「毎晩、誰かが殺される夢を見ていた」。20代の10年間をこう振り返るのは、映画監督・映像作家の西坂來人さん(40)です。 幼少期、父親の暴力により一家離散。きょうだい5人で児童養護施設へ入所した西坂さんは、その後自力で道を切り拓き、念願だった特撮映画の制作現場に立つ夢を叶えました。 しかし、夢を生きる華やかな日々の裏側で、20年もの間、おぞましい悪夢が連日のように続いていたといいます。誰にも話せなかった悪夢の正体が、かつての虐待による「トラウマ」だったとようやく気づいたのは、40歳を目前にした時のことでした。

【写真】「無垢な眼差し」施設に預けられた幼少期のきょうだいの姿に胸が痛む(全19枚)

父の暴力で大好きなおばあちゃんが突然、姿を消した

── 西坂さんは、幼少期、父親の家庭内暴力で家族がバラバラになり、きょうだい5人、児童養護施設で生活するようになったそうですね。

西坂さん:はい。僕は、福島県の小さな町で兼業農家の長男として生まれました。父はすごく暴力的で、お酒を飲んで暴れるのが日常茶飯事でした。特に母と祖母への暴力がひどくて。ある日、大好きだった祖母が突然いなくなったんです。

── おばあさんがいなくなってしまった?

西坂さん:それまでも父が母や祖父母に暴力をふるって警察沙汰になることが何度かありました。それが次第にエスカレート。あるとき、父が祖母を殺そうとして祖母は保護され、別の場所へ避難したそうです。僕はおばあちゃん子だったので、あまりにショックで。その一件があって父は精神科に入院していましたが、退院して家に戻ってきた後も、態度は変わらず。昼間からずっと寝て、起きるとまわりに暴力をふるうという、家族にとって不安な状態が続きました。

施設で生活していたころの西坂さんとごきょうだい(西坂さんは後列真ん中)

僕が小学5年生のときに、今度は母が命の危険を感じて、僕たち子ども5人を連れて逃げ出すことに。僕たちは児童養護施設で保護され、しばらくの間は母と離れて暮らすことになりました。

「自分もこうなるんだ」施設で抱いた未来への絶望

── 児童養護施設の暮らしで印象に残っていることはありますか?

西坂さん:僕たちがいた相馬市の施設では、壮絶な虐待を経験した子たちが何人もいて、その話が衝撃的でした。ある子は、親が殴る蹴るは当たり前で、自分の排せつ物を親に食べさせられたというんです。当時は子どもだったので「きたねぇ!」なんて言っていましたが、冷静に考えれば決して笑えない状況でした。

20年以上前の当時は施設があった田舎の進学率が極端に低く、中卒で退所する子がほとんど。でも退所後の生活が続けられず仕事を辞めて消息不明になるのはよくあることで、そんな先輩を見て「どうなっちゃうんだろう。ろくな人生にならないのかな」と不安に思っていました。退所後、何か問題を起こしたり、事件を起こしたりしたら、施設に警察とかから電話が来てやっと消息がわかる、みたいなこともあって。

施設ではいろいろな先輩たちをみていて、小学6年生ながら「施設を出たら自分もこうなるんだ」と絶望したのをよく覚えています。小さいころから、ウルトラマンやゴジラの特撮映画を見るのが大好きで、将来は映画制作をしたい夢はありましたが、 「そんなこと言ってる場合じゃないぞ」と、希望を持つことは諦めかけていました。

僕が退所してしばらく経ってから、職員さんに会う機会があったとき、施設の先輩だった方が道端で亡くなっていたという話を聞いたときはすごくショックで。「やっぱり最悪の展開もあるんだ…」と戦慄しました。

幼少期からの夢を叶え、特撮テレビドラマ『ウルトラマンメビウス』の特撮にスタッフとして参加した西坂さん(最後列の左端)

── 西坂さんの中学進学と同時に、お母さんがきょうだいを迎えに行き、母子家庭での生活がスタートします。西坂さんは、幼少期からの夢すら諦めそうになった施設時代の絶望をはねのけ、高校卒業後は奨学金を活用して、映像制作の専門学校に進学。在学中に監督した作品が世の中で高い評価を受けるなどさまざまな機会を経て、映像と絵本の作家としてご活躍されるように。本当にすごい!のひと言です。

