パナソニックを退社した私が復帰した理由
■元社員の会社を買収したパナソニック
【田原】岩佐さんは、どんなお子さんだったんですか。
【岩佐】中学生のころはゲームばかりやっていました。中学受験のとき、「合格したらゲーム機を買ってくれ」と親父と交渉しましてね。運よく合格したので約束を守ってもらおうとしたら、「ファミコンやプレステはダメ。パソコンならいい」という話になって、中古のPC98互換機を買ってもらいました。当時はいまと違って、PCを快適に使うのが難しい時代。好きなゲームをやるにも、自分でPCのメインメモリーの領域を空けるなどの調整をしないと遊べませんでした。おかげで中学生のころからPCには明るかったです。
【田原】ゲーム好きが高じて、いまやられているハードウエアに詳しくなったということ?
【岩佐】ハードもそうですが、中学3年生のころにはパソコン通信をやってました。大人の人と、ゲームの情報なんかを文字でやりとりし始めて、世界がワーッと開けた感じでしたね。
【田原】中学時代は、軍事用航空機にも凝っていたそうですね。
【岩佐】はい、いわゆる軍事マニアでした。最初にハマッたゲームは『大戦略』という軍事ものでしたし。とくに興味があったのは航空機。高校2年生のときインターネットと出合ってからは、アメリカ軍のホームページにアクセスして情報を取りにいくようなマニアになっていました。
【田原】パソコン通信で世界が広がったとおっしゃったけど、インターネットはそれ以上?
【岩佐】ひと言で言うと、ドラえもんのどこでもドアを手にいれた感覚です。あれと同じで、ウインドウを開くだけで、普通の高校生では入手できない世界のさまざまな情報にたどりつける。当時は通信環境が悪くて、1つのページが表示されるのに1分以上かかったりしていましたが、それでも衝撃的でした。
【田原】大学生のときは、フライトシミュレーションゲームの記事を大手の出版社の雑誌に連載していたとか。これはどういう経緯で?
【岩佐】当時、飛行機のシミュレーションゲームは海外からの輸入ゲームしかありませんでした。航空機はもともとマニアの領域で、しかも“洋ゲー”で英語がわからないと紹介する記事も書けません。当時、フライトシミュレーションの洋ゲー情報を載せていたホームページは、日本に10もなかった。その中の1つを私が運営していて、編集部から声をかけてもらったのです。その記事の反応がよかったそうで、5年ほど雑誌で連載をやらせてもらいました。
【田原】へえぇ。それはけっこういいバイトになった?
【岩佐】はい。こんなことを雑誌で言うと怒られるかもしれませんが、当時は出版社が儲かっていて、原稿料もいい時代でした(笑)。あと、バイトで、京都のベンチャー企業でプログラマーもしていました。当時の大学生としては、けっこう稼いでいたほうだったと思います。
■パナソニック選択の最大の理由
【田原】学校卒業後は松下電器産業(現パナソニック)に入社します。これも意外だね。
【岩佐】インターネットが私の世界を変えてくれたので、まずインターネットに関係のある仕事をしたいと考えました。私が就活していた2002年当時、インターネットとつながっていたのはPCだけ。将来はPC以外にもさまざまなものがインターネットとつながると確信していたので、「何か×インターネット」の何かに当たる分野を検討しました。
【田原】それが家電だったわけ?
【岩佐】たとえば私が好きな航空機や、運転免許を持っていた自動車も候補でした。ただ、モビリティは人の命がかかっているので簡単には開発ができません。実際、いま実証実験が進められている自動運転も、大きな事故が起きれば開発がストップする。安全性を確立するのに5年とか10年かかるとしたら、人間の短い一生の中で何回トライできるのか。それを考えると厳しいなと。一方、家電は自動車より開発期間が短い。家電×インターネットなら何十回も挑戦できると思って、家電を選びました。
【田原】家電メーカーはたくさんあります。その中で、どうしてパナソニックを選んだのですか?
【岩佐】私がやりたかったのは商品企画の仕事です。しかし、理系の学生は、どのメーカーに行っても、まずエンジニアとして開発をやれ、商品企画をやりたければ開発で修業をしてからだと言われてしまう。その中で唯一、違う反応をしてくれたのがパナソニックだったんです。
【田原】違う反応って?
