【山本譲二 我が道11】ピンク・レディーに吹き飛ばされた 本名・山本譲二で再デビュー
北島三郎さんに押しかけ弟子入りしたのが1975年3月のことでした。住み込みではなく、通いの弟子だったので、北島のオヤジに付いて旅に出かけたことが多かったです。
オヤジは怖いイメージがありますが、自分には意外と優しかった気がします。こっぴどく怒られたのは、仙台での公演に行く列車に寝坊して乗り遅れた時です。慌てて追いかけましたが、自分が着いたのはショーの開演直前でした。会場に入るやいなや、オヤジから目から火が出るようなゲンコツを食らいました。ショーが終わるまでずっと正座でした。
ちょうどオヤジが作詞・作曲を始めたころです。移動の鈍行列車の中、よくギターで曲を作ったりしていました。「おい、伊達。これ覚えておけよ」とテープレコーダー代わりに、出来上がったメロディーを聴かされました。「ここ、どういうメロディーだったっけ?」「先生、こんな感じです」「そうだったな」みたいな会話がよくありました。
同年末に行われた北島三郎米国ロサンゼルス公演は連れていってもらえず、オヤジ不在の間に「全日本歌謡選手権」というオーディション番組に出演しました。五木ひろしさんや八代亜紀さんらに続き、10週勝ち抜いて第43代チャンピオンになりました。76年7月には本名の山本譲二として「そばにおいでよ」を発売。ちなみに同時期にデビューしたのがピンク・レディーです。彼女たちの猛威に自分の再デビューは吹き飛ばされてしまいました。
付き人になって2年。オヤジから「いくらもらってるんだ?」と聞かれました。「7万です」と正直に答えると「それじゃ、男として生活していけないだろ」と給料を15万円に上げてもらいました。ある日、富山での公演の前にオヤジから「今日、1曲だけ歌え」と突然言われました。「先生、衣装がありません」「オレのがあるだろう。どれでもいい。オレは白がいいと思うよ」。オヤジの衣装を借りて着替えました。姿見で見ると、ジャケットはまだしもズボンの丈がどうしても短いのです。ズボンを腰まで下げて何とかはきました。「失礼します。入ります」とオヤジの楽屋に入ると「なかなか似合っているじゃないか」と大笑いです。「ところで先生、歌は?」と聞くと「お前に作った『女の十字路』があるじゃないか。バンドにも言ってあるよ」と初ステージを踏むことになりました。
ステージ袖でスタンバイし、着替えに戻るオヤジと交代で自分がステージに立つ段取りでした。しかし、金縛りにあったかのように足が前に動かず、ステージへ出て行けないのです。「出られないスよ」と近くにいたスタッフに訴えると「バカヤロー、とにかく出るんだよ」と小声で怒鳴られました。オヤジの歌でまだ興奮している客席の雰囲気があまりにも強烈で、名もなき若造の出る幕を阻んでいたのです。これがプロ中のプロ歌手との力量の壁だと痛感しました。
◇山本 譲二(やまもと・じょうじ)本名同じ。1950年(昭25)2月1日生まれ、山口県下関市出身の76歳。早鞆高3年の67年、夏の甲子園出場。74年に「伊達春樹」として「夜霧のあなた」で歌手デビュー。北島三郎に師事し、78年「山本譲二」として再デビュー。80年発売の「みちのくひとり旅」が81年にかけてロングヒット、ミリオンセラーに。NHK「紅白歌合戦」に計14回出場。

