空港は、“出発”と“帰着”の場。

いつの時代も、人の数だけ物語があふれている。

それも、日常からは切り離された“特別”な物語が。

成田空港で働くグラホ・羽根田(はねだ)美香は、知らず知らずのうちに、誰かの物語の登場人物になっていく―。

▶前回:交際3年。初の海外旅行を目前に、連絡が激減したのはなぜ…?機内で彼が語った本音とは




Vol.3 正人の物語
「いってらっしゃいませ」でよみがえる記憶


“カチャリ…”。

正人は、できるだけ音を立てないように、玄関のドアをゆっくり開けて帰宅した。

鍵はいつものように、靴箱の上にソッと置く。

体の向きを変えて、脱いだジョンロブの革靴を丁寧に揃えると、足音を忍ばせて洗面所へ直行した。

“ジャーッ!!”

― うわ、ヤバッ…。

ここまで細心の注意を払って静かにしてきたのに、手を洗うための水が思いのほか勢いよく流れ出る。

次の瞬間。

リビングの扉が開く音が聞こえ、正人はギクリと体を硬くした。

― …亜香里の仕事、まだ終わってなかったのかな?

コロナの流行がおさまりつつある今も、出版社に勤める彼女の仕事はテレワークが中心だ。

時刻は20時をまわっているが、この日もリビングで原稿の執筆や編集作業をしていたのだろう。

亜香里のいら立った足音が、少しずつ近づいてくる。正人は、様子をうかがいつつ、洗面所から顔を出して声をかけた。

「ただいま!」
「あー…うん。早かったんだね。私、寝室で仕事の続きするから」

意識して明るくふるまう正人とは反対に、彼女の声はトーンが低く、眉間には深いシワが寄っている。“これ以上話しかけないでオーラ”が目に見えるようだった。

― はぁ、またこの感じか…。最近「おかえり」のひと言もないよな。

“バタン”と寝室のドアが閉まる。正人は、彼女と目さえ合っていなかったことに気づいた。

交際4年目の亜香里とは、同棲を始めてもうすぐ2年。

コロナの流行で生活様式が変わってからというもの、2人の関係性はすっかり変わってしまった。

とりわけ彼女が家でずっと不機嫌そうにしているせいで、正人は窮屈極まりない。

この調子で、これから先も一緒に暮らしていけるのだろうか―。

こんなふうに考えることが増えていた。

1週間の海外出張が決まったのは、ちょうどそんなときだった。

― 少しでも亜香里と離れられる…。

正人は、人知れずホッと安堵のため息を漏らすのだった。


出張の前夜。

― パリなんて、4年ぶりか。仕事のあと、ちょっとした観光と食事くらいはしたいよな。

商社に勤める正人にとって、年に5〜6回の海外出張は当たり前だった。

ところが、コロナの流行のせいで、ここ数年海外での仕事がめっきりなくなっていた。

もちろん、プライベートでも国内からは出ていない。久しぶりの海外に、仕事とはいえ浮かれてしまう正人。

クローゼットから、しばらく使っていなかったグローブ・トロッターのスーツケースを引っ張り出すと、正人は鼻歌を歌いながらパッキングを始める。

そこへ、亜香里が顔を出した。

「正人、出張って明日からだっけ?」
「ああ、うん。1週間で帰ってくるよ」

ここ最近、2人の間にはほとんどといっていいほど会話がなかった。だが、この日は何か続きがありそうな気がして、正人は、次の言葉を待つことにした。

「…ふぅん、そう」

しかし、彼女はポツリとつぶやいただけで、プイッと背を向けてリビングへと戻っていくのだった。

― 僕が出張に行こうと、どうでもいいんだろうな。



離れて過ごす1週間は、気持ちの整理をするのにちょうどいい。

帰ってきたらこれからのことを話し合う必要があるだろうと、正人は思った。

こうして迎えた、出張当日。

正人は、17時45分発のフライトに合わせて、成田空港へと向かった。




15時。

ビジネスクラスのレーンに並び、チェックインカウンターで手続きを済ませる。

「杉田様。こちらが、成田からの搭乗券とラウンジカードでございます。乗り継ぎ分は、封筒にお入れします」

搭乗開始時刻までは、まだ2時間近く余裕があった。

― 仁川空港経由だけど、まぁ…ラウンジも使えるからいいか。

出国審査場を抜けた正人は、その足で航空会社のラウンジへと向かう。

滑走路に面したテーブル席に座ると、次々と離発着する飛行機をパノラマ状に見ることができた。久しぶりの光景に、気持ちが高揚する。

気がつくと、スマホを片手に窓辺に立っていた。

水色の機体の機首が上がって、主車輪が滑走路から離れていく。

絶好のシャッターチャンスだ。それなのに、正人はスマホを持つ手を下ろしてしまった。




― やっぱり、やめておこう。

今まで出張に行くとき、正人は飛行機の写真を撮って、亜香里に「行ってきます」のLINEを送っていた。

でも今は、そんなことをしたところで、冷たくあしらわれそうな気がした。

LINEを見ると、亜香里との最後のやり取りは2日前。

正人が会社から「明後日から出張になった」と送り、亜香里から「OK」という味気ないスタンプが返ってきて、それきりだ。

一緒に暮らしていれば、LINEのやり取りなんてそんなものなのかもしれない。

しかし正人は、ため息混じりにラウンジ内を見渡す。

ビールやワインを片手にくつろぐ、ほかの利用客の姿が目立った。

「ビール1杯くらいなら、いいか」

正人は、セルフのビールサーバーにグラスをあずけて、レバーを全開にした。

景気づけの1杯のつもりが、もう1杯飲みたくなる。