【岩佐】人事の方がとても熱い人で、「家電×インターネット」の企画をやらせてもらえないなら入らないと言ったら、「わかった、俺が絶対にその仕事をやらせてやるから、うちにこい」と答えてくれました。おそらく私が学生のころからインターネットの世界でしていたことを踏まえてくれたのだと思います。
【田原】パナソニックでは、どんな仕事をしていたのですか。
【岩佐】まさに「家電×インターネット」の商品企画をやっていました。たとえばDIGAというHDDレコーダーに、携帯電話で遠隔地から録画予約ができる「DiMORA」というサービスを立ち上げました。あと、デジカメのLUMIXの電源を入れると写真がぜんぶネットに転送される「PicMate」というサービスを開発。いまではカメラがインターネットとつながるのは当たり前ですが、当時はSDカードを抜いてPCに差して写真を見る時代だったので、画期的なサービスでした。
■「私はゼロから1にするのが好きなんです」
【田原】自分のやりたい仕事ができていたようですが、約5年で退社される。これは、どうしてですか?
【岩佐】私はゼロから1にするのが好きなんです。ただ、大手メーカーはゼロを1にするどころか、1を10にするチャレンジもほとんどしません。いまはまだ需要がないけど、次にこんなものをつくったらおもしろいというところはベンチャーなどの外部に任せて、それが10になったら豊富な資金で買収して、100に育てようという戦略です。これはパナソニックだけでなく、ほかの分野でチャンピオンになっている大手企業にも共通の傾向だったと思います。
【田原】僕は創業者の松下幸之助さんに10回くらい会っていて、あるときこう教えてくれました。「田原さん、うちには東京に研究所がいくつかある。そこが開発したものを、うちがドーンと大量生産するんだ」。でも実際、研究所は東京になかった。幸之助さんが研究所と呼んでいたのは、ソニーや富士通、NECだった。岩佐さんは、幸之助さん以来の松下方式に不満があったんですか。
【岩佐】昔はそれでよかったと思います。ただ、最近は新しいことをはじめるベンチャーが数年でものすごい規模に成長して、あっという間にパナソニックのような大手のシェアをとってしまうようになった。昔からパナソニックが得意にしていたところと、私が得意なゼロイチの発想にズレがあるなと感じていました。それが退社の最大の理由ですね。
【田原】08年に独立してCerevoを設立する。Cerevoはどういう意味?
【岩佐】Cerevoの「Ce」はコンシューマーエレクトロニクス、つまり家電です。「revo」はレボリューション。従来なかった家電をつくって、世の中をガラッと変えようという思いを込めて名前をつけました。
【田原】僕は起業家にもたくさん会っていますが、その多くはITベンチャーで、岩佐さんのようにハードウエアで起業する人は珍しい。ハードウエアベンチャーが少ないのは資金面のハードルが高いからだと思うけど、そこはどう乗り越えましたか?
【岩佐】1990年代にハードウエアで起業すると、少なくても5億、10億円は必要でした。でも、00年代になると1億〜2億円で起業できる環境が整ってきた。いまはもっと低くなって、5000万円あればハードウエアベンチャーをつくれます。
【田原】じゃあ岩佐さんも楽だった?
【岩佐】いえ、私はタイミングが悪くて。起業したのが08年で、パナソニックを退社して資金調達をはじめた3カ月後にリーマンショックがありました。どこに行ってもお金がない状況で、本当に苦労しました。当時、日本にベンチャーキャピタルは80社ほどありましたが、70社近く回ってなんとか目途がたちました。
■さまざまな投資家を回った。その1つがパナソニックだった
【田原】最初に無線LAN搭載のデジタルカメラをおつくりになったそうですね。これも「デジカメ×インターネット」だと思いますが、パナソニックでおつくりになったものとは違うんですか?
【岩佐】Cerevoでは、インターネットにつないで映像を生配信できるカメラをつくりました。孫(正義)さんがユーストリームという映像生配信の会社にドンとお金を入れたのが10年の5月。その半年前に発表して売り始めました。それが最初の製品になります。
【田原】会社は順調でしたか。
【岩佐】はい。最初は常勤が私1人、アルバイト1人からスタート。1年で6人になって、一番多いときで社員数は96人まで増えました。
【田原】Cerevoを10年やって順調だったのに、今回、パナソニックに出戻りをして話題になっています。具体的に言うと、CerevoがShiftallという子会社をつくってパナソニックに売却。岩佐さんはShiftallのCEOになった。これはどちらからアプローチがあったんですか。
【岩佐】両方です。まずCerevoは資金調達をして拡大をしたいと考えていました。ベンチャー企業は投資と成長がワンセット。さらに成長を続けるためには、新しく投資を受けることが必要でした。そこでベンチャーキャピタルを中心にさまざまな投資家のところを回っていたのですが、その中の1つがパナソニックでした。
【田原】パナソニック側は?
