砂利運搬用として東京市電気局(東京市電)の電動貨車を玉電に乗り入れさせるための許可申請書=資料/国立公文書館蔵

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「砧(きぬた)」と聞くと、東京都世田谷区にある“東宝”の撮影所を思い出す方もおられることだろう。「玉電(たまでん)」(玉川電気鉄道)の支線だった砧線のルーツは、東京都と神奈川県の境を流れる多摩川で採取した“砂利(じゃり)”を都心部へ運搬することを目的として、1907(明治40)年に開業した渋谷と玉川(当時→現・二子玉川/世田谷区)を結んでいた路面電車=玉川電気鉄道にはじまる。いつしか「じゃり電」とも呼ばれ、世田谷区民の足として親しまれた。自動車の普及が急速に進んだ東京オリンピック(1964/昭和39年)のころは、道路渋滞の元凶として「ジャマ電」と揶揄された。そうした光景とは無縁の長閑な風景の中を走っていたのが、「砧線」だった。廃線から57年。今も残される面影をたどりながら、砧線の今昔を振り返ることにしたい。

※トップ画像は、多摩川沿いの田園風景を走る「たまでん砧線」。クルマに囲まれて国道246号線を走る光景とは一変して、砧線は長閑な風景の中を走っていた=1960(昭和35)年5月、世田谷区玉川

開業まで紆余曲折あった砧線

砧(きぬた)と聞くと、都立公園の広大で芝生の緑豊かな「砧公園」や、有名人が住む邸宅街を連想してしまうが、ここでいう砧とは”玉電(たまでん)”の路線名「砧線」のことである。砧線は、関東で3番目に古い鉄道として開業した玉川砂利電気鉄道(計画時の社名)をルーツとし、その支線として1924(大正13)年に玉川(現・二子玉川)と砧(のちの砧本村〔きぬたほんむら〕)を結ぶ、わずか2.2kmの路線として開業した。

砧線が開業した目的のひとつは、瀬田河原(現在の二子玉川周辺)にあった砂利採取場で採取した「砂利」を都心部へ輸送することにあった。この砂利採取場の権利は、玉川電気鉄道が一手に取得していた。砧線は、この砂利を扱っていた玉川砂利会社と玉川電気鉄道が、1920(大正9)年に契約を結び計画した路線だった。開業後は、玉川砂利会社が砧線〜玉川線を経由して、東京市電気局(のちの東京市電→東京都電車=都電)へ”砂利”を供給・販売した。

砧線の開業は、今から102年前の1924(大正13)年3月のことで、当初の計画では大正12年9月を見込み、線路もこの年の8月には完成していた。ではなぜ、開業に遅れが生じたのか。そこには、砂利の運搬方法と震災が大きく関わっていた。大正12年3月のこと、砂利の供給先となる東京市電気局(東京市電)から砂利運搬のために、電動貨車を玉川線と砧線に乗り入れさせようとした。しかし、その電動貨車は構造に問題があることが判明した。これが開業を遅らせた一番の要因だった。

そうであれば貨物は二の次で、先ずは旅客輸送からはじめればよかったのでは、と思ってしまうが、そこは砂利輸送のために作られた路線だっただけに、そうはいかなかったのだろう。そこへ追い打ちをかけるように関東大震災(大正12年9月1日)が発生し、その被害と復旧作業も相まって、わずか2.2kmの区間を開業させるまでに、計画から4年もの歳月を費やすことになった。砂利輸送はのちに、玉川砂利会社が解散したことで行われなくなり、砧線は旅客輸送へ専念するに至った。

砂利運搬用として東京市電気局(東京市電)の電動貨車を玉電に乗り入れさせるための許可申請書=資料/国立公文書館蔵

昭和初期に発行された「玉川電車沿線名所図絵」より。右書きで書かれた「たぬき」の文字に時代を感じさせる=資料提供/宮田道一コレクション

「きぬた」の語源とは

砧線には、砧と名の付く駅(停留場)は1駅しかない。終点の「砧」。この駅名は、1961(昭和36)年に「砧本村(きぬたほんむら)」に改称され、1969(昭和44)年5月10日に廃止されるまで存在した。砧線の最盛期には、玉川→中耕地(なかこうち)→吉沢→伊勢宮河原→大蔵→砧という駅が存在した。このうち、最後まで残った駅は、玉川(二子玉川園)、中耕地、吉沢、砧(砧本村)だけだった。

