女を騙して200億を手に入れた男。翻弄され続けた女の、破滅へのカウントダウン
騙されたのは女か、それとも男か?
「恋」に落ちたのか、それとも「罠」にはまったのか?
資産200億の“恋を知らない資産家の令嬢”と、それまでに10億を奪いながらも“一度も訴えられたことがない、詐欺師の男”。
そんな二人が出会い、動き出した運命の歯車。
◆これまでのあらすじ
詐欺師の策略により、智は夫と離婚し、詐欺師と恋人関係に。しかし智が騙されていたことに気がつき、自分で決着をつけたい、と父に願い出た。

丸の内・兼六堂の社長室
「全ての送金が、完了したようです」
秘書の長でもある氷室からの簡潔な報告に、書類にサインをしていた神崎潤一郎の手が止まった。これで200億が小川親太郎の元に届いたことになる。
1週間程前。
小川親太郎と電話で話した2日後、潤一郎の自宅に送られてきた封筒の中には、10の海外口座の番号と、どの口座にいくら振り込むように、という指示の書かれた紙が入っていた。
随分アナログな伝達方法だが、手書きではないから筆跡鑑定もできないし、きっと指紋も残っていないのだろう。
潤一郎は大きなため息と共に、革張りの椅子の背にもたれかかると、ギッ、と軋んだ音が、耳の深いところに響く。
送金が完了しても不安が消えないのは、男のせいではない。
―あの子は大丈夫だろうか。
あの日。
「あの男は、お前が思っているより、ずっと汚い男だぞ」
顔を歪ませ、そう忠告した潤一郎を、智は見据えて言った。
「それでも…私に決着をつけさせてください」
何を言っている、とはねつけるつもりで睨みつけても、智の瞳は揺るがない。潤一郎は驚いた。そしてようやく悟ったのだ。目の前の女性は、もう庇護が必要な少女ではない。ずっと自分が守ってきた、あの、不安気な小さな子ではないのだと。
―もう止められない、か。
何も知らせぬまま、守り抜きたかった。けれどそれが叶わないなら。あの男の口から秘密を知らされる前に、自分の口から全てを正直に話すべきだ、と潤一郎は覚悟を決めた。だが。
「つまり…私はあなたの実の娘ではない、と?」
感情の読めない顔で、声で、智がそう呟いた瞬間、後悔が潤一郎の胸を突いた。けれど、その後悔を飲み込み、そうだ、と答えると、ずっと捨てられなかったあるものを智に手渡した。
それは古ぼけた紙切れ。掌にすっぽりとおさまるほどのそれにジッと見入る智に、潤一郎は話した。男が智の映像も持っていると言ったことまで、全てを。
「…話を聞いた今も、自分で決着をつけたいか?」
最後の意思確認に、智はあっさりと頷いた。そして、自分勝手だと承知の上でのお願いがあります、と頭を下げた。
「必ず、この問題に決着をつけてきます。だから…どうか、200億を振り込んでもらいたいんです。そして、私が連絡するまでは、手出しをしないと約束してもらえますか。あなたも警察も、です」
親太郎を自宅に呼んだ智。その目的は、一体!?

「智が家に呼んでくれるなんて、初めてだね」
200億が振り込まれたことを確認した3日後。智から連絡をもらった親太郎は、キッチンでコーヒーを入れていた彼女を、後ろからギュッと抱きしめながらそう言った。
今日はゆっくり話がしたかったから、と智がソファーで待つように促すと、親太郎は名残り惜しそうに智から離れた。
大輝と愛香と暮らした家ではなく、智1人が住む1LDKのマンション。愛香が通う幼稚園の側に、と利便性を優先した家だったが、愛香が泊まりに来られるくらいの十分な広さはあった。
コーヒーの香りと共にリビングに移動してきた智は、親太郎と並んで座る。そして、カップに一度口をつけた後、言った。
「ちゃんと正直に、伝えたことってなかったなって思ったの」
「何を?」
「…私ね、自分で思ってたよりずっと、好きになってる。親太郎さんを」
愛の告白としか受け取れないそれに、親太郎は喜びを隠さず、智を引き寄せ抱きしめようとした。しかしその腕が、智の表情に気がつき止まる。
「何でそんな顔を?…何か、あった?」
親太郎から視線を逸らすように、顔を伏せた智は答えない。
―やはり、何かを聞いたか。
智には何も話していないと潤一郎は言っていたが、親太郎は信じてはいなかった。問題は、どこまで話したかを知るためにここに来た、とも言える。
急かさず根気よく、沈黙を待つ。そのうちに、ゆっくりと智の視線が親太郎に戻ってきた。
「私が、あなたと一晩過ごしたのは、確かめたかったからなの。自分の気持ちがどこまでのものか。惹かれているのはわかっていたけど、まだ止められるものであって欲しかった」
「…それで?」
「苦しくなった。後悔した。
あなたが、私を騙すために近づいたと分かっているのに、胸がどうしようもなく痛んで、理屈とは違う方向に動こうとする自分が怖くなった。だから今日は…何が嘘だったかを知りたくて、あなたに来てもらった」
「俺が、君を騙す?…嘘って?」
親太郎の問いに、智が力なく笑った。
「もう芝居はいらないのよ。あなたの過去も全て調べてしまったし、父からも全てを聞いた。あなたが父を脅した理由もね。父から200億が振り込まれたのよね?」
親太郎の表情は変わらなかった。
「これ。どうやって気がついたのか、教えて」
智は、古ぼけて変色した小さな切り抜きを、親太郎に手渡した。それは30年以上前、あの誘拐事件があった年の新聞記事だった。
『大企業令嬢の誘拐事件の犯人は、自分が令嬢の実の父親だと主張。養護施設に奪われた娘を手元に戻すのは当然の権利だと訴え続けている様子。だが虚言の可能性もあり、精神鑑定の必要性ありか?』
「父はあなたがこの記事を見つけたのだろう、と渡してくれた。当時の報道は全て差し押さえたのに、これだけが唯一世に出てしまったものだと。なぜ、父がこれを捨てずにとっていたのかは分からないけれど…あなたも、この記事を見つけたのよね?
