TBSラジオで31年続く長寿番組『森本毅郎・スタンバイ!』(月〜金、午前6時半から)。森本毅郎さん(80)のアシスタントを務める遠藤泰子さん(76)は、TBSラジオの「最年長女子アナ」だ。遠藤さんは「番組の終了するときが引退」と明言している。連載ルポ「最年長社員」、第7回は「アナウンサー」--。
撮影=今村拓馬
フリーアナウンサーの遠藤泰子さん(76) - 撮影=今村拓馬

■小柄なのに「マイクの前」に座ると大柄にさえ見える

6時29分、東京・赤坂、TBSビル9階。第7スタジオで遠藤泰子(やすこ)がスタンバイしていた。76歳、職業はフリーアナウンサー。

『森本毅郎・スタンバイ!』がまもなく始まる。番組が開始したのは1990年、開始3年後から同時間帯聴取率1位を続けているTBSラジオの2時間番組だ。

「三密」を避けるため、森本は赤坂の事務所から中継で出演する。

6時30分、森本のバリトンがスマートに口火を切った。Zoomの画像でつないでいるのかと思ったが、やりとりは音声のみだ。森本がまず触れたのは、この日告示された東京都知事選。前日に行われた候補者の会見について、新聞記事を引きながら各候補者の論点を分析。遠藤はそれに短く相槌を打ち、続けてニュースを読み上げていく。

6時41分からは「歌のない歌謡曲」だ。全国37のAM局で月〜金の朝に放送されているパナソニック一社提供の番組で、1952年から続いている。15分間、歌の入っていないインストゥルメンタルの歌謡曲を数曲流しながら、各局のアナウンサーがおしゃべりをする。TBSラジオでは1990年から30年間、遠藤が1人で担当している。

この日の遠藤は、最近のゴミ分別について、「これからはマスクを捨てるときも、むき出しにしないといった配慮が必要」という記事を取り上げた。朝刊から自ら拾った話題だ。低音が重なり合うような声は、きっぱりと、朗らかだ。

スタジオに入る背中は少し丸く、実に小柄な後ろ姿だった。ところが、マイクの前の遠藤は大柄にさえ見える。

■「あの艶っぽい声。ちょっとあり得ないですよね」

『森本毅郎・スタンバイ!』の中で、遠藤の主な出番はニュース読みとその後の「歌のない歌謡曲」だ。だが、7時台のニュースを森本がコメンテーターと深掘りするコーナーでも、議論に小さく同意したり、違和感を発したりしながら、そこにいる。遠藤の気配は森本の鋭く熱のこもった語り口と調和し、番組全体に健全でバランスのとれた雰囲気をもたらしている。静かだが、その存在感は確かだ。

スポーツ担当のTBSアナウンサー小笠原亘が、恐れ入ったという顔をした。

「泰子さんのあの艶っぽい声。ちょっとあり得ないですよね。出しゃばらずにメインを引き立てて76歳まで現役を張る。こんな仕事の目指し方もあるんだという女子アナのひとつの理想形だと思います」

遠藤のうなずく技術を解説してくれたのは、TBSラジオキャスターの田中ひとみだ。

「相槌ってやりすぎるとうるさいし、やらなすぎると無視したみたいになってしまいます。相手の気持ちのいいところに返しているのが泰子さんだと思います」

■アナウンサーならメインを張りたいのではないのか

「2人の大樹との出会いがありました」

インタビューは、遠藤のこの言葉から始まった。

23歳で永六輔に出会った。テレビ・ラジオの黎明期に一時代を築いた放送作家・作詞家・タレントにしてしゃべりの天才。遠藤はラジオ番組『永六輔の誰かとどこかで』のアシスタントに起用された。

