「王座」に座った”忠臣”ビルング…「オットー死亡説」が招いた動揺とその裏に隠された貴族の「不満」とは

写真拡大 (全2枚)

ヨーロッパ随一の強国は、ひとりの男によって作り上げられた。その名は神聖ローマ帝国初代皇帝・オットー1世。欧州を席巻した苛烈な王の生涯は、戦いの軌跡だった。身内からの反乱にイタリア遠征、そして強敵ハンガリーとの戦争。彼はいかにして数多の勢力を下し、その地位を固めていったのか。

オットー1世の生涯を辿れば、中世ヨーロッパが見えてくる。ドイツの源流・神聖ローマ帝国の歴史を綴った『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』から一部抜粋・再編集してお届けする。

『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』連載第79回

『「大司教」の後任を巡って本国の貴族と「対立」…「遠隔統治」の限界に直面したオットーが決意した“5年ぶり”の「帰郷」』より続く。

奇妙な噂

972年になると、オットーの本拠地ザクセンでは貴族の間で奇妙な噂が流れた。なんとオットーがイタリアで命を落としたというのである。その噂にザクセンは動揺し、ざわめいた。

968年にオットーは、スラブと手を結び執拗にオットーに反抗し続けてきたかのヴィヒマン(若)が遂に斃れたという知らせをイタリアで受け取り、これでザクセンはまずまず安泰だと思い込んでいた。

しかしそれから4年、ザクセン貴族のオットーの長期にわたる不在への不満は日増しに高まっていたのである。オットーが死んだという噂が故意に流されたとしたら、これは反乱一歩手前である。

ザクセンでのオットーの代理人であるヘルマン・ビルングは、これらザクセン貴族の不満を巧みに和らげていた。

忠臣ビルングの警告

そんなビルングがマクデブルクを訪れた。遠くイタリアでオットー2世がサン・ピエトロ大寺院で結婚式を挙げる直前のことである。

ビルングは新マクデブルク大司教アーダルベルトから大歓迎を受ける。

ビルングはまるで王のように迎えられたのだ。祝宴でビルングは王の席に座り、夜には王の寝台で就寝した。

そしてビルングはこのことを直ちにイタリアのオットーに注進させるように仕組んだ。つまり、ビルングの簒奪者のような振る舞いは、オットーの長期の不在に対する抗議表明であったのだ。

後にこの警告の意味を悟ったオットーは帰郷した翌年の枝の主日(復活祭の直前の日曜日)にマクデブルクに入城する際、ビルングに勝る壮麗な入城式を行い、ビルングはビルングでその際、たくさんの従者の列に並んだという。そしてビルングは誰にもまして主君オットーの栄誉をたたえた。

君臣相交わるというところか。ところがビルングはこの直後にこの世を去っている。オットーにしてみれば片腕をもぎとられたようであっただろう。

こちらの記事もおすすめ<『ハプスブルク家の華麗なる受難』が描く「ヨーロッパの中心で輝き続けた一族」の物語』>へ続く。

<もっと読む>『ハプスブルク家の華麗なる受難』が描く「ヨーロッパの中心で輝き続けた一族」の物語