なぜ「有田焼のドクロ」がふるさと納税の返礼品に…「食器だけでは工場が潰れる」5代目窯元のロックな生き様

■有田焼の工房にあるはずのない陶磁器
工房に足を踏み入れると、そこには混沌とした世界が広がっていた。革張りのソファ、使いかけの釉薬、さまざまな太さの筆、所々に積み上げられた段ボール、制作途中の作品たち。雑然としたなかで、作業台にならぶ白い塊が、異質な存在感を放っていた。
よく見ると、ドクロの形をしている。

雛人形の肌のようにきめ細やかで、しっとりとした質感。伝統工芸の技が生み出す精巧な造りのドクロに思わず見入った。
太い筆を右手に持ち、器にたっぷり入った青緑色の絵の具に毛束を浸す。左手で器を静かに持ち上げ、筆先で淡い色を丁寧に重ねていく。細い筆に持ち替えると、今度は濃い絵の具で細い線を走らせる。はじめにラフな構図を描き、あとは、感覚で描いていく。そこには、軽やかに空を舞う繊細なバレリーナが描かれていた。


絵付けの修行をされたんですか? と訊ねると、「有田に帰ってきてから、一応講習は受けたかな」と返ってきた。
ここは、佐賀県有田町にある陶磁器製造会社「親峰武堅(しんぽうたけけん)」5代目窯元・武富カズキさん(59)の工房だ。2024年12月、佐賀県有田町のふるさと納税返礼品への採用が決定し、300万円以上の寄付で申し込みが可能となった。まだ一般販売には至っていないが、有田焼のコアなファンを抱える海外も視野に入れ、価格や販売方法を検討中だ。
窯元のカズキさんには、もう一つの顔がある。パンクロックバンドのヴォーカリストだ。2022年、映像作家・小島淳二氏により彼の半生が『RIGHTS!パンクに愛された男』として映画化されると、氣志團の綾小路翔など若い頃に彼に影響を受けてきた著名人たちが、コメントを寄せた。
400年の伝統を持つ有田焼で、なぜドクロなのか――。その答えは、パンクロッカーでもあるカズキさんの人生の歩みにあった。
■ラジカセから流れてきた音の衝撃
「なんやろかこれ! 俺もやりたい!」
ラジカセから流れてきた音を聞くなり、身体にバーンッと電流が走ったような衝撃を受けた。中学1年生のカズキさんは、初めて耳にしたパンクロックに、一瞬にして心を奪われた。ザ・クラッシュの「White Riot」は少年にとって、特別な曲となった。
「こういう音楽のあるったい?」
「もっとすごかとのある」
興奮気味に尋ねるカズキさんに、海外アーティストのレコードコレクターだった2番目の兄は、セックスピストルズ、ダムド、ストラングラーズ、ザ・ジャムと、70年代後半のイギリスのパンクを教えてくれた。祖母にこっそりお願いしてギターを買ってもらうと、耳で聞いた音を頼りに夢中で弦を鳴らし始めた。
県内の進学校に入学すると、音楽好きの同級生が集まりパンクバンド「The CRACK」を結成。休日には友達の父親が勤める鉄工所を借りて練習を続けた。
髪をツンツン尖らせ、父のワイシャツを破いてペイントした服を着て歩いた。「武富さんとこの息子や……」とすぐに噂が広まる地元が大嫌いだった。
■大嫌いだった地元を離れ、東京へ
実家は大正5年(1916)創業の有田有数の窯元。伝統や家柄を重んじる父は3兄弟を厳しくしつけた。家や学校での「こうあらねばならない」をぶち壊してくれたのが、パンクだった。
1984年、大学進学を口実に上京。高校の同級生と組んだバンド「The CRACK」と友人たちのバンド「The MARIAN」から上京したメンバーが集まり、両バンドのパートが補い合う形で「CRACK The MARIAN」が誕生した。
楽曲の作詞をはじめたカズキさんは、ある日、ふと思い立ち、意外な行動に出る。
「俺だけ親に仕送りをもらいながら学生しよった。自分が書いてる歌詞と矛盾した生き方をしよるんやないかなって。なんかダサいと思って大学を辞めた」