中間にあった伊勢宮河原と大蔵の2駅は、先の大戦前に廃止されたという。中耕地は、開業当初「遊園地下(ゆうえんちした)」という駅名(停留所名)だった。これは近隣に”玉川遊園地”(二子玉川園とは異なる)があったことによるもので、玉川線にも”遊園地前”という駅(停留場)が玉川駅のとなりにあった。また、大蔵駅は採取した砂利を積み込むための駅として、「大蔵貨物積卸停留場」として開業していた。

「きぬた」の語源には諸説あるものの、当地周辺で作られていた布の製作過程に関係するという。多摩川の水流にさらした衣(きぬ)を、板の上で叩いてやわらかくする。その板を「衣板(きぬいた)」と呼び、これが転じて「きぬた」。さらには、衣(きぬ)を叩いてやわらかくする道具を「砧(きぬた)」と呼んでいた。これが地名になったとされる。

1933(昭和8)年に発行された『玉川電車沿線遊覧案内』には、「多摩川をへだて、向丘から高津あたり(川崎市多摩区および高津区)と相対し、いかにものんびりした土地である。北部は丘陵地帯で玉川村に接し、西隣は狛江村(こまえむら/東京都狛江市)の星、東は治大夫堀(じだゆうぼり/世田谷区喜多見)に沿うて玉川瀬田(世田谷区)につづいている」とある。そして、砧というエリアは二つの調布(調布市の調布と大田区の調布地域)に挟まれており、この調布という地名も「布」に関する由来を持っており、その間にある地域を「砧」と名付けたことも、なんとなくうなづける。

1930(昭和5)年に発行された地形図に記載された砧線の路線図。「たまがは(わ)」、「きぬた」以外の駅は記載されていない。※着色は筆者加筆のもの=資料所蔵/JLNA

1933(昭和8)年に発行された『玉川電車沿線遊覧案内』より。玉川から分岐して砧までを結んでいるのが「砧線」=資料/宮田道一コレクション

二度も駅名が返り咲いた二子玉川、「ふたこ」「にこたま」あなたはどっち派

かつての砧線が発着していた二子玉川駅。いまから26年前までは「二子玉川園」という駅名だった。略す呼び方も昭和の時代は「ふたこ」、昭和から平成のいわゆる”バブルの時代”に入ると若者を中心に「にこたま」と呼ぶようになった。当時、その呼び方ひとつで年齢がバレると冷やかされたものだった。子どもの頃の“ふたこ”の多摩川といえば、メダカがいて、夏には川遊びをした遠い日の記憶。もちろん1965(昭和40)年代なかばの話であるが、二子玉川園で見た”怪獣パレード”も今となっては懐かしい思い出だ。

二子玉川駅が、現在の姿となる前は駅の西口に東急ストアがあり、この場所はかつて玉電の二子玉川園駅があった。しかし、いまとなっては大型商業施設(二子玉川ライズ・ドッグウッドプラザ)に生まれ変わっており、その場所がどこだかわからないくらい変貌を遂げている。田園都市線、大井町線の二子玉川駅も元々、玉電と同様に地上に駅があった。高架駅となったのは1966(昭和41)年のことで、これはそれまで地上を走っていた大井町線(溝の口〜大井町)を高架化したことによるものだった。

たまでん由来の二子玉川駅は、何度となく駅名を変えていることをご存じだろうか。玉電の玉川駅(1907/明治40年〜)にはじまり、二子玉川線(のちの大井町線)が開業して二子玉川駅(1929/昭和4年〜初代)が誕生するが、玉電の駅名はそのままとされ、玉電はその後、よみうり遊園駅(1939/昭和14年〜)となったのち、両駅名を統合して二子読売園駅(1940/昭和15年〜)を名乗った。その後も、再び二子玉川駅(1944/昭和19年〜2代目)へと戻り、二子玉川園駅(1954/昭和29年〜)を経て、2000(平成12)年からは現在の二子玉川駅(3代目)となった。二子玉川の駅名は、二度返り咲いたのである。

廃止直前となる1969(昭和44)年5月に撮影された玉電の二子玉川園駅。廃止後は東急ストアがこの場所に建っていた。今はなき駅前にあった富士観会館の最上階から撮影したもの=写真提供/飯島巌コレクション

かつての二子玉川園駅の西口にあった東急ストア。この場所に玉電の二子玉川園駅があった=1983年ごろ

二子玉川駅のほど近くにあった遊園地「二子玉川園」で開催された怪獣パレードの案内看板=1972年8月27日、世田谷区玉川

現在の二子玉川駅(東口)のようす=2026年1月6日、世田谷区玉川

かつての玉電の駅があった場所も、いまは駅の中に取り込まれている。二子玉川駅で西口方向を見る=2026年1月6日、世田谷区玉川

砧線延伸の終着駅は、小田急線の「和泉多摩川駅」だった

砧線は、砂利運搬を目的として開業したわけだが、1925(大正14)年には「狛江線(こまえせん)」という路線名で、砧線の砧駅から先に線路を伸ばすことが計画される。これは、1929(昭和4)年7月に「砧村・狛江村間軌道(路面電車)の起業」として特許を受け、より現実味を帯びることとなった。しかし、思うように事が進まなかったようで、当初の計画では1930(昭和5)年5月までに開通させる目標だったものが、あえなく延期され、この延期は以降20年以上にわたり続くことになる。

