【逆説の日本史】真の意味でのわが国初の本格的政党内閣と言える「原敬内閣」
ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。今回は近現代編第十六話「大日本帝国の理想と苦悩」、「大正デモクラシーの確立と展開II その1」をお届けする(第1487回)。
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今回からテーマは「原敬内閣の政治」だが、例によって時系列を整理して他の事項との関連性を示しておこう。
内 政 外 交
一九一九年(大正8) 朝鮮で「三・一独立運動」 パリ講和会議
中国で「五・四運動」
一九二〇年(大正9) 第十四回総選挙で政友会圧勝 尼港事件
一九二一年(大正10) 宮中某重大事件
原敬首相暗殺
皇太子欧州歴訪
ワシントン軍縮会議
一九二二年(大正11) 李晋怪死事件 シベリア出兵
(1918)の
完全撤収
一九二三年(大正12) 関東大震災
まさに激動の時代である。
前回述べたような事情で、最近は一年あるいは一項目に費やす記述量が圧倒的に増えたので、このような簡略な年表でも手つかずの事項が多い。関東大震災という日本史上最大の災害についてはいずれ詳しく述べるとして、ここでは「原敬内閣の政治」について述べることにしよう。ただ、原敬内閣の成立事情および「平民宰相」と呼ばれた理由については『逆説の日本史 第二十九巻 大正暗雲編』に詳述してあるので、そちらをご覧いただきたい。
ポイントだけ繰り返せば、シベリア出兵を強行した陸軍出身の寺内正毅内閣が米騒動を誘発してしまい、民衆の支持を失った。元老・山県有朋は寺内を見限り、「困ったときの西園寺」つまり元老・西園寺公望に後継首相を依頼した。日本に政党政治を確立することを熱望していた西園寺は、これを絶好のチャンスと見た。西園寺は首相就任を拒否し、当時衆議院の第一党の政友会の総裁でもあった原敬を首相に推薦した。軍主導の政治に強い反感が高まっていたところなので、「陸軍の法王」山県もこれには反対できず、原内閣が成立した。
これまで日本の憲政史上政党内閣は存在したが、衆議院の第一党の総裁が首相になるという完全な政党内閣は、これが初めてだった。しかも、原はそれまですべての首相が持っていた爵位を持っておらず、華族では無く平民であり「平民宰相」と呼ばれた。しかも、初の「賊軍(旧盛岡藩)の出身」の首相であった。
ここで、あらためて原敬の略歴を振り返っておこう。
〈原敬【はらたかし】
明治・大正の政治家。陸奥(むつ)盛岡藩家老の子。司法省法学校中退。改進党系の《郵便報知新聞》記者を経て官僚派の《大東日報》主筆となる。井上馨、陸奥宗光の知遇を得て外務省の次官まで進んだ。退官後、大阪毎日新聞社社長。1900年立憲政友会創立に参画。1902年以降代議士。1906年西園寺内閣の内務大臣、1914年政友会総裁。藩閥勢力を切りくずし、1918年米騒動で倒れた寺内内閣のあとを受けて最初の政党内閣を組閣。〈平民宰相〉といわれたが、政友会の絶対多数を背景に強硬施策を行い世論の非難をあびた。1921年東京駅頭で大塚駅員中岡艮一(こんいち)により暗殺。《原敬日記》がある。〉
(『百科事典マイペディア』平凡社刊)
原は、なぜ爵位をもらわなかったのか? それは純然たる庶民に徹するという意識では無く、むしろ逆の屈折したエリート意識のなせる業であった。簡単に言えば、「長州や薩摩の出身者は公爵だの伯爵などと威張っているが、元はと言えば下級武士ではないか。維新のときに上手く立ち回って現在の地位を掴んだだけ。そんな奴らに低く見られてたまるか!」ということだ。