息子の中退を知った父に勘当されると、日雇いバイトで稼ぎながらバンドを続け、友人の下宿先を転々とした。
上京から4年目の1988年、ついにチャンスが巡ってくる。新宿ロフトでの前座出演を機に、音楽事務所と契約。2年後、「CRACK The MARIAN」としてメジャーデビュー。ライブやメディア出演も増え、充実した日々を送った。
しかし、デビューから2年が経つ頃、事務所が経営破綻。30歳を迎える頃には、メンバーの関係も悪化し、1996年、「CRACK The MARIAN」は活動を休止した。
■追い風が吹き始めたと思いきや…
それでも、音楽との縁が切れることはなかった。パチンコ店で偶然出会った「ヒルビリー・バップス」「ザ・タイマーズ」のウッドベース担当・川上剛さんに声をかけられ、パンクバンド「JUNIOR」を結成。
2年後、父が亡くなる数年前から、しきたりの通り一番上の兄が家業を継いでいた。カズキさんの東京での暮らしが変わることはなかった。
2009年、ベスト盤の発売を機に「CRACK The MARIAN」は活動を再開し、翌年には、ライブハウスを経営していた現在の妻と結婚。川上剛さんと組んだバンド「JUNIOR」では2012年、台湾での海外フェス出演も果たした。
追い風が吹き始めたように見えたカズキさんの人生が、一瞬にして暗転する――。

2013年3月のある日。妻の実家で突然倒れ、救急車で病院へ運び込まれた。脳幹出血と診断された。この時、47歳。発症から短時間で意識を失い倒れ、最悪の場合は数時間で亡くなってしまう恐れもある病だ。
一命を取り止めたものの、左半身に麻痺が残った。歩くこともできず、食器を持つ左手はぶるぶると震えた。
「もうすぐ渋谷でライブがあるんです。この点滴棒はレンタルできますか?」
点滴交換に訪れた看護師さんに尋ねると、無言で立ち去られた。
「車椅子でライブに出るのも面白いかな……」
■病床を訪れた母からの帰宅要請
病室のベッドで、2カ月後のライブのことばかりを考えていた矢先、見舞いに訪れた母から、思いもよらぬ話を聞くことに。
「家が差し押さえられた。一度、有田に帰ってきて」

父亡き後、会社を継いだ一番上の兄の体調が思わしくないことは、地元の友人から聞いていた。一番上の兄のことも家業のことも気にはなった。目の前のライブのことで頭がいっぱいだった。
「こん時が一番きつかった。ちゃんと立てるようになるとかなって。ライブも何本かキャンセルになってしまったし。JUNIORのメンバーには、『もし俺が歌えんくなったら、他のボーカルを入れてくれ』って頼んだ。その時は、歌詞を書いたり曲を作ったり、俺は裏方をするしかないかなって」
Tシャツが汗でびっしょりになるまで、毎日リハビリに励んだ。
その甲斐あって、倒れてからおよそ3カ月後の5月には、「JUNIOR」のステージに立つことができた。宮城県南三陸町での復興支援ライブ。震災以降、毎年欠かさず訪れてきた場所だ。
無事にステージを終えると、喜びと同時にほっとした。「人間ですか? って、医者もびっくりしとった。まだまだ歌えるって思ったね」。
■安い輸入品に押され、衰退した工場
ほっとしたのも束の間、厳しい現実がカズキさんを待ち受けていた。
ライブを終え、有田に様子を見に帰ると、会社は2億9000万円の負債を抱えていた。家業を継いだ兄とは連絡が取れず、2番目の兄は入院中。最盛期に400人ほどいた従業員は、30人ほどに減っていた。

工場のガス代や電気代を支払うため、母は親戚からお金を借りていた。仕入れ先への入金や従業員への給料も支払えず、「これからどうするんですか?」との従業員の問いかけに、返す言葉もなかった。
バブル崩壊以降、旅館や料亭などの大口取引先の減少に加え、安価な輸入品の流入で有田焼の需要は急落。実家の工場も追い詰められ、会社を継いだ兄は、いつしかホテルに寝泊まりするようになり、やがて行方がわからなくなった。
■「自分だけ東京に帰ることはできんやった」
母と父の代に会社を支えてくれていた税理士のもとに相談に行くと、「一度会社を清算して、新会社としてスタートさせる方がいい」とアドバイスを受けた。
「あんたが社長になんしゃい」
税理士の言葉が重くのしかかった。
「その時のことは、思い出したくもなかけん……忘れようとしとる」
言葉を探すようにカズキさんは続けた。
「もう、それしかないんやろうなという感じかな。『武堅(たけけん)(屋号)をなくしたらいかん』て、銀行の人も町の人も、家族以外が会社を残そうと動いてくれとるなかで、自分だけ東京に帰ることはできんやった」
2013年12月、15人のスタッフと「親峰武堅(しんぽうたけけん)」を立ち上げた。おちょこから大皿までの業務用食器を作る「親峰」ブランドと、明治初期から続く「武堅」ブランドを引き継いだ。長年勤めてきた高齢の職人たちのなかには、引退していく人もいた。
■おもしろき事なき有田をおもしろく
経営も有田焼もゼロからのスタートだった。音楽のつながりを頼りに福岡で「SAI建築社」を営む惠美須健也さんに相談に行くと、息子の遼馬さんが専務として現場の実務をサポートしてくれることに。地元の陶磁器組合理事たちやそこで働いていた同級生も力を貸してくれた。
「嘘は、好きじゃない。できんことは、できん」と言い切るカズキさん。最初は職人に習い、業務用食器の絵付けから取り組んでいった。「経理とか数字のことは、わからんけど、絵を描くのはやっぱり楽しかった」

