男と女の、珠玉のラブストーリー。

秋の夜長、「その先」のことを語りましょうか。

待ち受けるのは、深くて暗い、底なし奈落。

恋をしたら決してこの物語を読むことなかれ、
特に25歳以下は閲覧禁止。

「事実は小説より奇なり」とはよく言ったもの。

この物語の主人公、あなたの知り合いだと気づいても、
どうか、素知らぬフリをして―。


第1夜「迫る女」


商社勤務・受付嬢29歳の平凡な日常が…


汐留の、作りものめいた風景が好きだ。

通勤なんて短くて楽であるほどいい。新しい服や華奢な靴を濡らすことなくオフィスに入れることは、時給と同じくらい、派遣先を選ぶときの大きな決め手だった。

時間がある時は遠回りして、大好きなカフェ『コンフォートスタンド』で熱い絶品コーヒーをテイクアウト。そして受付スタッフは、8時前には控室に。

そこで徹底的に身なりを整える。

湿気がある日は通勤で乱れた髪をもう一度ヘアアイロンでカールさせてから、驚くほど広いエントランスの中央、総合受付カウンターに出るのだ。

お食事会で大手総合商社の受付嬢だとわかると、好色な目で見られたり、同席したキャリア女子からあからさまに馬鹿にしたような視線を投げかけられたりするが、もう慣れっこ。

受付嬢は気楽そうに見えるが、現実は厳しい。

1日100人以上を接客、半分くらいは英語を使い、何百とある部署名、扱う商材、役員や部長たちの顔とフルネームを頭にたたきこまないとつとまらない。時給は2,000円と、派遣としては好待遇だが、入社して1週間で辞める子もいる。

とは言え、残業はまったくと言っていいほどなく、あっても1分単位でお給料が出るので私はこの仕事がおおいに気に入っていた。

会社は、CA経験のある若くてきれいな人妻を優先して採用していて、元CAでもなく独身で、2年前当時27歳の私が決まったのはラッキーだった。

会社が独身を嫌うのは理由がある。

これまで、もめごとを起こして辞めた子は、全員が男性社員と色恋沙汰がこじれた挙句のことらしい。

「礼美ちゃんも、面倒だったらフェイク結婚指輪でもつけたほうがいいんじゃない?」

すでに商社マンやエリートの妻の座を手にして、子供ができるまでの暇つぶしにここにきている優雅で無神経な同僚が詮索してくるたびに、私はにっこりとうなずいたりしてみせた。

まあ、そうは言っても、私ももうすぐ「そちら側」に行く身だ。

余裕で微笑めたのも、不良妻の心得なんてしょうもない話にそれなりに楽しく耳を傾けられたのも、婚約中という身分だったからに他ならないのだ。

結婚しても、しばらくはこの楽ちんな身分を手放さず、汐留OL気分を味わおう―。

そう考えていたある日、それは起こった。


受付スタッフが緊急招集された朝、告げられた不気味な「来客情報」とは?


「女は今日、必ずここに来る」


「今朝は総務部から直々に、受付のみなさんにお願いがあります」

4人の受付スタッフがそれぞれマスカラとリップの仕上げをしていると、物々しい雰囲気で普段は来ない男性社員たちがやってきた。

「まず、言うまでもないことですが、この情報は決して部外者に漏らさないでください。究極の個人情報を含みます。この写真も持ち帰りますから、この場でこの人物の顔を覚えてください」

切れ者と噂の総務部次長が、メイク道具を押しのけて中央のテーブルに2枚の写真を置いた。

1枚は、会社エントランスの監視カメラから撮影された女性の全身写真、1枚はスマホ撮影だろうか、アンサンブルにミモレ丈スカートでにっこり微笑む30歳くらいの女性の写真だった。




「今日、この女性が弊社に来て、ある男性社員を訪問します。その時、決してその社員に取り次がないでください。部署に電話するフリをして、警備課に電話し、女性にはその場で待つよう伝えてください。皆さんが時間を稼いでいる間に、総務と警備が急行します」

「もし訪問先を共用のコンビニなどと記入されたらいかがいたしましょうか」

受付リーダー格の先輩が、朝の化粧を中断されたことに内心怒っているのだろう、いつもよりもさらに慇懃な態度で次長に尋ねる。

「だからこそ、個人情報と写真を提供するんだ。適当に足止めしろ。この女は、先月から弊社の社員に付きまとって、すでに1度、わが社に潜入している。今日も全く違う名前を書いて入ろうとするだろう。お前たちが顔を覚えて、絶対に止めろ」

