「できれば幼稚舎、ダメなら青山」

夫の一言で始まった息子のお受験。

渋谷区神宮前アドレスを手に入れ、理想の結婚をしたはずの京子だったが、とある幼児教室の門を叩いた日から、思いがけない世界が待っていた。

◆これまでのあらすじ
京子の息子・隼人は幼稚舎には落ちてしまったものの、暁星に合格した。慶應横浜初等部の一次試験の結果が出た夜、同じように幼稚舎を目指していたママ友が突然自宅マンションまで訪ねてきたが…

▶️前回:やっぱり手に入れたい“慶應ブランド”。競争率10倍以上の難関校に挑む、お受験の裏側




「由香里さん、どうしたの?こんな時間に」

慶應横浜初等部の一次試験の発表があった夜。

隼人の合格を祝して家族団らんの時間を過ごしていたとき、京子は急に由香里に呼び出された。

マンションのロビーに降りていくと、由香里はソファの隅に浅く腰をかけていた。

「京子さん、お忙しい時間にごめんなさいね。ちょっと話がしたくて…」

京子は一人分スペースを空けて、ソファーに腰を下ろす。

マスクをつけているせいか、由香里の表情がいまひとつわからない。でも、元気ではないことは確かだ。

「リナさんと仲直りしたんですって?よかったわ。心配していたの」

前触れもなく突然家までやってきたうえ、京子の不信感を察したようにリナの話題をふる由香里。ますます何かあると勘ぐらざるを得ない。

「リナさんは立教女学院に決めたみたい。聖心に落ちてしまったのは、残念がっていたけど。ところで隼人くんは、どこか決まった?」

由香里はどこに受かっているか知りたかったんだな、と京子は察した。

わざわざ家までやってきて聞く必要があるのか、とも思ったが、同じ合格発表を待つ身。自分も含め、普通じゃない思考回路に陥りがちなのかもしれない。

「うちは、幼稚舎はやっぱり無理だったの」

まず京子が、幼稚舎の不合格を伝える。

由香里が「うちもよ」と残念そうに同調する。

「でも、暁星にご縁をいただくことができたし、慶應横浜の二次と竹早の二次に残ってるわ」

気のせいなのか、京子の結果を聞く由香里の目がパッと一瞬輝いたように見えた。

「さすがだわ!隼人くん。よくできるものね。受かると思ってたのよ」

「ありがとう。由香里さんは?」


夫婦で慶應卒の由香里の結果は?そしてわざわざ家に押しかけてきた思惑とは?


確か由香里は、どうしても行かせたい小学校のみで受験日程を組んでいたはずだった。

「京子さん、折り入ってお願いがあるんだけど…」

由香里が、言いにくそうに切り出してきた。

「雅也は、幼稚舎は不合格で、慶應横浜も不合格だったの。で、暁星が補欠。だけど、まだ繰り上がりの連絡が来ないの」

黙って、彼女の息子・雅也の結果を聞いていた京子だったが、次の瞬間、由香里の発言に絶句した。

「暁星、お断りしてもらえないかしら?」

「お断りって、辞退ってこと?」

驚いて聞き返すと、由香里は目に溢れんばかりの涙を溜めていた。

「ごめんなさい、こんなお願い非常識だってわかってるの。でも、うちは主人も主人の両親も幼稚舎出身で、落ちて公立なんてありえないの」

必死に語る由香里に、口を挟む余地はなかった。

「どこも受からなかっただなんて何て言われるか…。隼人くんはうちの雅也と違って地頭がいい子。きっと、竹早か慶應横浜のどちらかにはご縁をいただけるわ!」

京子は、返す言葉が見つからない。

そもそも、ママ友のために暁星を辞退するなんてありえない話だ。

「由香里さん、暁星に繰り上がり合格したいっていう気持ちはわかるけど…。うちが辞退したら、雅也くんが繰り上がる保証はある?まだこれから願書出せる学校もあると思うの。そういうところを探してみたら?」

京子の言葉にハッと我にかえったのか、由香里は力なく謝罪した。

「無理なお願いをしてごめんなさい…」

そして「これ良かったら食べて」と『ラ・メゾン・デュ・ショコラ』の小さな紙袋を手渡すと、伏し目がちにエントランスに向かって歩き出した。

由香里を見送った京子は、ロビーのソファに座り込みぼんやりと考えていた。

そういえば、東山先生も言っていた。「毎年必ず何かしら事件が起きますので、お互いがどこを受けるのかなどの情報交換はしないように」と。

隼人がもし、まだ合格を頂いてなければ、シャンパンなんて飲んでいる余裕はなく、今頃自分だって同じことをしていたかもしれない。

受かれば天国、落ちれば地獄。

それは、子供にとってではなく、親にとってだ。子供はどの学校に通おうとも、すぐに慣れるだろう。しかし親は、自分がなんとかすれば合格できたのではないかと思い悩む。

小学校受験は、子供の考査だけではなく、願書や面接に親が介入するのが特徴だ。だから合格の基準も曖昧で、様々な噂も飛び交うし、落ちた場合は矛先をどこに向ければよいのか、わからなくなる。

