93歳五木寛之が、51歳タブレット純と昭和歌謡を語りつくす「大変な時代を日本人は歌によって自分をなぐさめ、癒やして、力をもらって生き抜いてきた」
令和の今も、聴く人の心を揺さぶる昭和歌謡。作詞家としての顔を持つ五木寛之さんと、歌手であり昭和歌謡の研究家でもあるタブレット純さんの人生のそばにも、いつも歌謡曲があったといいます(構成:北村文代 撮影:大河内禎)
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<前編よりつづく>
悲しい時代に沁みた音楽とは
タブレット 先日、映画『わが命の唄 艶歌(えんか)』を観まして、そのあとで原作となった先生の小説と『海峡物語』を読んで、すごく感動しました。
五木 何十年も前の作品ですけれど、原作とはかなり違ってた。(笑)
タブレット 読んでいる間、ずっと幸せでした。小説の主人公、高円寺竜三のモデルは、戦後日本の演歌・流行歌の世界を切り開いた日本コロムビアの馬渕玄三さんだと思うのですが、彼はあの時点ですでに「コンピューターでは歌は作れない」と考えているんですね。時代が変わっても、高円寺竜三みたいな人がいないと、心を揺さぶる歌は作れないなと感じます。
五木 当時のヒーローでしたね。昭和の歌謡曲は一過性ではなくて、なにか日本人の心情の根底にあるものにふれているところがあります。だからこそ、時を経ても、人々の心に働きかけるものがあるんでしょうね。それがなにかは、まだ自分のなかではっきりしていないんだけれど。
タブレット 最近、大阪の西成区にある酒場に行ってきました。そこでは、カセットテープでずっと八代亜紀さんの曲を流していたんです。日本酒を飲みながら、「やっぱり演歌が沁みるなあ」と泣くほどに感激しました。
五木 その感情は大切にしていったほうがいいと思いますね。今、昭和という言葉が、ちょっと軽薄に上滑りしている感じがするんですよ。若い編集者に、昭和歌謡っていつ頃の歌だと思う? と聞くと、「80年代の松田聖子ちゃんですかね」と。
タブレット そうですね。昭和歌謡には、戦前の歌や軍歌もありますが、あまり語られていないように感じます。
五木 本当は、昭和は悲しい時代だったと思う。僕は昭和7年に生まれて、すぐ朝鮮半島に渡り、物心ついた頃に耳にしたのが、朝鮮半島の物悲しい旋律の民謡と軍歌。
戦前、戦時中、戦後、バブル……と、大変な時代を日本人は歌によって自分をなぐさめ、癒やして、力をもらって生き抜いてきた。そのことに思いを馳せると、昭和歌謡の本質が見えてくるんじゃないか。
タブレット その通りですね。先生のご著書のなかで、「歌があったから生き延びてこられた」と書いていらっしゃるのが、心に強く残っています。
五木 戦争は、それまであったものを根こそぎ壊すものです。特に国学一辺倒の教育者だった僕の父は敗戦で、茫然自失、朝から飲んで酔っ払うようになってしまった。そんなとき、長男の僕は、自分が家族を支えるんだ……と思ってしまった。
タブレット 先生がおいくつの頃ですか?
五木 旧制中学の1年だったから、13歳くらいかな。生きていくために、大人たちに交じって日雇い労働やソ連軍将校の家の下働きをしていました。夜には、家を失い難民となった日本人のやけくその酒盛りに、タバコをくわえて参加していたんですよ。
タブレット タバコですか。

「人は悲しいときに、明るい歌で元気づけられるものではない。悲しいときこそ、〈わかるよ。生きていくことは本当に大変だね〉と寄り添ってくれる言葉が、折れそうになる心を支えてくれるものなんです」(五木さん)
五木 やはりタバコを吸ったり、お酒を飲んだりして、肩ひじ張っていないと、「なんだこのガキ」とバカにされますから。酒盛りでは、みんなが歌うわけです。記憶のなかにある昔の歌を。
タブレット どんな曲ですか?