興奮気味に、太った50代半ばの男性社員が割って入ってきた。

この年で私たち受付スタッフに名前と顔が知られていないということは、大して出世していないということだ。まったく小物ほど、下の立場の女に命令してくる。

皆同じことを思っているのだろう。受付の女たちは、美しく整えられた眉をピクリとも動かさず、その男の顔を見た。

切れ者次長が、不穏な空気を察したのか、咳払いすると、ようやく今回の「特命」の全容を話しだした。

訪問者の名前は柳井雪、29歳。

3か月前まで丸の内の大手損保に勤務していたが、今時珍しく寿退社。1年間交際した婚約者はまもなく駐在が決まっていたという。

写真で見た通り、いかにもいいところのお嬢さんといった経歴だったのだ。

皆に祝福され、海外で新婚生活をスタートさせる。

時代が変わったと言われても、それはやっぱり若い女の子が夢に見る、ささやかだけど等身大のシンデレラストーリーだ。

不意に、写真の中に、自分が写っているような錯覚にとらわれる。29歳といえば同い年。はじめは不気味に思えた監視カメラの写真に写る女性が、急に身近に感じられた。

「それで、会社まで辞めたのに、何らかの理由で結婚が取りやめになった。そしてその婚約不履行の男が、御社の社員ということでよろしいでしょうか?」

先輩スタッフの言葉に、男性たちはうむ、と一つ唸ってみせた。いつの間にか、女と男、それぞれの立場に感情移入しているようだった。

「当該社員の話によると、今月に入って常軌を逸した行動があるようだ。彼は身の危険を感じている。…そして女は今日、必ず男に会いにここに来る理由がある」


女は本当に来るのか…?受付嬢・礼美が見た、戦慄の結末とは!?


彼の名は


「今日は、柳井雪の30歳の誕生日で、入籍を約束した日だということだ。昨日、スマホにメッセージが入り、会いに行くと予告があったらしい」

その場にいた者は、誰も言葉を発しなかった。

女に不自由しないこの会社の男にはよくある話なのかもしれない。しかし、29歳の女と1年以上付き合い、結婚と駐在をほのめかし、彼女が会社を辞めたところで婚約破棄とは、いくらなんでもやりすぎた。

若いエリート男の驕りで済まされるようなものではない。

当然女は半狂乱になった。

しかし男は、ろくに話し合いもせず、着信拒否に、未読スルー。

私には、柳井雪の心が手に取るようにわかった。きっとはじめは、とにかく話したい、その一心だったはずだ。

一度は結婚を誓った仲なのだ。悪いところがあったのなら直すし、何か問題が起こったのなら、一緒に戦う。

だからとにかく、会って話したい。このまま終わらせるわけにいかない。

会社も辞めたし、親にも友達にも、エリート彼氏と結婚すると言ってしまった。何より、大好きなのだ。世界で一番、愛している男が、自分を無視するなんて、そんなことがあるはずがない。

何か理由があるはず。
それを聞くまでは、終われない。

自宅に行く。いつも不在。会社に行くしかない。玄関近くで待っていたけれど、どうしても会えない。取り次いでももらえない。社内の共用店舗名を訪問先に書いて、受付を通過しているOLを見た。やってみたらあっさり社内に入れたけれど、男のいる部署にはセキュリティゲートがあった。

次はどんな手を使ったら、あの人に会えるー?




「今回は、事前にブロックし、当該社員に接触する前に総務が対応します。万が一危害を加えるようなことがあれば、その時は警察を呼ぶかもしれません」

資料は全て回収され、私たちはあわただしく受付に向かった。

「まったく、そんなクズ男、私たちや会社がそこまでして守ってやることなんかないんじゃない?」

先輩たちがうんざりしたようにこちらを見た。

「まったく身から出た錆、自業自得ですよ。どうせ二股でもかけてて、もう一方のほうにしたんですよね」

私もうなずきながら、受付端末を立ち上げる。

どこの部署の、何という男か。

この会社の、若手で目立つ社員は、大抵顔と名前が一致する。できる男はそれだけ訪問客が多く、自然に覚えてしまうのだ。

今日のアジェンダの、機密情報のページにパスワードを入力したとき。

全ての血が逆流するような、毛穴から吹き出すような感覚があった。

取次禁止:鉄鋼部 坂上康太。不審客訪問時、即刻警備内線9999

「こう、た?」

思わずこぼれた声に、隣の同僚がちらりとこちらを見る。

坂上康太。私が来月、結婚する男の名前だ。

「これ、お願いします」

数秒か、永遠か。

固まっている間に、いつの間にか訪問客が私の前に立っている。

デニムにスニーカー、パーカーのフードをかぶり、リュックを背負っている。訪問先には、1階エントランスのコーヒーショップが記入されていた。

「…失礼いたしました、少々お待ちくださいませ」

奮える手で入館手続きをして、パスをお客様に渡そうとしたとき、「彼女」と目があった。

笑っても、悲しんでもいない。何も映っていない瞳。

いつの間にか、背負っていたリュックを下ろし、両腕に抱えている。強く組み合わされた指が白い。

「…お待たせいたしました。どうぞお入りください」

まるで自分の声でないような、私の声。止めるべきなのに、頭の芯がしびれて、うまく体が動かない。

彼女はにっこりと笑うと、落ち着いた足取りで、店舗ではなく、エレベーターホールに向かった。

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