「ちゃんと産んであげられなくて」電話口から母の涙。35歳で72歳の父から腎移植を受けた芸人の後悔「俺のせいだよ」
「腎臓移植が必要みたいなんだ…」。先天性の問題に加え、若手芸人時代の厳しい生活環境も重なり腎不全の直前まで悪化した芸人・クボケンさん。35歳の時に、医師からついに腎移植の宣告を受けます。しかし親の反対を押し切って芸人になるため上京したクボケンさんは、両親にどうしても言い出せず── 。
【写真】腎臓を提供してくれた72歳の父と、術後に病院で撮った1枚(6枚目/全14枚)
最初に異変があったのは21歳のときだった
── お笑いコンビ5GAPの強烈なボケ担当であり、最近はピンでの活躍も注目されるクボケンさん。自分は健康体だと思っていたクボケンさんですが、いつ頃から体に違和感を覚えましたか?
クボケンさん:最初に異変があったのは21歳のときです。ある朝、右足がパンパンに腫れて、激痛で目が覚めました。「絶対、骨折してる!」って。まるで足首をスパッと切って、その断面に木刀の折れたギザギザな部分を当てて、力いっぱいグーッと押されているような感じでした。
── それは…想像を絶する痛みですね。
クボケンさん:すごかったです!駅近くの病院まで徒歩10分の距離をジリジリと2時間かけて歩きましたが、病院が内科だったので診てもらえず。紹介された総合病院に移動してようやく診察を受けると「痛風」と診断されました。先生に「うちに来る患者さんのなかでも、腎臓の数値がかなり悪い部類に入る」と言われました。尿酸値は男女で 7mg/dL以上だと高いと言われるようですが、僕はその倍近い13という数値でしたから。
── それまで自覚症状はまったくなかった?
クボケンさん:まったくありませんでしたね。とりあえず痛み止めを処方されましたが、痛みが引くまで1週間ぐらいかかりました。
── その後、どんな治療を続けたのでしょう?
クボケンさん:毎月、決まった日に受診するよう病院から言われたのですが、21歳の若手芸人だった自分には無理でした。仕事が突発的に入ることが多く、その日が空くかどうか、直前までわからないんです。ライブやオーディションが入れば当然、仕事を選んでいました。薬で痛みが治まるようになったので、痛みもないのに何時間もかかる検査のために通院することが、当時の自分にはどうしてもできませんでした。
── しかも、芸人という仕事柄、お酒の付き合いもありそうです。
クボケンさん:20年前はコンプライアンスも何もない時代でしたから、今より飲み会文化が過激だったんです。仕事の関係者や先輩との飲み会・夜遅い食事に付き合わなくてはいけないこともありましたし、当時は「これが芸人になった証だ」とすら思っていた部分がありました。だから、痛みが出たら病院に行って、薬で落ち着いたら仕事に戻る。そんなルーティンを5、6年続けていました。
改善しない数値にいよいよ透析の話も出て
── 不摂生だけが原因だったのでしょうか。
クボケンさん:いえ。だいぶ後になって、腎臓移植手術をするときに判明したことなのですが、先天的に腎臓が弱かった可能性があるようです。僕は小学校高学年のときに腎盂炎という、腎臓にばい菌が入る病気にかかっていたのですが、それもどうやら生来の体質的な弱さが原因だったようです。もともと弱かった腎臓に、20代の不規則な芸人生活が乗っかって、悪化を早めてしまったのかもしれません。
ただ、痛みが出てからそうした生活を5年ほど繰り返していた頃、「かなり状態が悪くなっているので、もううちの病院では見られません」と言われました。別の腎臓専門医がいる病院の紹介状を渡されたんです。さすがにドキッとしました。
紹介された腎臓内科で調べてもらったのですが、クレアチニンという腎機能の数値が成人男性では1.00 mg/dL以下で異常なしだとしたら、僕は2.2mg/dLという、危険値であることがわかりました。
── そこから本格的な治療が始まって。
クボケンさん:1日3回の服薬と塩分制限が主でしたが、生活が不規則な芸人ですから、薬の飲み忘れをすることもありました。月1回の定期検査ではなかなか数値が変わらなくて先生から「本当に飲んでる?」と問い詰められたときには、つい「飲んでます」と嘘をついちゃったことがあって。「じゃあ、薬をもっと強くしなきゃダメだ」と言われて「すみません、嘘つきました」と慌てて訂正したこともありました。
それでも自分なりに生活を少しずつ変えていったつもりですが、クレアチニン数値は下がらないどころか、逆に3…4…5と上がり続けて。とうとう先生から「クレアチニンの数値が8になったら透析の検討を」と宣告されてしまったんです。「とんでもなく大変そうな選択肢が出てきたな」とショックを受けました。
「なるべく早くご両親に…」わかってはいるけど
── 透析は基本的に一生継続する治療ですからね…。
