女狂いの末、会社から“強制帰国命令”を下された駐在男の末路。そのとき、妻が下した決断は…
駐妻【ちゅうづま】―海外駐在員の妻。
数多の平凡な妻の中で、一際輝くステータス。
駐妻ワールド。そこは華麗なる世界か、堅牢なる牢獄か。
夫・彬の赴任に伴い、タイ・バンコクに来た里香子。そこではかつての留学仲間・ケイと雪乃に再会する。
里香子は日本にキャリアを置いてきてしまったことへの葛藤から、彬と口論となり、はじめて夫婦仲に危機が訪れた。
一方、夫・仁志の女遊びに悩む雪乃は、夫の醜態がSNSで晒されている事実を知ってしまう。そしてケイは、タイ人彼氏の存在を隠してしまうことや、雪乃の夫の浮気を自分が暴いてしまったことで、自己嫌悪に苦しんでいた。

「風が気持ちいい…水辺っていいね」
里香子は欄干に立って、後方で立ち止まっている彬を振り返った。
口論をしてから2週間。お互い冷却期間を置いたほうがいいという阿吽の呼吸で、二人は核心に触れる会話を避けてきた。
昨夜、固い表情の彬から、明日の夜"アジアティーク"で食事しないかと誘われたとき、里香子はきちんと話し合うときだと思うと共に、その場所のチョイスを少し不思議に思った。
アジアティークは、東京でいえばお台場のような場所。新しいスポットで、チャオプラヤー川沿いを再開発した、観光客にも人気のエリアだ。
美味しいレストランやブティックがマーケットの雰囲気を模して立ち並び、ナイトスポットとして注目を浴びている。
はっきり言って、彬の好みの場所では、全然ない。
昼間にこの辺りをひやかし程度でぶらついたことはあれど、夜景と夜風が堪能できる時間にこうして滞在するのは初めてだ。里香子は巨大縁日のような場所で、少しずつ心がほぐれていくのを感じていた。
おそらく彬は、里香子が好きそうな開放的な場所を必死で考えたのだろう。
「里香子…今までごめん。里香子の気持ちを、まったく理解しないで自分の都合を押し付けた」
唐突に、思いつめた様子で、彬が欄干にもたれる里香子の横に立った。そして里香子が口を開くまえに、緊張しながら彬は言った。
「里香子、一人で日本に帰って」
彬の真意は?どうする里香子!?
駐在中に欲しかった「たったひとつのもの」
「ええっ!?唐突!ちょっと唐突すぎない?」
里香子は、思わず手にしていたアイスカフェラテを欄干の手すりに置いた。
「俺、実はこの前ケイさんに相談に行ったんだ。これまでの状況や俺の言葉を説明したら、俺の自己中心的なところが浮き彫りになって…。ケイさんにも呆れられた。
気づいたんだ。駐在決まってからずっと、里香子と別居しない、という前提でしか話してなかった」
「うん、それは私も一緒だよ。単身赴任ていう選択肢は私にもなかった。でもね、その割に覚悟がなかったのは…私なのよ」
里香子は、川面にキラキラと映る夜景や、幸福そうな家族連れが乗るボートに目をやる。バンコクについた頃は、余裕がなくてこんな風に景色を見ることはなかった。
「彬…ごめんね。私、本当の意味で彬の『家族』になれてなかったんだと思う。今まで、心の中の主語はいつも『私』だった。結婚したら『私たち』にシフトしていく部分もあるはずなのに。でもそれは彬を愛してないからじゃないの。
…ただ、東京でいろんなことに一生懸命でいるうちに、考え方にクセがついてた。自分が頑張って、自分でもっと上へ、みたいになってたの」