でもこの記事だけでは弱くて信憑性がない。虚言、精神鑑定、とも書かれているしね。他にも何か証拠を掴んだの?あの父が屈するなんて…相当な駆け引きが必要でしょう?」
「智は、真実を知ったのに、まだあの男を、父、と呼ぶんだね」
少し驚いたように、親太郎はそう言って、続けた。
「でもまさか、神崎潤一郎が全てを智に話すとは思っていなかったよ。あの男が、正直になるなんて…誤算だったな」
「きちんと説明してください。もうこれ以上嘘はいらない」
「俺を…裁くつもりなのかな。さっき、俺を好きだといってくれたばかりなのに?」
「話を聞いてから、どうするべきか判断するわ」
親太郎は困った顔になった。その表情さえ魅力的だと思ってしまう自分を、智はグッと戒める。
少しのためらいの後、親太郎は、わかった、と言った。
「智が覚悟を決めて、全てのカードを晒してくれたんだから、俺も覚悟を決める。正直に話すよ。智が…俺の言うことを信じてくれるといいんだけど」
「聞いてから判断する、と言ったはずよ」
親太郎のため息が、妙に大きくリビングに響いた。
「まずは出会いのことから話すよ」
親太郎は本当に真実を話すのか!?「…恋に落ちた」と言われた智の反応は?
「モナコで隣の席に居合わせたのは、本当に偶然だったよ」
智が、小さく唇をかみしめた。本人は気がついていない緊張した時のその癖を、親太郎は気づかぬふりで続けた。
「でも君の顔に、俺はなんとなく見覚えがあった。経済の専門誌や企業誌に目を通すからね。少し調べれば、智が兼六堂のお嬢さんであることは分かった。だから、君をターゲットにした。でも君のガードは固かったよね。全然内側に入れてもらえなかった。
葉子に近づいたのも、君のスケジュールを把握して、ナチュラルに近づくためだったけど、ことごとく失敗した」
「富田さんを傷つけたことは…最低な行為よ」
「彼女には本当に悪いことをしたと思ってる。でも君が手強いことは分かっていた。手に入れるためなら、方法を選んでいられないと思ってしまったんだ」
「そんなに、私のお金が欲しかった?」
「最初はそのつもりだったよ。でも俺は金が欲しいわけではないからね。女性の満たされない思いに寄り添って、自由にする。本当にやりたい夢を叶える手伝いをする。
その対価を得るのを楽しむゲームだったはずなのに、智に対しては…ムキになるのを止められなかった。
とても賢くて魅力的なのに、自分に自信がない。冷静かと思えば、牙を向く。愛に飢えているのに、愛して欲しいと言えない。そんな不器用な智のことが、愛おしくなっていった。
で、智があの男に啖呵を切ったあの日、本当に恋に落ちてしまったんだと思う。一番愛して欲しかったはずの、父と決別すると宣言した、凛とした君に」
「…本当に…恋に落ちた…?」
疑いが混じった智の声を、親太郎は頷きで肯定し、続けた。

「君を好きになればなるほど、君を苦しめる父親が憎くなった。騙し討ちのような結婚を用意して、君を好きに操ろうとする、あの男が。
だから俺のターゲットは変わったんだ。智から、あの男に」
その後、親太郎は徹底的に神崎家について調べたと言った。その中で、誘拐事件についても詳しく知ることになり、探偵からこの古ぼけた記事が上がってきたのだと。
「情報には使えないものも多いけれど、この記事には何か引っかかるものがあった。だから警察内のつてをたどって、当時の担当刑事にたどり着いた。とうに辞めたおじいちゃんだったけどね。それで彼から聞いたんだ。
身代金の受け渡し場所で犯人を捕まえて取り調べしたのも彼。手柄のはずなのに、その情報を上げると、捜査は打ち切りになった挙句、彼は誤認逮捕をしたと左遷された。
その恨みのせいなのか、割と簡単に喋ってくれたよ。取り調べした時、犯人は自分が父親なのだと言っていた。娘を渡してるんだから対価をもらって当然だ、とね。新聞記事に書かれているように、虚言や精神鑑定の必要があるようには見えなかったらしいよ」
止まった捜査。左遷。誰が手を回したのかなど、今回も副総監を動かした父のことを思えば容易に想像がついたし、それ以外の選択肢は考えられない気がした。そして、それは親太郎も同様のようだった。
「権力で真実を、自分にとっての不都合を握りつぶす。そこに苦しむ人々がいることすら想像もつかない。君が父親だと思ってきた人はそんな男だなんだよ」
親太郎の声に、智が初めて聞く激しさが混じった。
「だからこの話を使って、脅すことにした。ただ、もう30年以上も前の話だ。新聞記事とすでに引退した刑事の証言だけでは弱い。簡単にいくとは思っていなかったから、その先の手も考えてあったよ。
でもね。あの神崎潤一郎が動揺したんだ。抵抗らしい抵抗もしなかったことには驚いた。だから実際に振り込まれてくるまでは、信じていなかったんだけど…」
「…なぜ、200億を要求したの?」
智の問いに、親太郎は微笑んだ。
「金額なんていくらでも良かった。でも智の個人資産の額が、それくらいだと思ったから。これは、智のための復讐だから。智を傷つけた分、自分の悪事がいつ世にバレるかと怯えながら生きていけばいいと思ったんだ」
今度は智がため息をつき、天井を見上げた。何かを堪えているような仕草だったけれど、その顔に涙はなかった。
「…あなたが藪を突ついてくれたおかげで、私は真実を知ることになったわけだけど…良かったと今は思えるわ」
