人との、別れ―。

それは、誰しも一度は経験したことがあるもの。

けれど、別れた後に待っているのは辛いことだけじゃない。これは、そんな「別れ」にまつわるオムニバス・ストーリー。

◆これまでのあらすじ

友人の結婚式で知り合った樹(たつき)と琴音。樹が一目惚れし、猛アプローチを開始するが…。実は琴音が有名ピアニストの令嬢で、とんでもないお金持ちだったことを知る。




「私のこの気持ち、鈴木さんが好きってことだと思うんです」

樹は帰りのタクシーの中で、さっき琴音に言われたことを反芻していた。

一目惚れした相手に好かれる、という本来ならば昇天してしまいそうな出来事だが、樹はどうも素直に喜べない。

―どう考えても、価値観が合わないだろう。

樹の思考はここに着地する。

―お嬢様はお嬢様、庶民は庶民だ。可愛いし残念だけど、もう会うことはないだろうな…。

そう思っていると、琴音から着信があった。

もう会わないだろうと思った直後にも関わらず、樹は反射的に電話に出てしまう。何かを期待している自分がいる。

「もしもし」

「鈴木さん、先ほどはありがとうございました。ご馳走様でした。とっても楽しかったです」

「本当?それは良かった。で、どうしたの?何かあったの?」

わざと斜に構えたような言い方をした。

「あ、いえ。お礼が言いたかっただけです。それではおやすみなさい」

「あ、あぁ。おやすみ」

ほんの数十秒の会話。電話口でも琴音の声は柔らかく、驚くほど優雅な時間に感じられた。

わざわざお礼の電話をくれる女性は珍しい。感じが良いなと思う。しかし直後、豪邸の一室でくつろぐ琴音を想像してしまい、急激に気持ちは冷めていった。

樹は決して小さくはない、1LDKのマンションに帰る。

―俺にはこれくらいが良いし、これで満足してくれる子が良い。

家の鍵を開けて、中に入ろうとした瞬間、琴音からもう一度着信があった。


再び琴音からの着信が。その内容とは…?


今度はなんだよ、と思いながらも少し嬉しい自分もいる。

「何度もすみません。そういえば、次回お会いする約束をしていなかったなと思って。いつにしましょうか?」

琴音は恥ずかしがるそぶりもなく、堂々と誘う。

「あ、そうだね…」

樹はいつの間にか琴音のペースに巻き込まれ、来週の土曜に会う約束をした。

それから一週間、もう興味がないと思っていたはずの琴音のことばかり、考えてしまう日が続いた。

“Haruo Wakatsuki”の名を何度もネットで検索した。遠くの存在に感じていたのに、今ではなんだか身近な人のような気持ちになる。

…そして、あっという間にデートの日を迎えた。




「こんなところ初めて来ました!素敵です」

琴音は目を輝かせながら言う。

樹がデート場所に選んだのは、横浜の中華街。樹の知っているリストの中からどれだけ良いお店を絞り出しても、琴音には満足してもらえないような気がして、あえて琴音が行ったことのなさそうなところを選んだ。

言い方は悪いが、樹はこれで琴音のことを試しているというところもある。

反応は意外なもので、気に入ってもらえたようだ。それにもっと意外だったのは、樹自身がとても楽しんでいること。

―ほら、これだからお嬢様はつまんないんだよ。

と、思う予定だった。

相変わらず小綺麗な格好をしている琴音だが、中華街の屋台で売られている“青島ビール“を瓶から直接飲むし、小籠包も一口でパクリ。

言葉を選ばずに言うと、琴音はすごく庶民だった。

樹は琴音のことを“Haruo Wakatsukiの娘”として見るのをやめ、“若槻琴音”として見るようになった。

とても魅力的な女性だ。顔もタイプ。

二人は場所を少し移動して、山下公園に来た。関東出身なら誰もが一度はデートで訪れたことのある場所だが、もちろん琴音にとっては初めてのこと。

―付き合ってみようかな、別に結婚しなければ良いだけだし。

樹が琴音に告白しようとした瞬間、琴音が口を開いた。

「鈴木さん、私とお付き合いしてほしいです」

琴音に先に言われてしまった。

「俺も今言おうと思ってたんだ。言わせちゃってごめんね。付き合おう」

どこまでも積極的な女性だなと感心していると、琴音が続けた。

「もちろん…」


覚悟を決めたはずの樹が、交際をためらってしまったワケとは?


