今となっては昔のことですが、港区に沙羅という女が生息していました。

「今夜、食事会あるんだけどどう?」と言われれば飛び入り参加して、必死に“彼氏候補”を探したものでした。

ある日、ようやく彼氏ができて食事会に行かなくなりましたが、その彼にも…。

残念に思って2年半ぶりに港区へ近寄ってみると、そこには以前と全く別の世界が広がっていたのです。

▶前回:同棲中の彼氏にフラれ、借りられる家が見つからない…。絶望するフリーランスの女が下した決断は




同棲していた彼にフラれ、広尾の高級低層マンションから戸越銀座へ引っ越してきて、約3ヶ月。

あんなにこだわっていた港区を離れたけれど、今や私は普通に暮らしている。人の慣れとはすごいものだ。

以前だったら移動はすべてタクシーだったのに、電車にも乗るようになった。

数年前にリニューアルされた戸越銀座駅。木の香りがする駅のホームで電車を待ちながら、ふうと息を吐く。それは少し前の私からは想像できない姿だった。

靴はピンヒールからスニーカーに。キラキラしていたネイルもやめた。時代遅れの勝負服を捨て、残ったのはシンプルなアイテムのみ。

以前はスッピンを隠すためのアイテムだったマスクは、日常生活の一部になった。

気がつけば最近、SNSはInstagramではなくTikTokばかり見ている。

ホームに電車が入ってきた。

ちょうどTikTokを流し見していたスマホから顔を上げ、電車に乗り込む。私は、今の生活がすっかり気に入っていた。



電車を乗り継ぎ、美穂と約束していた『ザ・リッツ・カールトン カフェ&デリ』へやってきた。

「いや〜。まさか沙羅が、そんな場所に引っ越すとは。意外すぎでしょ」

今週は美穂のお母さんが家に来ているらしく、凛ちゃんのことを任せてきたという。彼女は私のことをまじまじと見つめながら、豪快にシャンパンを飲んでいた。

「凛はミルクだから。もう飲めるんだよね」
「そうなんだ。…しかし、自分でも意外だったな〜」
「マジで縁のない駅だよね。で、沙羅はその陽太っていう人と、どうなの?」

急に陽太さんの名前が出てきたので、私は思わずグラスを持つ手を止めてしまった。




「え?ど、どうって…」
「いい感じなんでしょ?今の家だって、その人が紹介してくれたらしいじゃん」
「そうだけど…」

どうなのだろうか。自分でもわからない。そもそも陽太さんが、何を考えているのかわからないのだ。

男の人からのアプローチは、昔はもっとわかりやすいものだった気がする。好きか嫌いか、タイプかタイプじゃないか。

明確な線引きがあり、少しでも好意や下心のある男性はグイグイ来た。そして彼らに好かれるには、外見をわかりやすく磨けばよかったのだ。

しかし陽太さんのような新世代の港区男子たちは、見栄などで女性を選ばない。彼女がアクセサリー的な役割でないのなら、どういう人を求めているのだろうか…。

「恋愛の方法まで昔と変わっていて。どうすればいいのか完全に迷子だよ」
「難しいよね。…って、あれ?藤堂さんじゃない?」
「本当だ。藤堂さ〜ん!」

さすが港区。こういう外が見えるテラス席だと、必ず知り合いに会う。私たちがヒラヒラ手を振ると、彼は笑顔でこちらにやって来た。

「おぉ、沙羅ちゃんに美穂ちゃん。何やってんの」
「見ての通り、シャンパン飲んでます」
「いいね〜。俺も混ぜてよ」
「もちろんです!」

こうして木曜の15時から私と美穂、そして藤堂さんの3人は、通り過ぎる人たちを見ながらシャンパンを飲み始めた。




「藤堂さんは、最近も飲んでますか?」
「もちろん!相変わらず飲んでるよ〜」

こういう港区にずっと生息している、藤堂さんのようなおじさんに会うと妙に安心する。

「女性メンバーはローテーションしていくのに、男性陣の顔ぶれは変わらない」なんて思っていたけれど、確実に新世代の港区男子も台頭してきている。

変わらないものなんて、ないのかもしれない。特にコロナがあって、人々の価値観は変わった。流行も、飲むスタイルもどんどん変わっていく。

「そういえば沙羅ちゃん、引っ越したの?」
「そうなんですよ」
「どこに?」
「戸越銀座に…」
「え!また意外なエリアへ行ったね」

藤堂さんの反応に、思わず笑ってしまった。港区の中心にいるときは気がつかない。港区が最高だと思っているし、むしろそれ以外に選択肢がないのかと思うくらい、周りが見えないから。