自分ができることを進めていく。
「今まであったものをそのままやるのは苦手。自分が面白いと思えることじゃないとつまらん」。引き継いだ有田焼でパンクを表現した新ブランド「BLOW」を立ち上げ、所属する2つのバンド「CRACK The MARIAN」「JUNIOR」とのコラボ作品をつくった。

毎年100万人以上を集める有田陶器市にも着目した。
「有田焼にはまったく興味がなかったけど、400年も続いとるってことは、すごいんじゃないかって。せっかくなら有田で面白いことをやりたい。俺ができること、パンクロックをやろうと思った」
■有田焼×パンクの試み
陶器市を主催する組合に企画書を出すと、「タダカっちゃん(カズキさんの父・忠勝さん)には、世話になったけん」と父を慕うひとたちが協力してくれた。
「父の力を見せつけられた」とカズキさん。2016年、有田焼400年の記念年に、クラウドファンディングで178万5000円の資金を集め「CRACK The MARIAN」主催のパンクロックイベントを開催した。
ライブハウスのない有田で会場探しから設備の準備、当日の運営まで、地元の友人たちも手を貸してくれた。運転資金ゼロからの試みだったが、翌年には窯元や企業から協賛を集めて開催できるようになった。
手応えを感じはじめた2020年、コロナ禍に見舞われる。取引先のホテルや居酒屋は次々と休業に追い込まれ、業務用食器の注文は激減。800万〜900万円あった月商は半分まで落ち込んだ。116回を数える「有田陶器市」は延期となり、WEB陶器市への参加を機に親峰武堅もネットショップを立ち上げた。
コロナ禍の突破口になればとカズキさんは、唯一無二の有田焼を作ろうと思い立つ。
活路を見出したのは、パンクで繋がる人たちとの会話だった。
「有田焼でドクロを作って、カズキさんが絵を描いたら面白いんやない?」とSAI建築社の惠美須健也さんが口にした。彼はカズキさんが窯元になったばかりの頃から、相談に乗ってきた人物だった。
パンク・ファッションにも用いられるドクロ。一般的には死を連想させるが、パンクの世界の一部では「無常」「再生」「平等」のシンボルともされる。ドクロで生命の尊さを表現できると考えた。
「やってみましょ」
その場にいた専務の一声で、プロジェクトは動き出した。
■食器だけでは厳しい…有田焼の技術を結集した「ドクロ」
最初の壁は、ドクロの複雑な形状の再現だった。有田焼で人形やフィギュアを手掛ける「型屋」が力を貸してくれた。カズキさんの同級生だった。
焼物は窯で焼くと縮むため、実物の1.3倍の人体模型から3Dプリンターで型を作成。その型を用いて、頭頂部や頬、下あごなど、5つの精巧な石膏型が完成した。
型ができると「生地屋」に持ち込む。原料を流し込み、成型に入る。素焼きを終えると、カズキさんの出番。有田焼特有の藍色の絵具(呉須)で絵付けを施す。焼成職人が釉薬をかけて、1260度で16時間焼成すると磁肌が真っ白になる。

最後は金色の絵具を入れて、3度目の焼成で仕上げる。すべてのパーツが揃えば、ボルトで顎を連結して完成……とは、いかなかった。
パンクを愛する焼物の素人によるアイデアを、職人たちが高い技術で支えた。焼物が縮む計算式を間違えて、子どもの頭蓋骨くらいに縮んでしまったこともあった。焼成後に縮む顎のパーツの幅が合わず、顎関節が噛み合わなかった。何度も焼成の試験を重ねることおよそ2年、有田焼の技術を結集した「骸(MUKURO)」が誕生した。材料費だけで100万円を超え、総額では200万円ほどの試作費用を費やしていた。
「有田焼の需要も窯元も減ってきとる。有田焼で何かしようと思った時に、食器にこだわっとったらきつい。伝統があるけん決まったやり方も大事やけど、そのままやりたいとは俺は思わん。新しく作られる音楽も50年代のロックンロールがもとになっとったりする。エルヴィスプレスリーやチャックベリーに影響を受けながら、自分の音でやるみたいな。伝統を守りながら、ぶち壊すところはぶち壊す。パンクは、あるものをぶち壊すところからはじまる。音楽も有田焼も似とる。残していくためには、変わっていかんといかん」