結局正人はグラスビール2杯を飲み、ようやく出発ゲートに向かったのは、搭乗の最終案内がラウンジ内に流れたときだった。

ラウンジから少し離れた場所にある出発ゲートに着くと、搭乗口近くの椅子に鞄を置いた。それから、搭乗前の本人確認のために、パスポートを取り出す。

「あれ…?」

そこで、正人は“あるもの”がないことに気がついた。


― チェックインのときには、見た気がするんだけどなぁ。

もう一度、鞄の中を隅々まで確認する。

「やっぱり…、名刺入れがない」

― これから商談に行くというのに、名刺がないのは困る。

正人は焦りながら、チェックインカウンターから出発ゲートまでの動線を振り返った。

唯一の心当たりは、ラウンジだ。

書類や、機内で読む本を、鞄から取り出して整理したのだ。

正人は、近くにいた航空会社の職員に声をかける。

「あの、ラウンジに名刺入れを忘れてしまったかもしれないので、取りに行ってもいいですか?」

凛としたたたずまいのその女性は、時計に目をやると冷静に答えた。

「かしこまりました。わたくし共で確認いたしますので、お客様はこちらでお待ちいただけますか?」

女性職員は、正人の座席番号を確認する。

“最後のお客様、ゲートにショーアップしています。忘れ物の確認があるので、ドアクローズは少し待ってください”―。“スーツケースは、引き続きバルクスタンバイで”―。

無線機でのやり取りがかすかに聞こえ、正人は、自分が最後の乗客で、多方面に迷惑をかけてしまっているのだと焦る

気まずい思いで顔を上げ、彼女のほうに視線を移す。正人は、ハッと目をみはった。

― HANEDA MIKA…さんっていうんだ。もしここが羽田空港だったら、めちゃくちゃしっくりくる名字だな。

正人がネームプレートに書かれた名前にくぎ付けになっていると、ハネダさんから声をかけられた。

「杉田様。恐れ入りますが、名刺入れの特徴と、ラウンジでのお席を教えていただけますか?」

彼女がラウンジに連絡をすると、幸いにも名刺入れはすぐに見つかったのだった。

「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「いえ、無事に見つかったようでよかったです」

マスク越しに、ハネダさんが優しく微笑んでいるのがわかる。だからつい、いらないことまで口にしてしまった。

「ラウンジでぼんやりしてしまって。はは…」

彼女から返ってきたのは、予想外のひと言だった。




「大変失礼ですが、杉田様。ラウンジでアルコールを飲まれましたか?」
「え?ああ、少しだけですけど」
「機内では、気圧の関係で酔いが回りやすくなります。乗り継ぎのフライトもございますので、ここから先もどうぞ気をつけてお過ごしください」

― もしかして、お酒臭かった?マスクしてるのに、よく気づいたなぁ。

妙なところに感心していると、遠くにラウンジの職員が走ってくる姿が見えた。

「お客様、こちらでお間違いございませんか?」

亜香里にもらったヴィトンのアンヴェロップ・カルト ドゥ ヴィジット NMが差し出される。

2年前の誕生日。お互いが30歳を迎えたときに交換し合った、思い入れのある名刺入れだ。

コロナ禍で、思うように仕事が進まずもんもんとする日々に“頑張ろうね”と、励まし合ったことを思い出す。

「間違いありません。ありがとうございます」

正人は名刺入れを両手で受け取ると、頭を下げた。

「では、入り口までご案内いたします」
「はい、急ぎます」



正人は、ハネダさんと並んでボーディングブリッジを足早に歩く。

「空港での忘れ物は―」
「え?」

飛行機のエンジン音に、彼女の言葉がかき消される。

「空港での忘れ物は、忘れたことに気づいたときにはもうずっと遠い国にいて、手元に取り戻すのが困難なことがほとんどなんです。だから、取り戻すのを諦めてしまうお客様も多いんですよ。たとえそれが、大事なものであっても」
「そうなんですか…」
「見つかって、よかったですね」

彼女の言葉には、“物”に対してではない何か別の意味が込められているように感じられた。

― 考え過ぎだろうか。

「では、私はここで。お気をつけて、いってらっしゃいませ」

ハネダさんは、飛行機のドアの手前で、深々と頭を下げた。

― そういえば、亜香里もよくこんなふうに…。

同棲を始めたばかりの頃。亜香里はよく「いってらっしゃい!気をつけてね」と言って、正人を見送ってくれた。

― あの頃の僕は確か、仕事へのフラストレーションがたまっていて、イライラを家に持ち帰っていたっけ。

正人は、気づく。

自分のことを棚に上げて、最近の彼女の不機嫌さを非難ばかりしていたことに。




「ふぅ、何だかバタバタしてしまったな」

座席を確かめてから腰を下ろし、名刺入れの中身を確認した。

すると―。

― あ…。

“久しぶりの海外出張、気をつけて行ってきてね”

ポケットのところに、亜香里からのメッセージが書かれた付箋が貼られていた。

― 昨日、これを言おうとしていたのか。

今ならまだ、亜香里の気持ちが、遠くまで離れてはいない気がした。

こじれた関係に結論を出す前に、原因を探してみたらいいのではないか。

そう思った正人は、仁川空港に着いたら亜香里にLINEを送ろうと決めた。

そしてシートベルトをしっかりと締めて、体を座席にあずけるのだった。

▶前回:交際3年。初の海外旅行を目前に、連絡が激減したのはなぜ…?機内で彼が語った本音とは

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