今度は私の話を聞いてくれる?と智は続けた。
智の出生の秘密。さらにまさか…智が父を裏切る!?親太郎に驚きの提案を…。
「父によると、私は生後すぐに、乳児院から神崎家に貰われたらしいわ。どうやら犯人が育てていけないからって預けた子だったみたい。
犯人がどうやって神崎家に私がいると知ったのかは分からないらしいけど、つまり新聞記事は正解で、私のDNA上の父は、あの誘拐事件の犯人。
そこは父が寄付をしている施設だから機密も守れると思ったみたいね」
智は、親太郎にはそれ以上を話すつもりはなかったが、潤一郎はそれ以上のことも、智に告白していた。
真実はこうだ。
生まれて数週間くらいだと思われる智を預けにきた男、つまり誘拐事件の犯人は、経済的な理由で育てられそうにないと相談にきた。だが、正式な手続きを踏む前に職員の隙を見て逃げてしまったらしい。
おそらく出生届は提出されていないだろう、と院長は言った。それを潤一郎は好都合だと思い、院長を説得した。本来なら乳児院の住所で戸籍が提出されるところを、神崎家の実子として届けたいと。
そしてお抱えの医師に協力させた。出生証明書などを偽造、母子手帳にも細工させ、智は潤一郎の実子として出生届が受理されたのだ。医師は秘密を守ったまま、既にこの世を去ったという。
「…なぜ養子を取ったのかは、聞いた?」
「母が子供ができない体だと判明したから、と言っていたけれど、それは本当かどうかわからない。母は女優だったし、産みたくないと言ったのかもしれないな、と思う。
悪い人じゃないんだけど、産みの母ではないとわかると、納得出来ることも多いわ。子どもが苦手な人だから。どちらにせよ両親を責めるつもりもない。私ね、思ったより傷つかなかったのよ…」
智はそこで言葉を飲み込んだ。そして少し俯いてから、また喋り出した。
「…親太郎さん、もし私に漏らせば、マスコミに私の映像をばらまく、と父を脅したのよね」
「それも、知ってたんだ」
少しバツの悪そうになった親太郎を気にせず、智が続ける。
「でもあなたが父を脅した時期を聞くと、私たちに、まだ体の関係がない時だわ。
あなたが私に隠れて撮るチャンスがあったとしても、思い当たるのは2回だけ。別荘で私を運んでくれた時とガーナでの宿泊の時ね。でも父に言ったみたいなスキャンダラスな私を撮る隙はなかった。つまりあなたは、脅迫に使えるような映像も写真も持っていない」
「…さすがだね」
「あなたがどんな手を使ったのか知らないけれど、そんな確証のないことで、普段の父なら絶対に屈したりしない。なのにあなたの話によると、父はらしくもなく動揺して、あなたの言う通りにしていた。それがどいうことか、今ならはっきりと分かるわ」
―お父さん、あなたの想いが分かる…ごめんなさい、お父さん。
智は心で悔いながら、その想いを押さえつけ口を開いた。
「こんな状況になっても…私親太郎さんを、信じたい気持ちが捨てられない。感謝が消えない。自分でもバカだと思う。でも憎み切れない」
言葉を選びながら、ゆっくりと話す智を、親太郎がじっと見つめている。
「親太郎さんと会わなければ、何も気がつかないまま平穏な幸せもあったのかもしれない。
でも、あなたに惑わされたことで、父の名前や存在に囚われていた自分の甘えも知って、新しい目標もできた。あなたに救われたと、生まれ変わるんだと思えたから。
それに、感情を殺すことばかりだった私が、誰かを思って胸が痛む感情を知れた。だから、あなたと出会えて良かったと…」
「…智」
「さっき、本当に恋に落ちた、と言ってくれた。あれは真実だと、心からの言葉だと信じていいの?」
「…ずっと、本気だと伝えてきたはずだよ」
言葉を止めた親太郎を見つめる、智の瞳が微かに潤んだ。
「あなたを信じる。だから、200億を父に返して欲しいの。そして色んな人に謝って…出会いから、もう一度はじめませんか」
親太郎の返事を待つ智が、グッと唇を噛んだ。その唇を指で撫でた親太郎が智を抱き寄せると、その肩に智の涙が落ちた。
「…分かった。明日、返金する手続きを取るよ。明日また報告に来る。それまで待っててくれるかな」
耳元でそう囁いた親太郎。それに頷いた智。その表情を互いに知りえぬまま、2人はしばらく抱き合っていた。
◆

その夜、22時過ぎ。羽田空港、国際線の出発ロビーに親太郎の姿はあった。
「小川さま、いつもありがとうございます。フランクフルト乗り換えで、到着地はシャルルドゴールで宜しいですね」
チェックインを済ませて、搭乗口へ向かう。本当なら1週間後には智とカンボジアに発つ予定だったが、彼女とどこかへ旅することはもちろん、もう会うこともないだろうと思いながら手荷物検査場に入ろうとした時、肩を叩かれ振り返った。
意外な、しかし見覚えのある顔。
思わず笑みがこみ上げた親太郎を、走ってきたのだろう、少し息を切らして睨みつける男。警視庁捜査2課の福島刑事。その隣は部下だろうか。
「小川親太郎さん。200億円の恐喝の容疑があなたにかかっています」
向かい合う親太郎と福島の脇を、国外に向かう人たちの波が通りすぎていく。
「…時間がなかったので、慌てましたが…あ、きたきた」
走ってきたスーツの男から茶封筒を受け取ると、その中身を引きだし、親太郎の方へ広げて見せた。
「逮捕状です。ご同行願えますね」
「何で捕まったの?」マサの推理に親太郎が出した答えとは?