実際隼人も、暁星以外は最終合格を頂いていないからよくわかる。

きっと由香里だって、非常識なことをしているとはわかっているはずだ。

追い詰められた末の衝動…。こうするほか、なかったのだろう。

痛いほど気持ちはわかるが、京子にできることは何一つないし、「由香里の立場じゃなくてよかった」としみじみ思ってしまう自分がいた。  






ー2021年4月ー

「いってらっしゃい!気をつけてね」

朝7時。隼人が家を出る時間だ。表参道からメトロに乗って小学校に通う。

朝は毎日6時に起き、手早くお弁当を詰めて持たせるのが4月からの京子の日課。

入学してから3週間経ったが、隼人は早起きや電車通学にもあっという間に慣れ、暁星の男子だけの小学校という環境を伸び伸びと楽しんでいる。

そして京子も…。


小学校に通い始めた隼人を見送ったあと、京子の次なる楽しみとは


昨年1年はいったいなんだったのだろうと思うほど、ゆったりとした日々が戻ってきた。

今思い返してみると、自分でも度が過ぎていたと感じている。

月々余裕で20万を超えるお教室代や、学校関係者のツテを血眼になって探していたことを思い出すと、ぞっとしてしまう。

ママ友との間で志望校をめぐるトラブルが度々あった。その原因はいつも幼稚でつまらないことばかり。

しかし、一方では良い経験だったとも思う。

なにしろあれほどまで、一つのことに没頭できる経験はなかなかない。その全ては愛する我が子のため。

聖心女子学院を目指していたリナの娘・莉子は、立教女学院に進学した。

幼稚舎と慶應横浜に落ち、暁星の補欠から繰り上がることを切望した由香里は、結局補欠繰り上がりの連絡を受けることはなかった。

しかし、東山先生に勧められてぎりぎりで出願した玉川学園の二次募集で、合格を勝ち取ることができたそうだ。

「で、今日君は何をして過ごすの?いいねえ、暇な主婦は。俺、今日晩飯いらないから」

バタバタと夫が起きてきた。

最近の春樹は、お受験以前の子育てに無関心な父親に逆戻りしているように見える。

それでも、まぁいい。その分仕事を頑張ってくれれば。

隼人には、これからお金がかかるのだ。

私立小学校の授業料に加え、お友達とのお付き合いや、学校のイベントなど。それに暁星は、大学付属校ではないから塾に通う必要もあるだろう。

「暇、暇、って失礼ね。私だってやることはたくさんあるの」

京子の言葉を背中で聞きながら、春樹は大慌てで身支度を整えていた。

「じゃ、行ってくる」

バタン、とドアが閉まった。

もうすぐ10時。京子も急いで家事を終わらせ、着替えてヘアメイクをする。

でも、もう服はネイビーじゃない。






京子は目黒駅に降り立つと、とあるオフィスビルに入っていく。その足取りは軽い。

実はさっきまで、都立大学駅にある英語教室まで話を聞きに行っていた。

小学生と言えども、英語に慣れ親しんでおくことは大切だ。まして、帰国子女の京子からすると、英語は話せて当たり前。

というわけで、評判の英語教室の教室長との面談に行ったのだった。

英語単体の塾にしてはひと月4万と高額だが、紹介制で小規模。集まる生徒は、留学や難易度の高い大学を狙う志の高い家庭の子が多いというのも魅力だ。

そこでの面談を終え、ここ目黒にやってきた。

今度は中学受験対策に特化した塾、望月学園に話を聞きに来たのだ。

暁星小学校は中学、高校とエスカレーター式に進学していく子どもがほとんど。

しかし、中学受験も一応視野に入れておくべきだし、今から準備すれば海外の有名大学も射程に入るもの。

望月学園の入り口に着くと、京子はあたりを見回した。さすがに小学校受験のお教室とは違って規模が大きい。実はすでに先週の土曜日は、別の進学塾の説明会にも出向いている。いろいろ見て早めのスタートを切るつもりだ。

その時、向こうのほうに見たことのある人物が…。

鮮やかなブルーのロングカーディガンにカラーリングの美しい髪。派手だがどこか品のあるあの女性は…。

「由香里さん?なぜここに?」

向こうも京子に気づくと、目を大きく見開き駆け寄ってきた。

「京子さん、次もわたしたち、一緒ね」

「そうね、またよろしくね」

意味深な笑顔の由香里に、京子も平然を装い答えた。

Fin.

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