【岩佐】お話しに行ったのがパナソニックの宮部義幸専務で、「投資もいいけど、ちょっと助けてくれや」と。どういうことかと詳しく聞いてみると、パナソニックは失われてしまったアジャイル開発をまたやりたい、そこを手伝ってくれないかというお話でした。
【田原】アジャイル?
【岩佐】開発手法の1つです。かつてソフトやハードの開発は、順序立てて1つずつクリアしていき、100点満点になってから世に出す「ウォーターフォール」という手法が主流でした。それに対して、粗削りの段階で市場に出して、ユーザーの反応を見て修正していく手法を「アジャイル」と言います。いまのベンチャー企業などはスピード感のあるアジャイルで開発します。パナソニックも昔は社内にアジャイルの機能があったけれど、いまは失われているので、一緒に組んでノウハウを伝えてくれという話でした。
【田原】その話、どう思いました?
【岩佐】最初は、こちらから投資のお願いをしに行ったのに、重たい宿題をもらってしまったなと。でも、いろいろと考えた結果、話を受けることにしました。私は日本生まれの日本人。もともと好きな業界でもあるので、日本の家電業界に元気になってほしいという思いはずっと持っていました。私は18年で40歳で、人生の折り返し地点を迎えることも大きかった。これまでお世話になった業界に私の力で何か返せるものがあるなら、いまだろうと。幸い、声をかけてくれた宮部専務や現社長の津賀一宏さんも含め、経営陣には見知った人が多く、いいもわるいも基本的な考え方はわかっています。まったく知らない環境ではなく、パフォーマンスを出しやすいかなと。
■大企業でゼロイチを実現する条件
【田原】Shiftallでは具体的に何をするんですか。
【岩佐】2つあります。1つは、Cerevoのときと同じく、世の中にまったくない商品をゼロイチで出していきます。パナソニックの資本は入りましたが、そこは独自にShiftallブランドでやっていきます。もう1つ、パナソニックの中で生まれつつある新しいものを一緒に商品化することもやっていきます。
【田原】Cerevoでやっていたのは、ニッチな商品ですよね。独自でやるといっても、マス向けのパナソニックと合うんですか? そこが合わなくて岩佐さんは独立したんでしょう?
【岩佐】少し誤解があるかもしれません。じつはパナソニックはニッチなものもたくさんつくっています。たとえば1個10万円もする音響スタジオ専用の照明もつくっているし、松下の創業製品である二股ソケットもまだ販売しています。なので、ニッチだから企画が通らないということはありません。私が昔、難しいと思ったのはゼロイチの企画です。
【田原】いまのパナソニックはゼロイチができるんですか。
【岩佐】10年前とは確実に変わっています。変わりたくないという人もいるかもしれませんが、危機感を持っている人のほうがずっと多い。とくにトップの危機感が強いことにポテンシャルを感じます。日本のものづくりはボトムアップの傾向がありますが、パナソニックはトップダウンが効き始めている印象です。
【田原】岩佐さんの会社は具体的にどんな商品を出すんですか。
【岩佐】具体的なことはまだ言えないんですが、少しだけ踏み込んで言います(笑)。たぶんモノの外見だけを見ると、従来の商品と変わらないものが出てくる。でも、中に入っているソフトウエアや仕組みはまったく違う。たとえば自動運転だって、見た目は普通の自動車ですよね。でも走り出したらまったく違う体験ができる。それと同じことが、たとえば電子レンジや冷蔵庫、電球といった家電で起きるイメージです。
【田原】頑張ってください。
■岩佐さんから田原さんへの質問
Q. 人生100年時代、仕事観はどう変わりますか?
非常におもしろい時代になりますよ。まずiPS細胞など医療の技術が進んで寿命が延びる。一方、AIで一部の仕事は代替されて、BI(ベーシックインカム)で働かなくても生きていけるだけの収入は得られる。その結果、労働は必須じゃなくなり、人生の中で自由な時間が劇的に増えることになるでしょう。
そうなると、仕事の定義も変わる。これまでの仕事はAIやロボットがやるから、もう組織からは与えられません。将来、仕事は自分でつくるものになってくる。たとえば何かボランティアをしたり、地域コミュニティーの手伝いをしてもいい。これからは、広い意味で社会参加することを仕事と呼ぶようになるかもしれません。
田原総一朗の遺言:社会参加が「仕事」になる!
(ジャーナリスト 田原 総一朗、Shiftall CEO 岩佐 琢磨 構成=村上 敬 撮影=宇佐美雅浩)