東京拘置所
「げ。うわームカつく。イケメン台無し、って言いたかったのにさぁ」
拘置所の面会室には場違い極まりないマサの軽口を、監視の警察官がジロリと睨む。苦笑いで答えた親太郎の手錠が外され、マサの対面、ガラス越しに座った。
「なにその無精髭でもサマになっちゃう俺、って感じ。もうちょっとやつれたりしてくれないと、弁護しがいが無いんですけど」
「お前を弁護士に指名するつもりはない。国選で十分だってこの前も話したろ。頼りなければ自分で弁論すればいいだけだ」
「親ちゃん、さすがにそのお気楽さはどうかと思うよ。自白を録音された上に、詐欺だけじゃなくて恐喝やっちゃってんだからね。しかも破格の200億。今まで俺が付き合ってきたお遊びの時とは状況が違う」
マサが言う、付き合ってきたお遊びとは、親太郎の指示で刑事を煽ったり、情報を提供したりしたことだった。
親太郎の真意がわからぬままでも、マサがその危険に付き合い楽しめていたのは、あくまでも勝ち目があったからで、今とはわけが違う。
逮捕状の発行は、智が差し出した証拠によるものだった。恐喝を事細かく自白する親太郎の声、つまり智と親太郎の会話が全て録音されたもの。それがあの日の夜、すぐに警察の手に渡ったのだ。
「しかも親ちゃんさ、不利な自供ばっかりしてるらしいじゃん。200億をまんまと奪えたから、その次は偽の財団を準備して、神崎智からも金を奪うつもりだった、とかさ。反省の色無しで、執行猶予なしの量刑になってもいいわけ?マジで刑務所いくつもり?」
親太郎は、まるで他人事のように笑った。

「過去の訴えも消えたわけじゃないし、お前の腕でも相当厳しいよ。無駄な努力はするな」
「その過去の女性たちだけどさ、親ちゃんが望めば、証言してくれるって。親ちゃんには感謝してもしきれない、って女の子もいるんだから…」
「もういいんだ。今回は俺の完敗なんだよ。その責めは負わないと。俺を逮捕させた、彼女の勝ち。お前、俺がやばくなったらとっとと逃げるって言ってたろ。今こそ、そのヤバイときだ。これ以上は俺に関わるな」
「関わるなって言われても、今更遅いんだよ。1人でゲームを終わらせて、清々しい顔してんじゃねえよ。このままじゃ俺が気持ち悪いだろうが」
マサの怒り口調を、長い付き合いの中で初めて聞いた気がした。この男は自分で思っているより、ずっと真面目なのだろうと思う。金持ちから金を吸い取ることに罪悪感がないのは事実だが、弱者を騙すことをしたことはない。
正義という名前も、自分が言うほど似合っていないわけではないぞ、と口にしそうになったが、その言葉を親太郎は飲み込み、何を言われても沈黙を貫いた。
面会時間には限りがある。マサは諦めたように大きな、大きなため息をついた。そして、わかったよ、と両手を上げた後、続けた。
「諦める代わりにさ。最後に正直に答えてくんない?じゃないと、しつこく来るよ。答えてくれれば俺は金輪際、親ちゃんに関わらない」
親太郎が席を立たないことを承諾と受け取り、マサは続けた。
「色々らしくないんだよね。まあこんだけ付き合い長くても、親ちゃんには不可解なことも多いから、仮説の仮説、って感じで聞いて欲しいんだけどさ。
今回の逮捕劇も、親ちゃんの行動も、矛盾だらけな気がするんだよ。そもそも親ちゃんが恐喝するってこと自体が不自然」
マサは、親太郎が架空の団体を作るか…とにかく、本物の寄付に紛れて智から金を引っ張るつもりなのだろうと思っていた。恐喝という乱暴さ、その相手が騙していたはずの女性の父親というところには、違和感しかなかった。
だが、その質問に親太郎が答える様子はなく、マサは諦めて次の質問をした。
「彼女の録音、絶対気がついてたでしょ?気づいてなかったとしても、普段の親ちゃんなら、少なくとも警戒するはずだ。
なのに、ペラペラと自白した。何で?」
「正直に告白するのがあの時はベストだった。録音されてようと、彼女を説得して心を奪う自信があったからね。それがまあ、完敗したわけだけど」
「…ふうん。じゃあなんでさ、捕まってからはそんなに刑務所に入りたがるわけ?なんか、焦りみたいなの感じるんだよね。タイムリミット。でも、親ちゃんが焦るなんて、よっぽどのことがないとってずっと考えてたら、分かったんだよね。
お母さんでしょ?あの、親ちゃんを金で売っちゃった人」
親太郎は黙ったままだ。
