細木数子に撮られた水着姿、人気絶頂での“失踪”、自宅爆発事件…歌手・島倉千代子の人生はドラマ以上に壮絶だった
4月より配信が始まったNetflixの連続ドラマ『地獄に堕ちるわよ』は、いまさらここで紹介するまでもなく、占い師・細木数子(1938〜2021)の人生を戸田恵梨香主演でドラマ化した話題作だ。
【画像】島倉千代子さんは“憔悴しきった表情”で…細木数子さんとのツーショット
本作ではもう一人の主人公というか、狂言回し的な役どころで伊藤沙莉演じる魚澄という作家(架空の人物)が登場する。ドラマは、魚澄が細木の伝記の執筆を依頼され、細木本人のほか関係者に取材して回るなかで知った事柄を回想シーンとして挟みながら展開されていく。魚澄はやがて細木の語ることに偽りがあるのではないかと気づき始めるのだが、そのきっかけとなるのが、戦後歌謡界を代表する歌手・島倉千代子(1938〜2013)と細木の関係に迫ったときだった。(全3回の1回目)

昭和を代表する歌手・島倉千代子。2013年に肝臓がんのため75歳で亡くなった ©時事通信社
細木数子との“蜜月”
ドラマでも描かれているように、島倉は39歳だった1977年、親密な関係にあった医師の男性が莫大な借金を負い、それを全額肩代わりするはめに陥ったところで同い年の細木と出会う。以来、細木は島倉を自宅に住まわせるとともにプロダクションを設立し、マネージャーとして彼女の芸能活動を取り仕切ることになる。島倉は細木がもらってくる仕事をこなしながら借金を返済していった。だが、蜜月は5年も経たずして終わり、島倉はやがて細木と袂を分かって独立する。ドラマではフィクションを交えながら、2人のあいだに起こったできごとを生々しく描き出す。
島倉が一時期、細木から援助を受けていたことは事実である。当時の2人の親密さは、雑誌の記事からも垣間見える。たとえば、ある芸能週刊誌では、島倉が後輩歌手の都はるみとの対談にマネージャーの“ママ”こと光星龍からもらったというパンタロンスーツで現れ、それをはるみから褒められると、《昔のわたしならとても着れないものね。でも、ママに「いまのお千代は派手な色のほうが気持ちも引き立つから」っていわれて……》と照れながら語っていた(『週刊平凡』1979年5月24日号)。
細木が撮らせた“水着姿”
光星龍とは細木の別名で、この名前で島倉の歌もいくつか作詞している。都はるみとの対談ではさらに、細木に救われたおかげで生きる喜びを見出し、世間も広がったと島倉がしみじみと口にしたあとで、はるみが《それでヌードにも挑戦。(笑)》と茶々を入れた。これに対し島倉は慌てて《ならないわよ! あれはね、グアムに行ったとき、ママの水着を借りて海に入っただけよ。それがヌードになったなんていわれて、困りますよ》と返している。
水着というのは、パンタロンと同じく細木が島倉のイメージチェンジのためカメラマンに撮らせたもので、ヌードにはいかないまでもかなり肌を露出させていた。もともとカレンダー用に撮ったのが週刊誌にも転載され話題を呼ぶ。島倉はデビュー以来、清純派のイメージが強かっただけにそのインパクトは大きかったようだ。
借金返済のために夜な夜な歌って
このほか、当時の島倉は細木の経営するディスコのママを務めたほか、キャバレーやクラブを夜な夜な回って歌った。じつは彼女は、それまでたびたび声が出なくなる経験があったので夜10時以降は歌わないと決めていたのだが、借金の返済のためその禁を破ったのである。