時を同じくして、玉川電気鉄道のいわば兄弟会社となる「目黒玉川電気鉄道」が起業し、目黒〜多摩川(等々力のあたり)〜鎌倉(神奈川県鎌倉市)、目黒〜清水(目黒区目黒本町)〜駒沢、清水(同)〜二子玉川と、路面電車ではない俗にいう鉄道線(地方鉄道線)の路線建設を企てた。この目黒玉川電気鉄道の構想は実現することなく、1935(昭和10)年に会社は起業廃止・解散している。当の玉川電気鉄道も、1938(昭和13)年に東京横浜電鉄(→のちの東京急行電鉄→現・東急電鉄)に吸収合併された。狛江線の計画は、そんな時代の出来事でもあった。

いつのころからか、狛江線の名称は書類上からは消え「砧線」と記載されるようになった。工事期限は、変わらず延期し続けていた。先の大戦が佳境を迎えた1943(昭和18)年になると、国は(鉄道の)輸送力増強を行うことを推奨し、軌道線(路面電車)からいわゆる地方鉄道法に基づく鉄道線へと変更願いを申請すれば、許可を出すという一手に出た。

砧線は、同じ玉電でも玉川線とは異なり、路面電車でありながら道路上ではなく、専用軌道と呼ばれる独立した線路の上を走っていた。これは鉄道線としての条件を十分に満たしていた。そこで、この機会に”みなし軌道線”から脱却することを選択する。昭和20年10月から地方鉄道法に基づく鉄道線へと、業態変更を行ったのだ。しかし、砧線の延伸予定区間である砧〜和泉多摩川(書類上は砧村〜狛江村)は、軌道法による路面電車のまま、据え置かれた。

それから6年の歳月が過ぎた1951(昭和26)年9月になると、東京急行電鉄は「砧村・狛江村間軌道起業廃止届」を運輸大臣と建設大臣あてに提出した。その理由は、「(砧線を延伸するよりも)狛江村と都心を直結する方が得策と考え、昭和26年3月をもって(東急世田谷線の)上町〜荒玉浄水場前(世田谷区喜多見)間の免許申請をしたので、先の起業を廃止する」というものだった。

翌(昭和27)年6月4日付で廃止が認可され、砧線の和泉多摩川駅への延伸計画は、夢となり消え去った。本来、起業を廃止した場合、与えられた”特許状”を返納する必要があるのだが、先の大戦による戦災(昭和20年5月の空襲)で特許状は焼失したとして、返納は行われていない。

砧線の延伸計画区間(砧村〜狛江村)の軌道起業廃止を運輸省と建設省(当時)に届け出た書類。昭和26年9月25日に届け出を行い、翌(昭和27)年6月4日に廃止が認められた=資料/国立公文書館蔵

1939(昭和14)年2月に東京市電気局が取りまとめた「東京市交通機関網図」。砧線の延伸区間が記されている貴重な資料で、計画上の終点が、小田急線の「和泉多摩川」駅だったことがわかる=資料/国立公文書館蔵

新玉川線の建設と玉電(玉川線・砧線)の廃止

沿線人口の増加によって玉電の輸送力に限界が見え隠れしていた1956(昭和31)年になると、東京急行電鉄はあらたに玉電玉川線に代わる地下鉄=新玉川線(現・田園都市線の地下鉄区間)の建設を目指すことになった。

その計画は、第一次案では玉電とまったく異なるルート、第二次案は渋谷〜三軒茶屋間を玉電ルートで地下鉄とし、三軒茶屋〜二子玉川園間は玉電玉川線とは異なるルートで高架区間とする計画だった。そして、渋谷からは銀座線(現・東京メトロ)へと乗り入れることも検討されていた。

いっぽう、砧線はというと、これらの建設案に加わることなく、バスによる代行輸送として廃止前提で話が進められていた。新玉川線の建設にまつわる話は、この先に進んでも砧線と直接的に結びつかないので、建設計画の序章を簡単に説明するだけにとどめておく。

