「孝景」「教景」が何人もいる!?なぜ同じ名前を繰り返すのか――<朝倉氏>のややこしすぎる名前の謎と、戦国大名の命名事情とは…本郷和人が『豊臣兄弟!』を解説
<天下一の補佐役>豊臣秀長の目線で歴史をダイナミックに描く、夢と希望の下克上サクセスストーリー・大河ドラマ『豊臣兄弟!』(NHK総合、日曜午後8時ほか)。ストーリーが展開していく中、戦国時代の武将や社会について、あらためて関心が集まっています。一方、歴史研究者の本郷和人先生がドラマをもとに深く解説するのが本連載。今回は「朝倉家の名前」について。この連載を読めばドラマ本編がさらに楽しくなること間違いなし!
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欧米では一般人でも「二世」「三世」と名乗る
第十四回の放送は、「金ヶ崎の退き口」の話でした。その虚構と史実については多くの方が解説されるでしょうから、ぼくは少し角度を変えて、「朝倉氏の名前」に言及してみたいと思います。
さて現在、大谷くんが所属するロサンゼルス・ドジャースの二軍(AAA)で、ジェームズ・ティブス三世という外野手が打ちまくっていることをご存じですか。
OPS(打者を評価する指標の1つ)は1.0を軽く超えており、とんでもない若手が台頭してきたものです。
近いうちにメジャー昇格し、ロサンゼルスのドジャースタジアムに登場するのではないでしょうか。
ここで注目したいのは、この「三世(III)」という呼び方です。ヨーロッパやアメリカでは珍しくないのでしょうか?
私たちは教科書で、国王リチャード1世や教皇グレゴリウス4世といった形で、王や教皇の名前に番号がつく例を学びます。ところが、一般の人でも「二世」「三世」と名乗ることがあるようです。
これはどういうことかというと、父と子で同じ名前をつける習慣があるため。たとえば父がジョン・スミスで、彼が息子に同じくジョンと名付けたとします。
すると息子はジョン・スミスJr.(ジュニア)と呼ばれるのです。さらにそれが三代続けばジョン・スミス三世(III)、四代続けば四世(IV)という具合になります。
日本語で「三世」「四世」と訳されると、どこかエラそうな響きになってしまい、少し実感が湧きにくいところがあります。
「朝倉氏」の名前はややこしい
そもそも日本では、自分の子どもにまったく同じ名前をつける習慣は一般的ではありません。

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ところが、戦国大名を見ていくと、これに近い、あるいはそれ以上にややこしい事例がまれに出てきます。その代表例が朝倉氏です。
戦国大名としての朝倉家の初代は、朝倉孝景という人物。
守護の斯波氏から実権を奪って越前国を実質的に支配し、「孝景十七条」という家訓を残したことで知られています。
この人物は、朝倉家全体で見れば七代目の当主にあたり、彼の曾孫(戦国大名としての四代目)に、同じく孝景という人物がいます。
織田信長と戦った義景の父です。
つまり、まったく同じ名前が別の当主に使われているのです。
自分の子にも同じ名前を与える!?
これは偉大な祖先にあやかって同名を名乗った結果ですが、後世の私たちからすると、「孝景といえば誰なのか」が非常に分かりにくい。
そこで、戦国大名初代の孝景については、かつて彼が名乗っていた「敏景」の名を用いたり、法名の「英林」として区別することがあります。
「孝景十七条」を「敏景十七条」もしくは「英林十七条」と呼ぶことがあるのはそのためです。
話はここで終わりません。戦国初代・孝景は、「教景(のりかげ)」という名前も用いていました。そして朝倉家の中では、この「教景」という名前が繰り返し使われます。
朝倉家五代目も教景、六代目も教景、さらには七代目の孝景も一時期は教景だった、というわけです。
さらに面倒くさいことに、七代目孝景は、自分の息子たちに同じ名前を与えています。
五男が教景、八男も教景です。
この八男の教景こそが、有名な朝倉宗滴(そうてき)。
「武士は犬ともいえ、畜生ともいえ、勝つことが本にて候」という言葉で知られる、戦上手の名将ですね。
先祖にあやかって名をつける
先祖にあやかる、という発想は他の大名家でも見られます。
たとえば伊達政宗は、200年ほど前の祖先の名を受け継いでいます。
戦国・政宗のお父さんは輝宗(てるむね)、おじいさんは晴宗(はるむね)ですから、将軍足利義昭から一字をもらって昭宗とする選択肢もあったはずですが、あえて祖先の名を用いたわけです。
ただし朝倉家はそれをくり返している。
それで朝倉家研究では「誰が誰だか分からない」という状況になりがちです。
特定の名前が周期的に登場する「福原氏」
さらに面白い例としては、毛利家の重臣・福原氏があります。
この家では、貞俊(さだとし)・元俊(もととし)・広俊(ひろとし)の名前が世代をまたいで繰り返し現れます。
たとえば九代目が貞俊、十一代目も貞俊。十代目が広俊、十三代目も広俊。十二代と十四代が元俊、といった具合に、特定の名前が周期的に再登場するのです。
その中で有名なのは、関ヶ原の頃に毛利家を支えた十三代目広俊、そして江戸時代初期に福原家の宇部一万石余を確定した十四代目元俊でしょう。
幕末になると、禁門の変で名前が出る福原越後守はこの家の子孫です(ただし血は繋がっていない)。
こうして見てくると、日本では同じ名前をそのまま「二世」「三世」と番号で整理することは少ないものの、実態としてはそれ以上に複雑な形で名前の継承が行われていたことが分かります。
朝倉氏の例は、その極端なケースと言ってよいでしょう。
名前という一見単純なものの背後に、家の伝統や祖先への意識が働いているのですね。