「今まで親ちゃんはさ、名前も経歴も偽わったことがない。だから女性たちからの信頼を得たわけだけど…それって逆に言えば、すぐ探し出せてしまうってことだよね。
親ちゃんのお母さん、うちの事務所に来ちゃったよ。親ちゃんを探して。…お父さん、余命宣告されて、もう末期みたいだね」
マサはその声に少し同情を込めたつもりだったが、親太郎の表情は変わらなかった。
「親ちゃんのお母さんって、お喋りなんだねぇ。聞いてもいないのに、話が止まらないの。お父さんからの遺書に、遺産は親ちゃんに全額、って書かれてたらしくて、そのことで相談に来た。親太郎に会いたいので助けてくださいって言ってたよ」
ここからはもっと仮説感強まっちゃうけど、と妙な言い方をして、マサは続けた。
「親ちゃんは親子の縁を切ってたわけだけど、なんらかの形でお父さんの寿命を知った。で、多分、遺産相続の話も聞いた。もしかしたら、お父さん本人からのコンタクトかもしれない。
亡くなってしまうと、遺言に書かれてる親ちゃんは、当然探されてしまうよね。親ちゃんとこのお父さんそれなりの会社の社長でしょ。
で、確かお母さんって、お金で親ちゃんを売ったんじゃないっけ?ってことは、まあ金の亡者。お父さんの遺産を狙って、親ちゃんを探す可能性は高い。というか絶対だよね。
親ちゃんはそれが怖かったんじゃない?そんな人がもう一回目の前に現れてさ、また、お金のためにお前が必要だ、と言ってきたら?
親ちゃんは、自分がどうなるか…わかんなかったんじゃない?お母さんが目の前に出てくることが怖かった。だから神崎智との関係が破綻する、と判断して海外に逃げようとしたけど、空港で捕まった。
だから今は急いで刑務所に入ろうとしてる。お父さんの寿命が尽きる前に。二度とお母さんに会わないで済むように
だって彼女は、ある意味今の親ちゃんを作っちゃった人だろ?彼女が親ちゃんを金に換えた初めての女性だ。それでも愛されたいと願って、その孤独を救いたくて、でも救えなかった初めての女性。だから親ちゃんは、自分の価値を女性たちからの金に…」
親太郎の笑い声が、マサの言葉を遮った。
「大外れだよ、マサくん。その想像力を活かして小説でも書けば?才能あるかもよ」
時間です、という監視官の声に、親太郎が立ち上がる。
「俺はちょっと疲れただけ。だから、負けたついでに休憩したくなったわけ。刑務所なら誰にも邪魔されないだろ」
もう来るなよ、と親太郎が立ち上がり、歩き出した。
「最後の質問!」
叫んだマサに、その足が止まり、振り返る。
「神崎智で最後にしようと思ったのは何で?」
フッ、と笑っただけの親太郎にマサは続けた。
「最後の女は救えたわけ?…もしかして、本気で愛しちゃったり?」
「バーカ」
親太郎の笑顔が弾けた。そして、女性が見ればうっとりするであろうその笑顔のまま、ひとつだけ頼みたいことがある、と続けた。
「富田葉子さんにさ、過去の女性たちの例も含めて、俺がどれだけ最悪の男だったか伝えてくれ。その上で、彼女が俺を訴えられる方法をお前が考えてくれ。それが最後の頼みだ」
そして返事を待たずに、マサに背を向けた。そして一度も振り返ることなく、ガシャンという重々しい音と共に、扉の向こうに消えた。
裁判が始まり、マスコミの餌食になる智の運命は?そして親太郎に判決が。
裁判はマスコミの餌食となった。
日本有数の大企業の一人娘、しかも夫と幼い子供がいた智が、誰もの目を引く美男子の詐欺師に騙されたことが、毎日センセーショナルに書き立てられた。
国選弁護士がいるにもかかわらず、ほとんどの弁論を自分で行うというスタイルにも世間は騒然となり、ネットにも、雑誌にも、親太郎の顔が大きく掲載され、ファンクラブさえできた。
媒体によっては智の顔を隠さずに報道したため、大輝と愛香の存在も無情にもさらされることになった。そしてその騒ぎが、人気アイドルの薬物スキャンダルによって、ようやく下火になり始めた半年後、親太郎への判決がでた。
200億は潤一郎の元へ返金されていたが、史上類を見ない200億という巨額を一度は奪ったこと、先に2億円を奪ったと訴えられていた案件に対しても親太郎がまともな反論をしなかったため、検察はその他過去の女性たちの事例も掘り返した。
下されたのは、実刑8年。詐欺としては比較的重めの判決にも、親太郎は素直に従い、刑務所に送られた。
ただし、裁判が終わっても守られた秘密もあった。それは乳児院の存在。