玉電(玉川線)はその後、東京オリンピック(1964/昭和39年)が行われるころには、自動車の普及が急速に進んだこともあり、道路渋滞の元凶として「ジャマ電」と揶揄されるようになった。これにより、廃止がより現実のものとなっていった。1968(昭和43)年には新玉川線の建設が決定し、翌1969(昭和44)年5月10日に砧線は、玉川線とともに廃止された。これにより45年間という砧線の歴史は幕をおろした。

「ジャマ電」と揶揄されたころの玉電(玉川線)の光景。駒沢停留所で=1969年3月、世田谷区駒沢

新玉川線の計画路線図。東京急行電鉄50年史(1972年)より=資料所蔵/JLNA

造花やモールで飾られた惜別電車「さよなら玉電」。廃止直前とはいえ、線路内で撮影が許されるおおらかな時代だった=1969年5月、写真提供/飯島巌コレクション

二子玉川から廃線跡をたどる

砧線が廃線となってから57年となる2026(令和8)年。幸いにも廃線跡がそのままに道路へと転用されているなど、痕跡もたどりやすく距離も2km弱であり、お散歩に適した廃線跡といえよう。まずは、二子玉川駅を出て田園都市線(旧・新玉川線)の高架線沿いへと向かった。駅舎と一体となる建物の裏手へと回りこむように高架線の脇へ出ると、高架下の自転車駐輪場が目に入る。この駐輪場とその左脇にある道路が、まさに玉電2路線分(玉川線と砧線)の線路敷があったところだ。

この脇の道路をまっすぐ進んでいくと、目の前に雑木林が見えてくる。この雑木林の周囲は、「鉄道用さくがき」と呼ばれる鉄道特有のコンクリート柵で囲われていた。左に曲線を描くこの土地が砧線の廃線跡だ。並走していた玉川線の線路敷(廃線跡)はというと、田園都市線(旧・新玉川線)の高架線へと生まれ変わっていた。雑木林となっていた線路敷は、世田谷区に払い下げられており、そのおかげで再開発の影響も受けずに当時のままの姿を今にとどめている。廃線跡を埋め尽くすように育った樹木は、廃止から57年の歳月が経過したことを物語っていた。

雑木林の先は、商業施設の建物(立体駐車場)になっており、この建物は左に曲線を描いていた線路敷の上に建てられており、周囲の建物と比べてもその角度から廃線跡であることは一目瞭然だった。この先につづく廃線跡は、玉川通り(国道246号線の旧道)を越えると「花みず木通り(砧線跡)」という世田谷区道へと姿を変えていた。ここから砧線の終点駅があった砧本村バス停までは2km弱の道のりとなる。ここで、少しばかりの休憩をはさむことにしたい・・・。

二子玉川(旧・二子玉川園)駅周辺の玉電「砧線」の廃線跡略図=世田谷区設置の現地案内板に筆者加筆

砧線〔玉川・砧間〕軌道新設線路平面図より、二子玉川駅周辺を抜粋したもの。カーブを描いている辺りに小さいながらも今も砧線の線路敷は残されている=資料/国立公文書館蔵

高架下からはみ出した自転車駐輪場部分とその脇の道路が玉電の線路跡。このあたりで玉川線と砧線は分岐していた=2026年1月6日、世田谷区玉川

まだ新玉川線だった時代の高架橋の左側に沿った敷地が玉電の廃線跡。玉川線と砧線の用地だっただけに、その広い廃線跡には東急の名を冠した企業の事務所や詰所などが建っていた=1992年2月28日、世田谷区玉川

まるで雑木林と化した砧線の廃線跡。この土地は世田谷区に譲渡され、手つかずのまま57年の歳月が経過した。左下に「鉄道用さくがき」が見える=2026年1月6日、世田谷区玉川

雑木林を取り囲むように設置された「鉄道用さくがき」。この中を砧線は走っていた=2026年1月6日、世田谷区玉川

玉川通り(国道246号線の旧道)を越えた廃線跡は、「花みず木通り(砧線跡)」という名の区道として整備されていた。写真中央の細長くつづく道路が砧線の廃線跡で、その上に見える高架橋が国道246号線の新道バイパス=2026年1月6日、世田谷区玉川

文・写真/工藤直通

くどう・なおみち。日本地方新聞協会特派写真記者。1970年、東京都生まれ。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物に関連した取材を重ねる。交通史、鉄道技術、歴史的建造物に造詣が深い。元・日本鉄道電気技術協会技術主幹、芝浦工業大学公開講座外部講師、日本写真家協会正会員、NPS会員、鉄道友の会会員。

【秘蔵画像】渋谷と二子玉川と砧を結んでいた路面電車「玉電(玉川線・砧線)」のなつかしい画像の数々。貴重な廃止直前の惜別電車「さよなら玉電」の姿も(21枚)