日本はヤバい…真珠の王者『MIKIMOTO』が世界の大金持ちに衝撃を与えたワケ
砂糖やコーヒーから始まった「ラグジュアリ(贅沢品)」を、ダイヤモンドの独占供給、エルメスやLVMHのプレミアム戦略、ユニクロやザラのマーケティングから「7つの大罪」を満たすGAFAまでを1本の線で繋げ、世界を回すラグジュアリの本質に迫る『贅沢と欲望の経営史 あなたはなぜ今日もスタバに行ってしまうのか』(光文社新書)。
本記事では、ラグジュアリの代表である宝石から、ダイヤモンドと真珠の価格のカラクリに迫ります。
【前編】『なぜ宝石のなかでダイヤだけが「特別」なのか…希少性を刷り込んだ「価値操作」の真相』よりつづく
(本記事は、坂出健『贅沢と欲望の経営史 あなたはなぜ今日もスタバに行ってしまうのか』(光文社新書)の一部を抜粋・編集したものです)
養殖真珠のパイオニア・ミキモト〜ブランドは「生まれ」から「編集」へ
日本発の世界的宝飾ブランド、真珠のミキモト(MIKIMOTO)を見てみましょう。現代の「宝石の王様」はダイヤモンドですが、20世紀初頭は、真珠がその地位にいました。
かつて真珠の世界的産地だったペルシア湾では、年間約4〜5000万個もの真珠が採れました。20世紀初めには、フランスの宝石商ローゼンタールとインド・イギリスの商人たちの間で真珠をめぐる戦いが起こります。
ローゼンタールはペルシア湾やベネズエラの産地をほぼ独占し、真珠の流通をパリ経由に変えます。そして買い占めた真珠の供給量をコントロールし、市場の価格を意図的に吊り上げました。この供給支配こそが、真珠バブルを維持する鍵だったわけです。
20世紀初頭には、アメリカで急速に台頭した「ニュー・リッチ」たちが、真珠を身に着けることで自分たちのステータスを誇示しました。真珠需要が激増したアメリカは1915〜1916年のわずか2年間で6000万個以上の真珠を輸入します。小説『グレート・ギャツビー』に描かれるような舞踏会文化と相まって、大富豪たちが真珠を争って買い求めた結果、価格は天文学的な水準に達します。
1900〜1920年代、高級ジュエラーのティファニーやカルティエも、真珠を「ダイヤモンドを凌ぐ最高級の宝石」として扱いました。当時の天然真珠は「海が偶然生み出す奇跡」として、同等の重さのダイヤモンドよりも高価で取引されていたのです。
養殖真珠が世界を変えた「日本の逆転劇」
欧米でバブルを引き起こしていた真珠に、全く別の角度から風穴を開けたのが日本です。明治時代、日本は深刻な貿易赤字に直面していました。そこで政府が推し進めたのが「殖産興業」、つまり西洋列強に対抗するために自ら産業を興す政策でした。政府が生糸の生産と並んで後押しをしたのが、真珠の養殖でした。
この挑戦に人生をかけたのが御木本幸吉です。彼は1893年、世界で初めて真珠の養殖に成功し、アコヤガイの繁殖から加工・販売まで一貫して手がける「御木本王国」を築きます。1916年以降、日本では商業ベースでの養殖真珠生産が本格化し、「ミキモトパール」として海外にも展開されました。
その販売ルートは大きく二つに分かれました。一つは直売ルート。御木本真珠店の海外支店や代理店で「ミキモトパール」「ファインパール」として、天然真珠の75%の価格で販売しました。もう一つは、日本の真珠商が落札し、中国やインドのディーラーを通じてアジアや欧米市場で販売されるルートです。
この販路では養殖真珠が天然真珠と一緒に売られたため、欧米の宝石市場に激震が走ったのです。ミキモトの養殖真珠は、天然真珠と同じ品質なのに4分の3の値段で買えたため、天然真珠の価格を守りたい欧米の宝石商たちは猛反発します。
1921年にはロンドンの新聞に「日本産のニセ真珠が高額で売られている」という「真珠詐欺事件」の見出しが躍ります。「養殖真珠は偽物なのか」「本物と見分けはつくのか」という議論が巻き起こり、欧米の真珠業者は「真珠シンジケート」を組織して、養殖真珠排斥運動を起こしました。
最終的に、養殖真珠が本物の真珠かどうかを決定する「真珠裁判」がパリで開かれました。そこで、ミキモトの養殖真珠は「科学的に天然真珠と何ら変わりない」と証明されました。
「偽物」という攻撃に対して「真理」で対抗した姿勢は、ミキモトの根底にある「誠実さ」と「品質至上主義」を象徴しています。イミテーシヨンを作るのではなく、生物の生命力を借りて本物を作るというアプローチは、自然と共生する日本的な感性の表れでもありました。
シャネルとミキモトの共通点