■有田焼のドクロ、パリコレへ
こうして完成した「MUKURO」は、かつて有田焼が海を渡ったように、世界への扉を開く。

2023年10月、有田焼のドクロがパリコレクションのランウェイに登場した。専務の知人が主催する高級腕時計の展示会に飾られていた「MUKURO」に、パリコレ関係者が目をとめたのがきっかけだった。
著名デザイナーたちのショーと並び、「MUKURO」を単独で紹介する3分間ほどの時間が設けられた。「あまりに精巧な造りに、焼物だと信じてもらえないほどでした」とランウェイを歩いた専務の惠美須さんは振り返る。その場でドバイの実業家から購入の声も上がったが、750万円の価格設定が障壁となり商機を逃した。
パリコレの反響は国内にも波及。「いくらで買えますか?」との問い合わせがくるようになり、「ドクロを作っているところ」と直接工場を訪ねてくるひとも現れた。さらには、「こんなに面白いものを作るひとがいる有田なら」と、新聞記事を読んだ陶器作家が有田に戻ってきた。

「最近では窯元の銘だけではなく、作家の名を冠した作品も。有田焼も少しずつ変わってきているようです。そうしていかないと作家が育たず、他の地域に出て行ってしまうんです」。親峰武堅で働く、有田焼の染付作家は語る。
■矢沢永吉さんのオフィシャルショップに
さらに音楽を通じたつながりが、「MUKURO」を思いがけない場所へと連れて行く。
きっかけは、2022年に公開された自身の半生を描いた映画『RIGHTS! パンクに愛された男』でナレーションを担当した矢沢洋子さんだった。お礼に「MUKURO」を贈ろうと考えたところ、洋子さんから「父の74歳の誕生日にプレゼントしたい」との話をもらった。洋子さんの父は、矢沢永吉さんだ。
「もともと焼物が好きで、カズキさんの作品も大好きでした。MUKUROのお話をきいた時に、ぜひボスにプレゼントしたいと思いました。スカルをモチーフにしたアート作品は数多くありますが、有田焼で表現された作品は、カズキさんのミュージシャンと職人のふたつの顔が合わさって、今までにない新しいアートだと感激しました。ボスをモチーフにして頂いたMUKUROはダイヤモンドムーンの空間にピッタリはまると思い置かせていただいています」(矢沢洋子さん)
額に矢沢永吉さんのトレードマーク「Z」を描いた「MUKURO」は今、東京・赤坂の矢沢さんのオフィシャルショップ「ダイヤモンドムーン」に展示されている。

カズキさんが一つひとつのデザインを手がけるこの作品は、完全受注生産だ。「カズキさんは、アーティスト。すべてが1点もののアート作品なので、値付けが難しい」と惠美須専務。

■右肩下がりの斜陽産業の現実
「会社を継いで以来、一度も安泰な時はない」とカズキさんは、静かに語る。
その言葉の通り2024年に入り、コロナ禍で半減した月の売り上げは、さらに半減し200万円程度まで縮小した。15人でスタートした会社は現在、カズキさんと妻、専務の3人で事業の立て直しに取り組んでいる。熟練の職人たちには、臨時で仕事をお願いしている状況だ。
同年夏、カズキさんは、代々続いてきた主軸事業である業務用食器の新規受注を停止した。かつては500個、1000個単位だった注文は、近年では10個、20個ほどに激減。商品を作れば作るほど赤字が膨らんだ。
昔から大量生産で安く卸してきたこともあり、値上げすることは現実的には難しい。大量生産・大量販売をもとに値付けされた単価をわずかに上げたところで利益は残らない。有田で一番の生産量を誇っていた工場には、今でも一度に1000個の器が焼ける大型窯が10機と数千個にも及ぶ器の型が、もう何年も使われないまま眠っている。
「有田焼の生産事業所数」調査報告(有田観光と有田焼の市場調査:2021年度長崎県立大学受託研究成果報告書)によると、最盛期の1988年に184軒あった有田焼の生産事業所は、2019年には67軒に(個人作家の窯元を除く)。31年間でおよそ6割の事業所が姿を消した。有田町の商工観光課によると、バブル崩壊やリーマンショックなどの経済要因に加え、後継者不足も廃業要因として考えられているそうだ。
■生き残るために、変わる
「受け継がれてきた伝統を残しながら、有田焼に新しい価値を見出していきたい」とカズキさん。その可能性は、「MUKURO」にとどまらない。
手のひらサイズの「有田テトラ」(495〜600円)は、2022年の発売以来、500個以上を売り上げ定番商品に。サウナストーンの開発依頼から「テトラポッド」に着想を得た惠美須専務が製造元から販売認可を取得。あえて用途を決めないことで、お客さんに使い方を創造してもらう遊びを生み出している。