「永さんにお会いしたとき、放送を通じて発せられる言葉はこういう人が紡ぐべきことなんだ、自分が何かを表現したいなんて思い違いだったと、痛感しました」

そして遠藤は「聞く立場」を自分の仕事と定めたという。

撮影=今村拓馬
「ただただ長く仕事をしてきただけで取材を受けるなんて恥ずかしいです」と遠藤ははにかんだ。 - 撮影=今村拓馬

寄らば大樹の陰。永六輔という大樹の陰で聞き役(=アシスタント)に徹してきたという意味なのだろう。だが、アナウンサーとはメインを張りたいものではないのだろうか。

「ええ、ほとんどのアナウンサーはそうだと思いますよ。自分の冠番組を持ちたい人は多いと思います」

実際、アシスタントなんかをしているから女性のアナウンサーはダメなんだ、と同じ女性アナウンサーに切り捨てられたこともあった。

「でも、一番手になれないことは自分がよくわかっています。それにメインを支えるアシスタントの仕事をつまらない仕事とは思っていません。アシスタント役がいないと番組が成り立たない部分もありますし。何より、私はアシスタントの仕事が好きなんだからいいじゃないのと。そんな生き方をしてきちゃいました」

アシスタントを53年。この強い意志はどこからきているのか。

■1966年に「第11期アナウンサー」としてTBSに入社

1943年、横浜生まれの遠藤は戦時中の子どもだ。両親は明治の人。父が40歳、母が37歳で授かったひとり娘。

撮影=三宅玲子
遠藤がスタジオに入る後ろ姿。ここから空気が一変した。 - 撮影=三宅玲子

音読が好きで、おはこは「万寿姫」。母は「ヤッコちゃんはほんとうに読むのが上手」と褒めた。

一方で、思い通りにならないことや受け入れられないことがあると、自分の肌を掻きむしって激しく傷つけてしまう。癇の強い子どもだった。

ウーマンリブの世代だ。自活への自意識は早くに芽生えた。結婚して家庭に入る平凡な幸せを娘に求める両親に強く反発した。

だが、奇妙な矛盾も抱えていた。

「ステージがあるとしたら、見る側ではなく演じる側に立ちたい。でも主役はいや」

ちょっと控えた位置で目立つことを好む志向はアシスタントに適している。

女子の大学進学率が3.3パーセントだった年に、立教大学へ。

100倍の倍率をくぐり抜け、4人の女性同期とともに第11期アナウンサーとしてTBSに入社したのは、東京オリンピックの2年後、1966年だ。

■「10年後に1人でも残っていれば上出来だな」

研修で講師が言ったことを今でも覚えている。

「この中で10年後にも会社に残っているヤツが1人いれば上出来だな」

特に反発を覚えたわけではない。ロールモデルの見当たらない時代、22歳の遠藤にとって、自立という言葉はまだふんわりとしたものだったのだ。事実、40歳の女性アナウンサーに「えー、こんな年齢まで働くの?」と驚愕(きょうがく)もした。

この頃、あるディレクターにこう話しかけられた。

「ヤッコさあ、年齢を隠すようなアナウンサーにはなるなよな」

女性の若さが今では考えられないほど価値があった時代に何気なく言われたこの言葉を、遠藤は頭の隅に持ち続けることになる。

試練は1年目に訪れた。

担当番組を持つなど恵まれたスタートだったが、自信をなくした。男性社会の荒波にもみくちゃにされ、人間関係で悩んだ。癇の強い「ヤッコちゃん」は、周囲のちょっとした言葉にグサグサと深く傷つき、ひとり涙を流した。

自分を持て余し、悩み抜いた。揚げ句、こんなことしてちゃダメだと、性格を変える決心をした。会社に行くと、ビルの守衛をはじめすれ違うすべての人に朗らかにあいさつし、「とにかく明るい遠藤泰子」を演じた。苦しかった。

撮影=今村拓馬
第7スタジオのこの席にふだんは森本とコメンテーターもいる。 - 撮影=今村拓馬

26歳目前で番組ディレクターとの社内結婚を機にフリーランスに。永六輔のアシスタントを継続。天才的な放送人のもと、仕事は充実していたはずだ。

■絶望で泣き尽くした「35歳の嵐」

嵐が吹き荒れた。35歳のときだ。

自動車免許を取得した翌日、飲酒運転で交通事故を起こした。少し前から夫婦関係が泥沼にあった。

テレビのワイドショーでもアシスタントを務めていた遠藤は、番組を降板。事故は女性週刊誌をにぎわせ、親しい人たちが離れていった。全てを失ったと思った。軽井沢の知人の別荘に身を隠し、絶望で泣き尽くした。2カ月ほどたち、どん底の遠藤に「そろそろ戻ってくるか」とある役員が声をかけてくれた。恩人の永六輔も「帰っておいで」と言う。そっと番組に戻った。