「結婚を前提で」

―え?

琴音の言葉に、樹は思わず目を見開いて聞き返した。

「鈴木さんと、結婚したいって思ってます。だって、誰かと一緒にいてこんなに楽しかったこと、はじめてだったから」

琴音は目を潤ませながら言う。

「け、結婚のことはこれからゆっくり二人で考えていこう。家のことだってあるだろ?」

「そうですね、急にごめんなさい。では、これからどうぞよろしくお願いします」

「あ、あぁ、こちらこそよろしくね」

一目惚れした相手に好かれ、告白され、付き合うことになった。それはすごく嬉しいことのはずなのに、樹はなんだかまずいことになった気がしていた。

―予感であって欲しい…。

しかし、琴音との付き合いは想像以上に楽しいものだった。

いわゆる“普通のデート”に琴音は満足していたし、むしろはじめてのことだらけで喜んでいる。

もちろん、修学旅行などの学校行事以外で外泊することもはじめてだった。




琴音とのはじめての夜は、緊張が樹にまで伝わってきて、二人してぎこちなかった。

慣れない様子の琴音を見て「もしこの夜のことが、琴音のお父さんにバレたら…」と心配になったほどである。

―だけど、身分の違いを乗り越える恋愛も、悪くないかも…。

なんてことを素で考えていたときには、樹自身、ちょっと自分に引いていた。

“琴音のお嬢様感“は、その身に纏っているオーラだけで、デートをするぶんには全く気にならない。

「私でも知っている会社で働いてるなんて、樹さんすごい」

むしろ樹のことを尊敬し、立ててくれる。お金持ちだとわかっているからこそ、樹も逆に気取らず過ごすことができて、心地よい。

思った以上に、二人の関係は順調に続いていた。もちろん、琴音の両親には内緒である。

そして付き合って9ヶ月ほど経った頃。樹にはとんでもない感情が生まれてしまっていた。

―琴音と結婚したい…。

“ちょっとしたお遊び”程度で始めた琴音との付き合いが、ここ数ヶ月加速していた。

ちなみに気持ちとは裏腹に、琴音との付き合いの中で確信していたことがある。それは、結婚は絶対にできないということだった。

琴音の両親が絶対に許さない。オーストリアで活躍している有名日本人バイオリニストやチェコ人の指揮者など、提案してくる結婚相手候補は山のようにいる。

全員が、とてつもなく遠い世界で生きている人たちだった。話を聞けば聞くほど、琴音との結婚は非現実的なものになっていく。

―まぁ、もともと結婚はしないつもりだったし、ここらへんで諦めるか…。

樹は自分自身を納得させようとしていた。そんなある日の深夜、樹の家に琴音がやって来た。

門限が厳しいため、夜中に突然家に来るなんて、今まではあり得なかったことだ。

玄関に入り、扉を閉めるなり琴音は口を開いた。

「樹さん、私と結婚してほしいです。どうしても結婚したい。樹さんが良いの」

結婚できないということを誰よりもわかっているはずの琴音。

「それは俺も同じ気持ちだけど…。お父さんとお母さんが許してくれないって琴音自身が一番わかってるでしょ?」

「言わない。だって、家を出てきたから」

よく見ると、琴音は大きなスーツケースを持っていた。

▶︎NEXT:3月2日 月曜更新予定
樹と結婚するために家族と別れる決意をし、家出をして来た琴音。琴音の本気に樹が出す結論は…?