五木 いろいろな歌を歌いました。「誰か故郷を想わざる」とか。なかでも印象に残っているのが東海林太郎さんの「国境の町」ですね。この歌は、故郷を遠く離れて、異国で一人暮らす男の、身を切られるような孤独感がひしひしと伝わってくる。
人は悲しいときに、明るい歌で元気づけられるものではない。悲しいときこそ、「わかるよ。生きていくことは本当に大変だね」と寄り添ってくれる言葉が、折れそうになる心を支えてくれるものなんです。
タブレット よくわかります。
五木 あのときほど、歌の歌詞が身に沁みて迫った時代はなかったですね。涙ながらに歌っていると、なんとか生きていかなくちゃ……と立ち上がる力が湧いてくる。あの古い歌、さすらいの歌などがなかったら、生きて帰れなかったんじゃないか。その点で、歌は僕の恩人と言ってもいいと思う。
タブレット そのお言葉、本当に同感です。ぼくもずっと歌に縋(すが)って生きてきましたから。
祈りの歌、イヤホンで聴く歌
五木 歌というのは、不思議な力を持っているものなんですよ。あるとき、和歌山県のお寺で開かれた念仏会(ねんぶつえ)の催しに参加したのですが、お寺の本堂には老若男女問わず大勢が集まっていて、講師の人が、一生懸命、説教をするんです。
そのうち、講師の言葉が熱を帯びてくると、その熱気がお客さんに伝わって、エネルギーが言葉とともに会場いっぱいに広がっていく。
タブレット ええ。
五木 そして、感極まった参加者たちから自然発生的に「なんまいだ、なんまいだ……」という声が湧き上がってくるんです。そして、語り手も聴衆も一体となって、なんというか「なんまいだー」の言霊が姿を現すような、本当に不思議な感覚になりました。日本のゴスペルだね。
タブレット 凄い体験ですね。
五木 この念仏歌(うた)こそ日本人の祈りの原点であり、歌の原型だと感激したことを憶えています。
タブレット みんなで歌って気持ちが高揚したり明るくなったりというのと、カラオケは少し違うと思うんです。一人ひとりがスター気分になるけれど、みんなで心を合わせて幸せになるといった感覚ではないですね。
五木 昔は歩きながらでも、一杯飲んだ後でも、歌謡曲をみんなで声を合わせて歌ったものですが。子どもも大人も、ところかまわず歌っていた気がします。
タブレット カラオケブームで、思い思いに歌うようになり、さらにデジタルの発達で、歌の共有がなくなったのでしょうか。
五木 茶の間のテレビの前に家族が集まり、同じ歌番組を見て、好きだの嫌いだのと意見を言うような光景はなくなりましたね。今はそれぞれイヤホンで歌を独り占めする時代ですから。
ところで、タブレットさんが歌い手として目指していらっしゃるものはなんですか?
タブレット 自分の世界観や感性を歌っていけたらいいなと思っています。歌手・田渕純として10年たった頃、ステージでいつも酔っている変なやつ、と浅草の演芸場に呼ばれました。「芸人・タブレット純」の名前でステージに乗って、初めて笑いが取れたとき、ありのままの自分が受け入れられたんだと感じて、すごく楽になったんです。
その頃からお酒の量が減っていきました。笑いは素晴らしいと思う一方で、やはり歌が好きというのが根底にあるので、しっかり歌っていきたいです。いつの間にかこちらの名前で芸能活動が続いていますが。(笑)
五木 あなたのジグザグに進んでいる人生には共感するところが多い。タブレットさんは、自分で詞を書いて曲を作って歌ったらいいと思うけど。さっき、「ともしび」の一節を歌ってくれたけど、太く朗々とした音質を聞いて、思わずロシアの大地を流れる大河の光景が浮かんできた。
タブレット ありがとうございます。ぼくも表現者として、作り手の感性が聴き手に伝わる歌を歌いたいです。聴いている人が夢を見ているような……。それこそ「艶歌」の高円寺竜三がさみしい海辺の町に行って、海鳴りを聞いている光景を聴き手が思い浮かべるような歌を。
五木 それこそ現代の演歌じゃないのかな。昭和歌謡から連綿と流れてきた日本人の心情を、令和になってタブレットさんが蘇らせる。面白い。
こうしてじっくりタブレットさんと話していると、いろいろな歌のエキスを体の中にとりこんで、血とし、肉として。今のあなたを作ってきたのだなあと思います。
タブレット 歌がなければ、生きてこられなかった。歌は命の恩人だ、と語る先生の言葉に、ぼくも感激しました。
五木 思い出すのはある民俗学者の言葉です。「最初に言葉があったと言われるけれど、最初にあったのは身振りと踊りであり、それから歌が生まれ、最後に言葉ができた」と。
最近は言葉だけで考えるから、なにかとバランスが崩れる。僕なんか今でも、ラジオの仕事などで歌にふれる機会があるから、90歳過ぎても元気で生きていられるんじゃないのかな。これからもフリーキッシュな表現者としてがんばってください。
タブレット マヒナスターズの和田弘さんには、「音程ばかりを意識するのではなくて、風が吹くように歌って」と教わりました。これからも音楽を、もっと勉強したいと思っています。ありがとうございました。