クボケンさん:はい。透析にも種類があって「血液透析」は病院に週3日、4、5時間かけて血液を入れ替えなければならないし、「腹膜透析」なら自宅で毎日、自分で透析をする必要がある。悩んだ僕に、先生が告げたもうひとつの選択肢が「腎移植」でした。医師から「このまま何もせずにいると、3年で死にます」と言われたんです。
さらに手術の説明とともにリスクを聞くと、手術中に医療器具が神経にあたり、足が動かなくなった人もいると聞いて。
── 腎移植は腎臓の機能が低下した人が、健康な腎臓を持つ人から、2つある腎臓の1つを移植してもらう治療法です。ドナー提供者としてまずは家族が候補になる可能性が高いかと思いますが、医師からはどんな提案がされましたか。
クボケンさん:「まずはご両親に相談してください。できれば次回の診察までに」と、すぐに移植外科の予約が決まりました。診察の日にちが決まったのだから両親に話をしなくてはいけない…。それでも僕は群馬に住む両親にすぐ伝えられずにいて。
実は、僕の父は僕が芸人を目指すことに反対で、地元に残って公務員になってほしいと願っていたんですね。それでも僕は、父の反対を押し切って上京し、芸人になったんです。しかも芸事だけでまだ生活ができない時期は仕送りをしてもらって経済的に迷惑をかけてきたのに、今度は腎移植の相談もして、ここまで迷惑をかけるのかって。
「言わなきゃいけないけど、どうしても言えない」。そんな数日を過ごしながら仕事帰りの電車では涙が出てきてしまって。それを人に見られるのが嫌で、最寄り駅から2、3駅手前で降りて、泣きながら家まで歩いて帰ることもありました。
── ご両親に相談する前に当時、同棲中だった今の奥さんに病状を伝えたそうですね。
クボケンさん:以前から痛風や腎臓が悪いことは伝えていましたが、移植や透析の話が出るほど深刻な事態になっていることは伝えていなかったんです。でも、いよいよ隠しきれなくなって恐る恐る打ち明けたら、「なんでもっと早く言ってくれないの!近くにいたんだから、私がもっと協力できることがあったかもしれないのに」と彼女が自分を責め始めちゃって。
「いや、俺こそ早く言わなくてごめん」と謝って、その夜は2人で大号泣しました。今まで隠していた申し訳なさと、そこまで真剣に僕の体のことを考えてくれるんだ、と感謝の気持ちがありました。
母が発した予想外「ごめんね」に
── そんな展開を経て、ご両親にはどう腎移植の相談をしたのでしょう?
クボケンさん:「さすがに言うしかない」という状況に追い込まれて、ようやく実家に電話をかけ、母に「実は腎臓移植が必要らしいんだ」と打ち明けました。
僕、絶対に怒られると思ったんですよ。「東京で何やってんの!」って。でも母から返ってきたのは「ちゃんと産んであげられなくて、ごめんね」という言葉でした。電話越しに謝られて、僕も「そうじゃない、俺のせいだよ」と。父も母の隣でその会話を聞いていたと思います。
── 後日、腎移植の適合か検査するために、病院にご両親がいらっしゃったそうですね。
クボケンさん:両親に加えて、兄、親戚のおばさん、いとこまで総勢5人が来てくれました。「誰の腎臓が合うかわからないから」って。もう本当に…ありがたかったですね。
検査の結果、残腎機能の高い72歳の父がドナーの第一候補になることに決まったのが2016年3月。そこから7月の手術日までの間、両親は群馬から3時間掛けて東京の病院まで来ては、何度も検査を受けてくれました。父は「田舎にいてもやることがないからいいよ」なんて言ってくれて…。
── その後、移植手術は、無事に成功したそうですね。
クボケンさん:はい。いろいろな葛藤や苦しみ、感謝を感じながら何より無事に手術が成功して本当によかったです。医療従事者の方々にも大変お世話になりました。今年で術後10年になります。80代になった父は、今も元気で、3か月に1回の定期検査も問題なく続けてくれています。
腎臓移植は僕の人生の中でもかなり大きな経験となりました。ドナーになってくれた父。ひたすら祈り続けてくれた母。一緒に号泣した妻や、検査に来てくれた親族をはじめ、誰一人かけても僕の人生は成り立たなかったと思います。術後10年たちますが、この先も定期検診や薬の投与、食事制限は続きます。
もともと腎臓が弱かったこともありますが、芸人という仕事を言い訳に、病院に通院しながらも不規則な生活が続いたし、薬を飲み忘れることもあった。病院も行ったり行かなかったりしながら、どこかで「どうにかなるんじゃないか」って思っていたのかな。その結果、まさかこんな大事になるなんて当時は思いもしなかったけれど、これが現実です。
腎臓移植の手術を受けて今年で術後10年。今はもちろんお酒も飲まないし栄養管理も気をつけています。それでも、あんなに大変な思いをしても、人ってつい楽な方向に流されてしまう可能性が0ではない。10年の節目で自分への戒めも含めてお話ししています。
取材・文:阿部花恵 写真:クボケン