仕事の間はいや応なく一切のプライベートを忘れられる。仕事が遠藤を苦しみの底から引き上げた。

「相手の感情はどうしようもない」「もう一度やり直したいと思ってもそういうものでもなかった」と振り返る言葉は、事態が遠藤の望まない方向に進んでいたことを思わせる。

思い通りにならない人生に折り合いをつけ、自分を納得させなくてはならない。23歳で「自分を変えられる」と知ったことが、嵐をしのぐすべとなった。激情を抑えつけ、揺れ動く感情をなだめることを繰り返しながら、ますます「円満で明るい遠藤泰子」をつくりあげた。

■88年10月には、J-WAVE開局の第一声を担当

自分を変えることへの切羽詰まった思いを支えたのは、幼い頃に肌を掻きむしったほどの激しい気性だ。変わらなくてはと激しく願った。このときの七転八倒が積み重なり、今、遠藤は根っから明るい。

「どこか、客観的に自分を見られたんだと思います」

すっかり遠いことになってしまっていたけれど、と遠藤が振り返った。

「そう、自分で自分を変えました。だから、願えば人は変われると自信を持って言えます」

気づけば、インタビューは人生相談となっていた。

「過去は忘れられます。そうでないと、生きていけないじゃない?」

ラジオで聴く声のままに遠藤が笑った。

「乗り切れるものですよ、人間は」

事故から2年後、離婚。半年後に再婚。仕事は徐々に増えた。88年10月には、J-WAVE開局の第一声を担当した。

■報道番組で大切なのは「若さ」より「成熟」

もう1人の大樹が森本毅郎だ。

『森本毅郎・スタンバイ!』が始まった90年4月、遠藤は46歳。その頃には遠藤といえば「アシスタントの名手」という認知が社内に浸透していた。10年をかけて挽回したのだ。

撮影=今村拓馬
毎朝、遠藤の語りかける声に励まされて起き上がるというファンもいる。 - 撮影=今村拓馬

キャスティングはTBSラジオのプロデューサー。廊下をすれ違いざまに「よろしく」と軽い調子で声をかけられた。

森本はNHKを退職して7年目の50歳、テレビを中心に鮮やかに活躍していた。『スタンバイ』は「聴く朝刊」をキャッチフレーズに、リスナー目線に沿うことを徹底して始まったニュース番組。報道分野から選りすぐりのベテランコメンテーターを招いての解説は、硬派だがわかりやすい。シニアから小学生まで幅広いリスナーを持つ。

番組が始まって間もなく、遠藤は森本からこう言われた。

「なあヤッコ、これからは年齢相応の声で、年齢相応のニュースを伝えていこうよ」

民放での仕事を続けるうちに、かわいらしい声で伝えることがいつの間にか身についていた。報道番組で大切なのは「若さ」より「成熟」。このときから遠藤は等身大の声で伝えるようになった。

■「人々の関心はこっちだろう。新聞を盲信するな」

番組の準備は前日夜7時ごろから始まる。取り上げるニュースを確定するためにディレクターがコメンテーターと複数回打ち合わせる。深夜にかけては台本づくりだ。プロデューサーが朝3時にスタジオに入るとすぐに打ち合わせ。5時、森本のチェックが入る。

つい最近、ディレクターの志田卓は、各朝刊トップに合わせて「イージスアショア計画停止」のニュースをトップに台本をつくったところ、森本からダメ出しされた。前日、コロナの感染者数が東京で再び2日連続40人を超えていた。「人々の関心はこっちだろう。新聞を盲信するな」。自分の頭で考えよという意味だ。

撮影=三宅玲子
スタジオでは4人のスタッフが番組を支えていた。 - 撮影=三宅玲子

阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、ベルリンの壁の崩壊、ニューヨークテロ事件、東日本大震災。歴史に残る事件を伝えてきた。突発ニュースが起こると森本が陣頭指揮をとって急ごしらえの台本に切り替わる。遠藤はコマーシャルのタイミングをそっと伝えるなど、番組がスムーズに進行するよう裏方に徹する。森本とコメンテーターが進行する間、遠藤は静かだ。