でも私はもしかしたら、ずっと無理をしていたのかもしれない。「本来、自分があるべき姿に戻っただけなのかな…」とも思う。

「藤堂さん、彼女はできました?」

私の唐突な質問に、彼は笑っている。

「できてないよ〜。誰か可愛い子いたら、紹介して」

- やっぱり、こういうわかりやすい男性のほうがラクだなぁ。

テラス席の目の前を人が通り過ぎていく。いつの間にか、私たちのシャンパンボトルは空になっていた。


そして、その夜。私はほろ酔いのまま、両親が営む小料理屋にいた。

「えっ。沙羅、本当に戻ってくるの?」

お客さんはすっかり引き、カウンター席には私しかいない。

「うん。この店を手伝おうかなと思って」

全部でカウンター10席しかない、小さなお店。

でも常連さんも多いし、手前味噌だが何より料理が美味しい。だから店内の雰囲気とメニューも少し変えて、日本酒の種類を増やすなどしたら十分採算が取れそうだと思うのだ。




「突然どうしたのよ」
「いや…。結局、帰るべき場所に帰るのかなと思って」

20代はとにかくいい暮らしがしたくて、常にヒールで前のめりになりながら、必死に頑張ってきた。

でも30代に突入して久しぶりに“港区へ復活”したら、時代はすっかり変わっていたのだ。そして気がつけば、もう若者の勢いや流れについていけない自分がいる。

「沙羅も沙羅で、いろいろあったんだよ」

物静かな父が発する言葉には、重みがある。いつもキッチンの中にいて、黙々と料理を作る後ろ姿を見てきたけれど…。いつの間にか、その背中がすっかり小さくなっていることに気づいた。

「お父さんと、お母さんの手伝いがしたいの」
「まぁ、沙羅がいいならいいんだけど…。実はね、お父さんとお店どうしようかっていう話をしてたのよ」

父と母が顔を見合わせている。私が港区で遊び呆けている間、両親は何を思っていたのだろうか。

「今すぐじゃなくてもいいんだけど。もし沙羅が本気なら、とりあえず手伝って」
「もちろん。まずは見習いから始めます」

こうして私は週に半分、実家のお店を手伝うことになった。




ただ、ずっと両親の姿を見てきたはずなのに、飲食店は想像以上に大変だった。永遠に立ちっぱなしだし、体力も気力も必要。

そして当たり前のことだけれど、自分がカウンターの中にいるのと、お客さんとして過ごしているのでは全く見える世界が違う。

「あれ?沙羅ちゃん、戻ってきたの?」

常連のおじさんにイジられても、笑顔で対応する。

「そうなんですよ〜。“出戻り”です」
「沙羅ちゃん、今いくつになったんだっけ?」
「もう!今の時代、女の子に年齢とか聞いちゃダメなんですよ?」

煌びやかではないし、下町の小さな店かもしれない。でもそこに集まってくる人を見るのも好きだし、意外と性に合っていることに気がついた。

またお店が閉まるのが22時半過ぎなので、必然的に実家に泊まることも増えた。でも毎日充実していて楽しい。両親と過ごせる時間も増え、心が穏やかになっていく。

そんなある日の、疲れ果てた帰り道。バッグに入れっぱなしだったスマホを手に取り、ぼんやり眺める。

「あれ?そういえば…」

萌ちゃんから頻繁に来ていた食事会のお誘いが、いつの間にか全くなくなっていることに気がつく。

季節は異様な暑さが続いた夏から、いつの間にか秋へと変わっていた。

▶前回:同棲中の彼氏にフラれ、借りられる家が見つからない…。絶望するフリーランスの女が下した決断は

▶1話目はこちら:同棲中の彼にフラれ、婚活市場へと舞い戻った33歳女。そこで直面した残酷な現実とは

▶NEXT:10月17日 月曜更新予定
新たなステージへ飛び出した女。男関係も動き始める…!?