覧はこちら