検察も親太郎も、恐喝の材料は「智の映像」のみで争った。なぜか智が潤一郎とは血の繋がりがない、ということには一切触れられない裁判となったのだ。
◆

裁判が終わったあと、智はマスコミの前で記者会見を開いた。その席で全ての質問に素直に、正直に答えながら、解雇されたことも伝え、会社と関係がなくなったことも宣言。
「元夫、そして娘を傷つけてしまった過ちの大きさを、これから一生かけて償いたいと思います。会社や株主の皆様に対しても、多大なご迷惑をおかけしましたこと、本当に申し訳なく思っております。
私は、今後もどんな媒体のどんな取材にも、全て正直にお答えしますので、家族や兼六堂関係者に対する取材は、どうかご容赦頂けませんでしょうか」
逃げずにカメラの前に立ち、過ちを認めたその真摯な態度に世間が同情。母親のくせに色に狂った、と非難の声も上がったが、そのうちに擁護する意見も多くなり、一時は不安定になった兼六堂の株価も徐々に落ち着きを取り戻していった。
◆
―2年後
「ママ、あれ、見て!」
智の姿は、愛香と共に南アフリカのクルーガー国立公園にあった。
乗り継ぎを含めた、初めての長距離飛行機の後だというのに、疲れた様子もなく、車の窓にかじりつくように全てにはしゃぐ愛香の頭を、愛おしく撫でる。
兼六堂を辞めた後、財団を作り、その代表として活動するようになった智は、初めて愛香と2人きりの海外旅行にきていた。
愛香8歳。あの件が騒がれて以来、愛香の親権は大輝が持っていたが、智も週に2度は愛香と過ごす時間をとっていた。
当時幼かったとはいえ、愛香も騒ぎの混乱を、少しは理解していただろう。
両親が別々に暮らすことだけでも傷ついたであろうに、健気にもその環境に順応してくれた娘へ申し訳なさから、一時は、自分には娘と過ごす資格さえないのではないかという思考に落ちたが、大輝の言葉が智を救った。
「確かにあの裁判の映像や智の記事はずっと残る。でもだからこそ状況が分かる年になったら、きちんと愛香に説明しよう。それまでは2人で、間違いを犯したからこそ、一生懸命育てていこう。俺が最初に智を裏切ってたわけだし…両成敗ってやつだよ」
そう言って笑った大輝に、俺たち2人が幸せそうにしていないと、彼女が不幸になる、と励まされながら、1日1日を過ごしてきた。
小学校が夏休みになり、どこに行きたい?と問うと、野生動物を沢山みたい、と愛香がリクエストした。日本のサファリパークに行こう、と提案したのだが、ママが時々行くアフリカに一緒に行ってみたいんだけど、ダメかな、と言われてしまった。
治安や飲料水のことを考えると、躊躇はあったが、普段わがままを言わない愛香の遠慮がちなおねだりに、大輝が連れていってあげれば、と言ったことが決め手となった。
NPO団体のスタッフに場所を相談すると南アフリカを勧められて、ガイドまで務めてくれることになったけれど、ワゴン車で移動する時に起こる砂埃や陽射しが、不意打ちのように苦い過去を思い出させる。
―あの人と来た国とは違うのに。
親太郎が逮捕された後、田川法律事務所との契約を切ったという話だけは、父から聞いてはいたが、刑務所に入った彼がどうなったのかは知らないし、知ろうともしなかった。
警察は智が寄付をした団体が、詐欺まがいのものではないか、徹底的に調べたようだったが、幸いにも団体は全て本物。その点においては、智は騙されておらず、それらの団体への支援活動は、今や智のライフワークとなっていた。
例え、どんなに親太郎が極悪人だったとしても、智に新たな生きがいを見出させたことは事実として永遠に残るのだ。
―皮肉ね。これじゃ忘れられない。
「うわ、大きい!」
我が子の声に、窓の外に目を戻す。目の前に迫ってくる沢山の動物たちを見て、一緒に喜びはしゃぐことで、智は後悔の残像をなんとか振り払おうとした。
◆
旅の2日目。プールで遊んだ愛香は、夕食を食べると、パタリと倒れるように眠ってしまった。
国立公園の近くにあるホテルは、一部屋ずつコテージのような作りになっていて、大きなテラスが付いている。娘に布団をかけその頭を撫でながら、ぼんやりと、そのテラスの方向を眺めていると、ドアがノックされた。
ホテルのセキュリティはしっかりしているので、心配はしていなかったが、少し怪訝に思いながら覗き窓を覗くと、そこには思いもよらぬ人物が立っていた。
アフリカの地まで…智を訪ねてきた、意外な人物とは?そしてその目的とは?