福岡から有田を訪れた客は、「ネットで見つけて手にとってみたくなった」と3個購入。ペーパーウェイトや熱帯魚の水槽で使うという。
新たな販路も開拓中だ。インスタフォロワー12万人のアーティストのファンクラブグッズの制作や、ポップアップストアを展開。東京駅では2021年の発売以来、100枚以上を売り上げているレコード盤をモチーフにした皿(1万5000円)やリストバンド型の器「STUDS TRAY」(5500円)を中心に、2日間で20万円を売り上げた。


新規事業として古民家を改装し、2023年にオープンしたカフェ「CONNECT.」では、作品の直売店と宿泊施設を併設。国内外からの観光客で賑わっている。

生き残るための変革には、痛みをともなう。しかし、小さな兆しは、たしかに生まれている。
■いま自分にできることを、全力で
変わろうとしているのは、会社だけではない。
有田に戻るタイミングで、人生初の携帯電話を持ったカズキさん。スマートフォンを触る手は、おぼつかない。「パソコンもスマホも苦手。慣れんけど、こんなこともできるんやって、びっくりした。俺自身も変わっていかんといかんけどね……あまり順調ではないかな」と照れくさそうに笑う。それでも2024年には、東京、沖縄と離れて暮らすバンドメンバーとオンラインでの音合わせにも挑戦した。
カズキさんは、自分を大きく見せようとしない。
「昔のパンクロッカーたちには、ライオンやトラみたいなひとが多くて、ちょっと怖いイメージがあるかもしれんけど……俺はテンやカワウソかな。ライブは全開でいくけど、普段はおとなしい」
15年連れ添う妻にも話を聞いた。
「倒れた時の回復力は凄まじいものがありました。やっぱり音楽が原動力になっていたんだと思います。カズキさんはアイデアは出すけど、自分で動くことは得意な方ではないんです。でも、それをみんなが面白いと思って手伝ってくれる。みんなどこか惹かれるんでしょうね……文句言いながらもやってくれますからね(笑)」
実際、「CRACK The MARIAN」の事務所がなくなった後も、ファンたちがボランティアでグッズ販売やSNS管理を担ってくれるようになった。「みんなが俺たちを介護してくれとる」と笑みを浮かべる。
嫌いだった地元に戻り、興味のなかった家業を継いだ。いなくなった兄への思いを聞くと、「もう今さらやろ」と笑った。「お袋は18まで育ててくれたし、2番目の兄貴とは今でも喧嘩しながら仲良くやりよる。家族は一番身近な存在」。その言葉に温もりを感じた。
■「こうせないかん」をいかに無視するか
2024年、「CRACK The MARIAN」は結成40周年の節目を迎えた。
41年目も、各地でのライブが決まっている。パンクに出会い、パンクと共に歩んできた男の人生に、ある日、突然加わった窯元の社長業。「社長には向いてないと思いながら今もやりよる。俺にできることは、ないものをつくること。あんまり売れてないけどね」と苦笑するカズキさんの心は今も、音楽と共にある。
「やっぱり俺の生きがいは曲を作って、歌詞を書いて、それが形になること。曲を作るのと同じ気持ちで有田焼も作っとる。死んでも作品は残るけんね。音楽にも有田焼にも『こうせないかん』みたいなものはある。それをいかに無視できるか。そこは、小学生の時から変わらん(笑)。あと1年で還暦やけど、60代もまだまだやれる。バンドは死ぬまで続けていきたか。メンバーたちともそう話しよる。真面目腐らずに無理せず、無茶する」

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サオリス・ユーフラテス(さおりす・ゆーふらてす)
インタビュアー・ライター
1979年、佐賀生まれ。製薬会社勤務を経て、2007年より14年半リクルートエージェントに勤めた後、2021年に独立。福岡を拠点に人の人生を深掘りするインタビューや、経営者のアウトプットサポートをメインに活動中。
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(インタビュアー・ライター サオリス・ユーフラテス)