西坂さん:やりたい仕事ができて充実していましたが、20代や30代のころは、激しい孤独感や劣等感を抱えていました。ひとり暮らしのアパートに帰ると、ひざからガクッと崩れ落ちるような、大きな寂しさ、むなしさを感じていました。振り返ると、きっと10代から抱えていた、生きづらさみたいなものかもしれません。自己肯定感が低いというか。何をやっても「ああ、俺はやっぱりダメだ」って思っちゃう。

唯一、自分を保てたのが得意な映像やイラストの制作だったから、それをきっかけに人とつながったり、仕事にできたことで、ポジティブにはなれたんですけど。でも、ひとりきりになるとネガティブの感情に襲われそうになったり、特に20代のころは二面性があった気がします。

毎日、人が惨殺される悪夢を見ていた

── そのころ、毎日「悪夢」を見ていたそうですね。

西坂さん:はい。目の前で人が惨殺されて、ぐちゃぐちゃになる夢を、毎日です。つらすぎて、ずっと誰にも言えませんでした。「お前がおかしいんじゃないか」と思われるのが怖かったし、何より「自分よりもひどい虐待を受けてきた人はたくさんいる。自分はまだマシだ」と思い込んでいたからです。

ただ、地方の講演で支援事業をされている方と話した際に、自分の中にあるモヤモヤの正体にハッと気づいたんです。

西坂さんは「THE THREE FLAGS―希望の狼煙―」にて仲間たちと児童養護施設に関する情報を発信

── どんな気づきだったのですか?

西坂さん:普段は虐待について語らない方でしたが、僕たちの話を聞いて、ご自身の経験談を聞かせてくださったんです。そうしたら、僕と境遇がそっくりで。お父さんが暴力的で、お母さんが殴られている姿を見るのがとてもつらかったと。僕は、まるで自分の話を聞いている感覚になって。「俺、すげえつらかったじゃん」と気づけたんです。「お母さんが殺されるんじゃないか」「お母さんと離れ離れになるのでは」と毎日考える環境ってつらすぎるし、子どもにとってはストレスが半端ない。

── そのとき、悪夢は虐待の後遺症、トラウマかもしれないと。

西坂さん:僕はこれまで、虐待のトラウマを抱える方の大変さを見てきたので、まさか自分にトラウマがあるとは思ってもみなかった。それにようやく気づけたのが昨年末のことです。

20年後の告白。母に話して悪夢が消えた

── そこから、ご自身の過去の傷に気づいた経験をブログで発信されたそうですね。

西坂さん:以前からつき合いのある小児科の精神科医の方がそのブログを読んで「今でも遅くないから、その悪夢のことをお母さんに話してみたらどうかな」とアドバイスをくれました。母親と語り合った時間はわずかでしたが、それ以来、不思議と悪夢を見なくなったような気がします。明確な理由はわからないのですが、自分の中で、まだ気づいた段階だった自分のトラウマを、「やっぱりそうだ」と自分で認めたことが大きかったんじゃないかなって。

── 悪夢を見なくなって本当によかったです。

西坂さん:僕、昔から「自分よりもひどい体験をした子と比べれば、自分は全然大丈夫だ」と思いがちなんです。自分を守るための生存本能というか。厳しい環境に適応するために、「自分は大丈夫」と常に言い聞かせることが癖になっていたのかもしれません。


 
体験を抱えている子たちと接すると、虐待に遭った後の生きづらさを感じることが多く、精神的な病気とずっと闘っている子も多い。そういう子たちとつい自分を比べてしまっていました。

でも、気持ちのどこかではトラウマと闘っていた。そのことに気づけたことは自分の中で大きな出来事でした。同じような経験をしている人にこうした自分の体験が届いて、その人の気づきになるといいなと思っています。
 

20年もの間、悪夢という形でSOSを出し続けていた西坂さんの心。もし今、あなたが「自分はまだマシだから」「これくらい大丈夫」と自分に言い聞かせているとしたら、それは心のアラートかもしれません。自分の痛みに蓋をせず、ただ「つらかったね」と認めてあげる。あなたには今、そんな時間が必要ではありませんか?

取材・文:高梨真紀 写真:西坂來人