「突然来て、ごめん」
大輝だった。
驚き、問う言葉も見つからないままの智に、大輝は入ってもいいかな、と聞いた。体を譲ることで承諾すると、寝姿の愛香に近寄り、その頭を撫でてから、ベッドに座ったまま小声で言った。
「実は俺が来ること、愛香は知ってたんだ。サプライズ、っていう柄でもないんだけど、こんな機会でもないと思い切れなくて。テラスで話してもいい?」

テラスは室内の明かりのおかげで十分明るい。
デッキチェアに座り向かい合うと、あ、虫除けいるよね、と大輝はバッグからスプレーをとりだし智に振りかけた。なんだか間の抜けたその仕草がおかしくて、2人で笑いあう。
大輝が、空一面の星に感嘆の声を上げてから言った。
「この前お義父さんに会ってきたんだ。久しぶりに…俺から連絡をとってさ。ちょっとけじめをつけたくて」
大輝は兼六堂を辞め、別の会社に勤めている。離婚もした今、もうあまり接点もないだろうと思っていたので、智は少し驚いた。
大輝は潤一郎にどうしても聞きたいことがあったらしい。それは何故、智の婿として自分が選ばれたのか、ということ。潤一郎は、その質問に答えてくれたらしい。
「まず、純粋に俺の能力を評価してくれていたみたいだ」
元々潤一郎は、大企業の社長にしては社員の情報に詳しいことは智も知っていた。優秀な社員の報告が吸い上げられるシステムを作っている。それで大輝の存在は知っていた。しかも娘と接する機会の多い同期入社の男性には目を光らせていたという。
「智があまりにも真面目な女の子に育ったから、外で変な男に引っかかるよりは、目の届く男にしたかったんだってさ。その上で跡を継ぐ智を邪魔せず支えることのできる男。だからお見合いとかじゃなくて、社内の男がよくて智より立場の低い男にしたかったらしい」
その上で、金に困っている大輝は丁度良いと思ったらしい。金を貸すことで大輝をしばれば、智のことも、そして潤一郎のことも裏切れない。智を口説くことがテストのような言い方をしたのは、大輝が潤一郎の命令に忠実に従う素質があるかを試すためだったのだという。
智は呆然とした。随分酷い仕打ちの告白を受けたはずなのに、大輝が楽しそうに笑っているからだ。
「父はあなたに、謝った…?」
「あのお義父さんが、誰かに…しかも俺ごときに謝るわけないだろ。でもスッキリしたよ。正直に話してくれただけで進歩だし、感謝してる。どんな形であれ、お義父さんには救われたし、誘惑に負けた俺だって悪いよ」
父の代わりとばかりに、ごめんなさい、と智が謝ると、大輝が、そういえばさ、と明るい声で話題を変えた。
「裁判で証言してたあの女の子、富田さんだっけ。彼女、大きなプロジェクトの責任者になったみたいだよ」
「…良かった」
富田のことは気になっていたけれど、声をかけるのも気兼ねしてしまい、潤一郎に辞めさせないで欲しいと口添えしただけで、裁判以来会っていなかった。活躍を聞き、智は心の底からホッとした。
智は、穏やかな気持ちで空を見上げた。
心地よい沈黙の中、夜風に体を任せていた智を、あのさ、という声が呼び戻した。
大輝の顔が強張っている。どうしたの?と問いかけても返事はない。もう一度、呼びかけると、よし、という妙な掛け声に続けて大輝は言った。
「智、結婚しないか」
―…え?
「結婚、って誰と、誰が?」
大輝が困ったように笑った。
「指輪は、図々しいかなって思って…用意しなかったんだけど。こんなサプライズでもしないと、勇気が出なくて…智、何か言ってくれよ」
言葉が出ないままの智に、大輝は一度咳払いをしてから続けた。
「俺たちは、2人も、間違った。でも、まちがいを乗り越えていこうと、なんとか進んでる。だから…その、そんな2人で、一緒に生きていくことを考えられないだろうか?これから、また間違えても、今度こそお互いに手を離さずに、いられたら…」
辿々しい大輝の言葉が止まり、静寂を破ったのは、愛香の足音だった。
「パパ!」
裸足のまま駆け寄ってきた愛香が、いたずらっ子の笑顔で智を見た。
「ママ、びっくりしたでしょ?」
サプラーイズ!と自慢げに言った、そのキラキラとした瞳が、どれだけ両親が一緒にいることを望んでいるのかを訴えているようで、切なくなる。
「そうね、すごく嬉しい」
智がそう答えると、愛香は、でしょー?と言った後、今日自分が撮った写真をパパに見せたい、と大輝の腕を強引に引っ張り、部屋の中に入っていく。
父親にぴったりと寄り添う娘。その娘を、本当に愛おしそうに見つめる父。
普段は、実年齢よりも大人びて振る舞うことの多い愛香が、今日は殊更、甘えているように見える。
喉が熱くなり、その熱は胸にも広がった。頬が濡れたと気がつき、智は慌ててそれを拭う。何年も前からずっと側にあったはずの光景なのに、どうして今、まるで違うものを見ているように胸に迫るのだろう。
―もしもあの時…。
最後の日、親太郎の言葉を信じてしまっていたら…この光景を見ることはできなかっただろう。
覚悟を決めて親太郎を呼び出した、あの日。
なぜ刑事は、親太郎を逮捕できたのか。そこには智の迷いと意外な決断が!?