「うん。プロセスや価値観ごと、こっちに来て変えなくちゃならなくなったんだよね。俺…ようやくわかったよ。だから、今なら里香子が東京に帰っても、気持ちが離れたからだとは思わない。
ケイさんも最終的に、そのほうがいいんじゃないかって。そのくらい、大変なことなんだよね、配偶者都合で急に人生の優先順位を切り替えるのは」
彬は苦しげな表情で絞り出すように言うと、里香子を抱きしめた。
「…ずっと気が付かなくて、ごめん」
里香子は彬の肩に顔をうずめる。
…たったそれだけのことで良かったんだ。今、気が付いた。
自分がバンコクに来て求めていたのは、東京で失くした仕事や離れた仲間じゃない。彬の理解と抱擁だった。
「俺も、こっちに来て、成果を焦って気負いすぎてた。いつも通りだって思い込もうとしてたけど、テンパってたんだ。頼りなくてごめん。自覚がないのって最悪だよな…。だから里香子はこんな俺に合わせること、ないんだ」
「…じゃあ、遠慮なく、私のやりたいようにやらせてもらおうかな」
里香子は、涙で滲むチャオプラヤー川の夜景を、自分を抱きしめる腕の熱とともにずっと忘れずにいようと誓う。
迷ったら、今の二人に立ち返るように。何度でも。何度だって。
◆
「昨日の夜、手が空いてた編集部のスタッフと一緒に、SNSや地元の掲示板をチェックしたわ。雪乃がすぐあちこちに削除依頼したおかげで、今のところもう仁志さんと特定できる箇所はないと思う」
ケイの会社の応接スペースで、雪乃は深く頭を下げた。
「本当にありがとう…編集部の皆さんにもお礼を。これ…差し入れ。後で召し上がってください」
「平気よ、数人でぱっとやったから大した時間かからなかったし。でもせっかくだからいただくわ。最近話題のパティスリーよね?みんな喜ぶ」
ケイはケーキがぎっしり入った箱を二つ横に置くと、ためらいがちに手にしていた書類を雪乃に渡した。
「これ…日本語OKな病院で、匿名で検査してくれるとこ。編集部に詳しい人がいて。…タイのゴーゴーバーではHIVキャリアも珍しくないの。おせっかいだって分かってるけど…心配だから、雪乃も調べてみて」
雪乃に立ちはだかるシビアな現実。その時彼女は?
そしてついに、恐れていた1本の電話
「ケイって…ほんと、さすがだわ」
雪乃は、封筒から病院案内を出して眺めると、長い溜息をつき、ソファにもたれた。沈黙を破ったのはケイだった。
「ごめん…この前も、ごめん雪乃」
「え?浮気調査のこと?あれは私が頼んだんだもん、謝ることないよ。喚いたのは八つ当たりだっていったじゃない」
「違う。空港で…仁志さん見かけて、すぐ電話しちゃったこと。もっとやり方があったのにって…ずっと後悔してる」
友達になって8年、ケイがこれほどしおらしくなっているのを見たのは初めてだ。雪乃は思わずソファから体を起こした。
「電話なくたって、遅かれ早かれバレてた。あの直前、仁志が隠し口座から預金引き出してたことにも気づいたの。もうとっくに滅茶苦茶だったのよ」
雪乃が努めて明るく言ってくれるのがわかって、ケイはついに、胸につかえていた一言を口にした。
「私、雪乃が羨ましかったの」
ようやく絞りだした言葉に、雪乃はじっと耳を傾けるも、表情を変えない。そんなことは何でもないとでも言うように、会社の応接デスクに出されたコーヒーに手を伸ばし、一口、飲んだ。
「ケイは、いざとなるといつも私や里香子のこと、すごく親身になって心配してくれる。クールなフリして、正義感も人一倍強い人情家。仁志が私を騙してるのを見て、カッとなっちゃったんでしょ?」
ケイは雪乃の顔をまじまじと見た。
ちょっとミーハーで、実は頑張り屋で、そして誰よりも優しい彼女を。

「ケイは頭がいいから、状況を冷静に判断して、お気楽な私の先回りしていろんなこと考えてくれる。この検査みたいに」
雪乃は病院の封筒を大事にバッグにしまった。
「病気、私はたぶん大丈夫…こっちに来てから仁志と、心当たりないし。仁志は、会社の健康診断のオプションでHIVの匿名検査がついてたから、それは勧めておいたわ」
「…どうするの?仁志さんと」
ケイが慌てて、ちょっと潤んだ目を指先で押さえながら尋ねる。
「うん、もう決めた」
そこに電話がかかってきて、雪乃は少し眉をひそめる。ケイに「ごめんね」と言いながら横を向いて通話ボタンを押した。
ケイは少し席を外そうと立ち上がる。差し入れのケーキの箱を、編集部のスタッフに渡そう。
お替りのコーヒーを淹れて戻ってくると、雪乃が立ち上がっている。
「どうしたの?何か悪い連絡?」
ピリッとした雰囲気を感じて、ケイが雪乃に歩み寄る。
「仁志…帰国命令が出たって」
雪乃はケイと、顔を見合わせ、言葉もなく立ち尽くした。
▶NEXT:8月2日 木曜更新予定
次回、最終回。里香子、雪乃、ケイ、それぞれの向かう先は?