真珠の天然・養殖論争の風向きを変えたのがココ・シャネルでした。1926年、シャネルは黒一色のシンプルな「リトル・ブラック・ドレス」を発表します。不健康に体を締め付けるコルセットから女性を解放し、誰でも着られる「自由」なドレスとして、当時の女性たちから熱狂的な支持を受けました。
そして彼女は、真珠についても型破りなアプローチをとります。天然と養殖をミックスし、「本物と偽物の境界なんて気にしない」という新しい美の感覚を提示したのです。このスタイルはアール・デコ文化と共鳴しながら、パリ・ニューヨーク・ロンドンで同時に流行していきました。
天然真珠は偶然に依存したものでした。ローゼンタールによる供給制限に見られるように、ここでの贅沢とは「限られた者だけが手にできる特権」であり、他者を排除することで成立するステータス誇示の手段でした。
それに対して、ミキモトが提示した贅沢(養殖真珠)は、知性と技術によって生み出されたものでした。御木本は、自然の偶然を人間の意志で再現することで、一部の大富豪だけのものであった真珠を、より多くの人々へ広げました。これは、贅沢を選ばれた人の特権から、努力と美意識によって誰もが享受し得る価値へと民主化したことを意味します。
さらに、養殖から加工、販売までを自社で行う垂直統合は、当時の世界市場において極めてユニークでした。天然真珠を混ぜて売るような不透明な流通とは一線を画し、「ミキモト」というブランド名を冠して堂々と販売したことは、自らの技術で生み出した美に対する絶対的なプライドの証でした。
シャネルが天然と養殖をミックスして身に着けたことは、「その真珠がどこから来たか(出自)」よりも「どう美しく見えるか(表現)」に価値を置く新しい贅沢観を提示しました。ミキモトは、その「新しい美の素材」を安定して供給することで、ヴィクトリア朝的な硬直した階級社会を壊し、現代の「自己表現としてのファッション」を裏側から支える存在となったのです。
これは同時にシャネルが、王族・貴族の権威を「贅沢さ」の源とする他のラグジュアリ・ブランドと一線を画する特質でもあります。
ちなみに、1929年に始まった世界大恐慌の影響を受け、さらに養殖真珠の普及を背景として、1930年にはフランスの銀行が天然真珠ディーラーに資金を貸さないと宣言すると、天然真珠の価格は85%も下落。フランスによる世界の真珠市場独占時代は終結します。天然真珠市場とともに、ペルシア湾の真珠採取業も壊滅し、仕事を失った真珠採取業者が次に目を向けたのが石油の開発でした。
つまり、ミキモトの真珠は、その後アラブ世界に爆発的な利益をもたらすペルシア湾の石油開発のきっかけをつくったともいえます。
「贅沢のルール」のアップデート
かつて、真珠や宝石の価値は「どれだけ希少な自然の偶然か」という物理的な真正性に縛られていました。しかし、ミキモトが養殖に成功し、シャネルがそれを「本物と混ぜて」使ったことで、価値の基準が劇的に変化しました。ミキモトは、真珠を「手に届かない神話」から地上に引き下ろしました。真珠は「家宝」として金庫に眠るものではなく、日々のコーディネートを完成させるための「視覚的なパーツ」になったのです。
天然真珠しか存在しなかった時代には、真珠を身に着けていることは「王侯貴族や金持ちである」というような、動かしようのない事実(身分)の提示でした。それが、養殖真珠の登場により、中産階級の女性も手にできるようになりました。ここで初めて、「あえて真珠をカジュアルに身に着ける」「あえて偽物と混ぜる」といった「編集」による自己表現が可能になったのです。
これは、社会学者・現代思想家のボードリヤールが言う「自分らしさを見せるための消費」の先駆けといえます。ウェッジウッドやリバティがそうであったように、ミキモトもまた「生活の芸術化」を推し進めました。現代のファッションにおいて、服やジュエリーは「いくらしたか」という金額の誇示よりも、「その記号(ブランドやスタイル)をどう解釈し、自分という文脈に組み込んでいるか」という知的なゲームの側面が強まっています。
ミキモトの真珠は、まさにそのゲームにおける「最も洗練された駒」の一つとなったのです。現代人がユニクロのシンプルなニットにミキモトの真珠を合わせるというスタイルを楽しめるのは、御木本が「贅沢の独占」を壊し、シャネルが「贅沢のルール」を書き換えたからなのです。
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