例え、自分の親太郎への気持ちが純粋であったとしても、潤一郎が脅されたことへの責任は痛感していた。だから初めから、全てをポケットの中の携帯で録音していた。200億を振り込んで欲しいと頼んだのも、後に物証になると思ったからだった。
―彼は必ず嘘を見抜く。だから…。
話を引き出すために、まずは自分から正直に告白した。しかしそのうちに…親太郎を憎めず、むしろ信じたいという気持ちがふくれ上がり、『本当に恋に落ちた』という彼の言葉に希望を持ってしまった。
もし、200億を本当に返してくれたなら。
智は願うような気持ちで、明日会おうと約束してくれた親太郎を信じることにした。
だが親太郎が智の自宅を出た数時間後。
智は、親太郎が国外に出ようとしていることを知った。それは親太郎を密かに見張り続けていた、あの福島刑事からもたらされた情報だった。
違法捜査に近いので、情報源はお伝えできませんが、と前置きしてから、刑事は早口で続けた。
「今夜出発のフランス行きのチケットを先程購入したようです。しかも帰りの便の指定はありません。もし国外に逃げ切られたら、彼を裁くことは多分二度とできなくなります。神崎さん、どうか正直に教えてください。さっきまで2人で何を話していたんですか」
明日会おうと言った男が、明日を迎える前に国外へ向かおうとしている。それも片道切符で。
電話の向こうで焦っている刑事の声が、ひどく遠くに聞こえた。智の中で、何かが急激に冷めていく。
―終わらせよう。
そして。
智は刑事に、全てを話した。彼が罪を告白した録音があること。恐喝により200億が振り込まれた口座があること。それがあれば逮捕状が取れる、今すぐ手配します、と言った刑事の声は、緊張感の中でも弾んでいた。
刑事との電話を切った後すぐに、智は潤一郎に連絡を入れた。親太郎を捕まえるために、警察に動いてもらっている。だから潤一郎からも捜査禁止の撤回を上層部に伝えて欲しい、と。
潤一郎は、分かった、と唸るように言ったあと、お前は大丈夫なのか、と言った。
「大丈夫に決まっています。あなたの娘ですから。ありがとうございました…その」
その先は言葉にできなかった。
智には親太郎の話から気がついたことがあった。普段の潤一郎なら、絶対に脅迫になど屈しない。相手をかわし、証拠を集め、駆け引きを持ちかける。それが例え違法な手段であっても、冷徹なほどに落ち着いて対処するはずだ。
ならばその、いつもの冷静さを奪ったものは、何なのか。
―私、だったから…?
脅迫のカードが、智、だったからではないかと。
潤一郎は、恐れたのではないだろうか。実の娘ではないと智が知ればどうなるか。スキャンダラスな映像で晒し者にされれば、どうなるか。
少しの沈黙の後、潤一郎が、まだお前に伝えていなかったことがある、と言った。その声は電話でも分かるほどに重かった。
「私は元々男の子をもらい受けるつもりで、乳児院に連絡を入れていた。だが、戸籍のない子が、訪ねたその日に現れたことを運命だと思った。だから女の子でもこの子がいい、と院長に言った。戸籍の偽造は犯罪だと院長は当然渋ったが、私は半ば意地になっていた。
そして…抱いてみますか、と言われて、恐る恐る抱き上げた時の、あの不思議な感情を…私は忘れたことはない。小さな掌に指を近づけると、お前はギュッと私の指を握ったよ。
一緒に暮らしていくうちに、お前が私の中心になった。
何かができるようになる度に、自分のことのように嬉しい。熱を出して苦しめば、自分が代わってやりたいと思う。お前の行動に一喜一憂する自分に驚いたよ。
お前がさらわれた時の怒りと衝撃は言い表せない。私は自分を責めた。神崎家に引き取らなければ、お前を危険に晒すこともなかった。記事を持ち続けることに決めたのは…戒めのためだ。お前を傷付けた自分を許さないためだった。
そして誓った。今後は一切の危険からお前を守り、二度とお前を奪わせないと。二度とお前が傷つかぬように、誰より強い子に育てると。
私がお前に、ビジネスにおいて血縁など何の意味もない、能力を磨けと言い続けたのは、血縁などなくとも、私の後を引き継ぐのはお前しかいないという思いだったからだ。
お前ならできるはずだと、ずっと期待しかしていなかった。
誰がなんと言おうと、お前は私の娘なのだから。神崎潤一郎の一人娘なんだ」
智は泣いた。父の前で初めて、声を上げて泣いた。父の愛を、不器用な想いを、初めて素直に信じることができたから。
―私は、お父さんにそっくりだったんですね。
もしも、あの時、こうしておけば…。
人生に、そんな『もしも』はなく、過去は取り戻せない。過ちも、罪も消えてはくれない。
そこにあった温もりには気がつかず、足りないピースばかりを探していた愚かな自分の失敗には、これからも後悔がつき纏うのだろう。
―それでも。
その傷と共に歩き続ければ、きっと、いつか……。
◆
「ママー」
愛香の声が、智を今に戻した。手招きされ立ち上がる。笑顔を返すと大輝も微笑んだ。
その光に満ちた部屋の中へ足を踏み入れながら、智は誓った。
―もう逃げない。
信じることからも。愛する、ということからも。
私を許し、慈しんでくれる大切な人々のために。
彼らを守り、手を取り合って、生きていくために。

Fin