1980年に細木の事務所から個人事務所に移籍するに際しては、世間では両者の確執が取り沙汰された。当の島倉は、自伝『歌ごよみ』(読売新聞社、1994年)で、独立の理由について、いつまでも細木に甘えているわけにもいかないと思ったことを挙げるにとどめ、《細木さんには本当にお世話になった。彼女のおかげで、私は強い人間になったのだ》と記している。ただ、続けて、次のような感慨を抱いたことも明かしていた。
〈《そして私は、キャバレーやクラブからやっと解放されたのだ。夜十時以後はうたわないという掟を破って、なんとかこなしていたが、たばこの煙がたちこめる場所では、のどにかなりのムリがかかっていた。自分でも明らかに分かるほどだった。/「昼間と夜の仕事を大切にして、長期間で[引用者注:残った]借金を返していこう」/という話し合いが出来て、再び夜十時以降はうたわないという習慣に戻った。キャバレーとのお別れは、やっぱり嬉しかった》〉
『地獄に堕ちるわよ』では島倉を三浦透子が演じており、そのなりきりぶりに驚かされる。三浦は島倉の容姿とは鼻の右下にホクロがあるという以外はほとんど似ていない。しかし、話し方やしぐさなど雰囲気を寄せることで、見事になりきっている。三浦は歌手でもあるだけに、島倉の歌を吹き替えではなく、自ら歌唱しているのも見どころだ。
とりわけ、債権者が押しかけるなかで島倉が新宿コマ劇場でのショーに出演するシーンは強烈な印象を与える。開演前は不安と緊張からうろたえていた彼女が、いざ幕が上がり、一礼して頭を上げるや表情を一変させる。そして歌い出すとともに歌の世界へとたちまち入り込む姿は官能的ですらあり、思わずゾクッとさせられた。観客は島倉の苦難をすでに知ってのことだろう、スタンディングオベーションで迎えた。ちなみにこのシーンで歌われている曲は橋本淳作詞・筒美京平作曲の「捧げる愛は」(1969年)である。
ステージで頭を下げると…「負けないで千代ちゃん」
ドラマでの観客の反応はけっして大袈裟ではなく、前出の自伝によれば、新宿コマ公演の楽日の締めくくりに際し、彼女が涙を流しながら「私的なことでみなさまにはずいぶんご迷惑を……」と深々と頭を下げると、客席の四方八方から「千代ちゃん、頑張れよ! ファンがついてる!」「負けないで千代ちゃん」と声援が飛んだ。さらにはファンが続々と花束を持ってステージに駆け寄り、公演時間が1時間もオーバーするほどであったという。
島倉千代子という歌手が、苦境に陥るたび、ファンが応援したくなる存在であったことは間違いない。先述のとおり、声が出なくなることもたびたびあった。最初に経験したのは彼女が21歳になった1959年で、その季節と場所は本人が語るごとに正月の錦糸町の劇場だったり5月の名古屋での公演だったりと変わったものの、おおむね次のようなできごとがあったという。
歌えなくなった「からたち日記」
そのころの島倉はあまりに多忙で、1日2〜3時間しか寝られない状況が続き、過労のせいか突如として高い声が出せなくなった。それが折悪く公演中で、ステージで当時のヒット曲「からたち日記」(1958年)を歌っていると、低音部ではちゃんと出ていた声が、高音部に入ると途切れてしまう。島倉が思わず「ごめんなさい」と叫ぶと、客席から誰かが彼女に代わって歌い出した。するとほかの客たちも一緒に歌い始め、低音部になるとパッと止まり、彼女がまた歌い出す。そして次の高音部でも観客みんなが……と、いつしかステージと客席が一体となって合唱になっていたという。
後年にいたっても彼女はこのときのことを思い出すたび《私、この話に一番弱いんです。涙が出てきてしまうんです。つらかったのと、うれしかったのと、ありがたかったのと、で》と語っていた(読売新聞解説部『時代の証言者10「歌謡曲」島倉千代子』読売新聞社、2005年)。