「リスナーにいちばん伝わる方法は、お二人がしっかり話されることです。そのためにもお二人にとって伝えやすいことが大切です。中途半端な言葉を挟んでは邪魔になりますから」

■54歳で離婚し、69歳で再々婚。今は認知症のパートナーを介護

加齢とともに体力は衰えるが、なかでも気が抜けないのは歯のコンディションだ。

「たった1本インプラントにするだけで舌の動きに影響します。アナウンサーにとっては食べ物がかめることより、変わらずに話せることの方が大事なんです」

思わぬ箇所で舌がもつれることがある。その度に舌の運動をして調整する。プロの仕事をするためだ。

撮影=今村拓馬
遠藤がマイクに向かうとスタジオの空気は引き締まる。 - 撮影=今村拓馬

けれど、気力の衰えは一度も感じたことがない。

「もちろん、日々を生きていくなかでは、悲しいこと、つらいこと、いろんなことがありました」

54歳で再び離婚し、69歳で再々婚。今は認知症となったパートナーを介護している。

「でも、毎朝5時に赤坂に来れば気持ちを切り替えて仕事に集中します。この番組に参加する充実感はかけがえのないもの。体調が悪いときも気持ちがふさいでいるときも、この仕事がいやだと思ったことは一度もありません」

幸せですと、遠藤は3度繰り返した。

『誰かとどこかで』は2013年9月の最終回まで46年9カ月、1万2638回。『スタンバイ』は4月、31年目を迎えた。

入社1年目でディレクターから受け取った言葉に忠実に仕事をしてきた。『スタンバイ』が終了するときが引退と決めている。

■「存在感があるのに、存在感を出さない」

なぜ、30年間、アシスタントが遠藤さんでなくてはならなかったのでしょう?

番組終了後、スマホの画面越しに森本に尋ねた。

森本は「ニュースを読む正確さ」と「空気感の見事さ」と即答した。

「日本一のニュースリーダー」「存在感があるのに、存在感を出さない」。短い言葉で森本が称賛し、スタジオの遠藤が小柄な体をさらに縮めた。かつてこの世界には、ニュースは報道畑のアナウンサーにしか読ませないという不文律があった。遠藤が初めてニュースを読んだのは46歳。今もニュースは素人だという思いでやっているという。

撮影=今村拓馬
小笠原亘アナウンサーと透明のアクリル版越しに笑い合う遠藤。 - 撮影=今村拓馬

鯨井達徳は、20年前にこの番組のディレクターとなり、現在はプロデューサーを務めている。あるとき、マイクに向かう遠藤をブースで見ていた森本が「きれいだなあ」とつぶやいた。「え?」と視線を向けると、森本は音量のメーターを見ている。遠藤の声はずっと同じ音量を保っていた。一定の音量を保つ遠藤のアナウンス技術に森本は驚嘆していた。

「ご本人はそうはおっしゃらないけれど、見えないところでものすごく努力をされてきたんだと思います」(鯨井)

取材の最後、森本が「だけどね、遠藤さんはね、ずるい人ですよ。僕のおかげでいい人になっているんですからね」と混ぜ返すと、スタッフがドッと沸いた。

森本はニュースの本質を追究するため仕事に厳しく、スタッフはいつもピリピリと緊張している。だからこそ番組は聴取率1位を独走しているのだが、緊張感を和らげる遠藤は、得な役回りだというのだ。

「ええ。私、ずるいんですよ」

うふふと遠藤が笑った。

----------
三宅 玲子(みやけ・れいこ)
ノンフィクションライター
1967年熊本県生まれ。「人物と世の中」をテーマに取材。2009〜2014年北京在住。ニュースにならない中国人のストーリーを集積するソーシャルプロジェクト「BillionBeats」運営。近著に『真夜中の陽だまりールポ・夜間保育園』(文藝春秋)。
----------

(ノンフィクションライター 三宅 玲子)