ただ、ファンの応援をありがたく思いながらも、完全な歌を聴かせられなかったことに大きなショックを受けた島倉は、このあと自宅に電話して姉を呼び出すと、そのまま品川から列車に乗り、しばらく静岡の友人宅に身を寄せた。人気絶頂にあっただけに、世間では彼女が失踪したと大騒ぎになる。島倉にとってはこれが歌手になって初めて味わった挫折であった。
島倉にはこのあとも幾度となく災難が降りかかる。失踪騒ぎを起こした翌1960年の元日には東京・品川の実家の玄関先で爆発事件が起こった。さらにこの年3月には、ほかの歌手とともに出演予定だった横浜での歌謡ショーに群衆が殺到し、12人が圧死する大惨事となる。島倉はあいつぐ事件や事故に、自分の責任ではないにもかかわらず苦悩した。
公演中に大けがも…
1962年7月には公演中にファンの投げたテープが目に当たって負傷するという事故に見舞われた。このとき治療した医師こそ、後年、島倉が借金を肩代わりし、債権者に追われる原因をつくった男性だった。
母に猛反対された結婚
この年には一方で、プロ野球・阪神タイガースで強打者として活躍していた藤本勝巳と婚約している。結婚式は婚約発表からちょうど1年後、翌1963年10月に予定されていたが、直前に島倉の父が急逝し、せめて四十九日が過ぎてからとの島倉側の申し出で延期され、12月に大阪のホテルで挙げた。しかし、もともと母をはじめ島倉の家族は一家の稼ぎ手である彼女の結婚に猛反対していた。そのため式には全員が欠席する。
阪神前監督の岡田彰布(あきのぶ)には幼少期、父親が阪神の有力な後援者だった関係で、結婚まもない藤本・島倉夫妻が自宅を訪ねてきた思い出がある。このとき、岡田少年のため藤本がトスバッティング用のネットをお土産に持ってきてくれ、島倉にボールをトスしてもらったという。
しかし、幸せな結婚生活は長くは続かなかった。そもそも島倉が結婚を決めた理由の一つには、何かにつけて厳しい母との関係が息苦しくなっていたことがあった。そのため結婚すると家族から逃れるようにして、阪神の本拠地・甲子園球場のある兵庫県西宮に移住、夫の家族と同居を始める。
孤独を決定づけた一言
だが、《私は歌をやめて専業主婦になろうと思ったんです。でもそれについて相手から返事をもらえないまま生活が始まって……》とのちに明かしているように(『週刊文春』1998年5月21日号)、結婚した時点から夫とボタンの掛け違いが生じていた。残念ながら一緒に暮らすうち夫婦の溝はどんどん深まっていく。決定的だったのは、藤本から「奥さんの歌には飽いたなぁ」と言われたことだった。独りぼっちだと思った島倉は、睡眠薬を大量に飲んで死のうとするほど精神的に追い詰められる。
結局、結婚3年で彼女は西宮の家を出た。このとき実家に戻ろうとしたが、母に「二度と敷居はまたがせない」と拒まれる。しかたがないので知人宅を転々とした末、東京・赤坂の家賃2万円のアパートに落ち着き、付き人と運転手の3人でしばらく暮らした。雨漏りがするようなアパートで、お金がなくて3人で2つのインスタントラーメンを分けて食べたこともあったという。それから2年を経て協議離婚が成立、夫の現役引退後の開店資金のほか、彼の借財の一切を島倉が背負うことになった。
それでも仕事は順調で、1966年にはハワイアン風のリズム歌謡「ほんきかしら」がヒットし、新路線を切り拓いたと評される。離婚が成立した1968年には「愛のさざなみ」で日本レコード大賞の特別賞を受賞し、今後も歌っていく自信が生まれたという。
〈「腕を切断するしかない」手術跡がハッキリ残る大けが、“猛反対された”野球選手との結婚→離婚…昭和のスター歌手・島倉千代子の“波瀾万丈”〉へ続く
(近藤 正高)