この心情を知っておくことは、きわめて重要である。なぜなら、歴史の皮肉とも言うべきか、原は内政においては普通選挙法に「かかわる」ことになったからだ。念のためだが、普通選挙法の「普通」というのは男子だけで女子は除外されている。女子も含んだ本当の普通選挙法が成立したのは、大日本帝国が崩壊し日本国憲法の下に新しい体制ができてからのことであり、この時代の「普通」とはあくまで男子だけのことだった。
「普通選挙」とは、それまでの「国税を〇〇円以上納めた人間だけが選挙権を持つ」という制限選挙を、既定の年齢に達したらすべての国民男子に認めようというものだ。ちなみに、一八九〇年(明治23)の第一回総選挙では、「直接国税十五円以上を納めた二十五歳以上の男子」だけに選挙権が認められた。これは全人口の約一パーセントにすぎなかったという。参考までに、二〇二六年二月に挙行された前回の衆議院選挙における有権者は一億三百五十一万七千百十五人(総務省発表)だったという。これを総人口で割ると、約八十四パーセントになる。
日本は明治以来の「知的インフラ」の確立、具体的には学校教育の充実、出版体制の確立などによって「職工でも新聞が読める国」になっていた。識字率という点では日本は古来ダントツの世界一位であり、それが崩れたことは一度も無いという文化的に希有な国家である。これは、この『逆説の日本史』シリーズにおいて何度も強調したことだが、そういった伝統を持つ国であるがゆえに大正時代に入って庶民は政治参加への意欲を強めた。もちろん、天皇制体制の下で士農工商の区別は完全に無くなり、国民が平等意識を高めたことも大きい。そして選挙権を「持たざる者」である文字どおりの庶民は、原敬内閣に普通選挙法の確立を期待した。
もうおわかりだろう。原が「平民宰相」だったからだ。原が首相になると、庶民は歓呼の声をもってこれを迎え、「平民」は流行語となった。巷には、「平民食堂」「平民酒場」を名乗る店すら出現した。現代なら流行語大賞が獲れたかもしれない。
だが、原自身には庶民の一員であるという感覚は薄かった。「屈折したエリート意識」の持ち主だったからだ。そして、国民男子すべてに選挙権を与えるのは、まだ日本人の全体の民度がそれを許すほど高まっておらず、時期尚早であるというのが原の基本的考え方だった。当然、原は普通選挙法の成立を阻止する側に回る。それが庶民にとっては許し難い裏切りに見える。ここに原の悲劇があった。
「幸運をもたらす内閣」
話が先走りすぎた。
天皇の大命が降下し、原敬内閣が正式に発足した時点に戻そう。一九一八年(大正7)九月二十九日のことである。前任の寺内正毅内閣の「置き土産」は、とりあえず二つあった。「シベリア出兵」と「米騒動の後始末」である。シベリア出兵は前出の第二十九巻で述べたとおり、ロシア革命の混乱に乗じてロシア領の一部を奪うという「バイカル博士の夢」の実現につながるものであった。ただロシア革命軍(赤軍)は強く、対抗勢力であるロシア白軍はどうにも分が悪い。だから、寺内正毅首相は陸軍の出身でありながらシベリア出兵には慎重だった。 前にも述べたが、彼は長州奇兵隊を経て西南戦争、日清戦争、日露戦争を戦った古強者で、「戦後育ちの怖いもの知らずの若僧」とは違う。とくに、過度に大陸に進出することによってアメリカとの対立が深まることを恐れていた。
ところがこれも以前述べたように、そのアメリカ自体が軍の事情もあって日本にも派兵要請してきたことがシベリア出兵につながった。「アメリカが認めるなら問題無いだろう」ということだ。もっとも、最終的には白軍は赤軍によって壊滅させられ、尼港事件で日本人が虐殺されるというさんざんな結果に終わったわけだが、その尻拭いも結局、原内閣の仕事になってしまった。
ちなみに、この時点ではまだ第一次世界大戦は終わっていない。世界は、アメリカの要請があったのをいいことに、待ってましたとばかりにシベリアに要請規模以上の大軍を派遣した寺内正毅内閣の姿勢に眉をひそめていた。ところが、その軍事優先の内閣が米騒動という庶民の運動によって倒れ、寺内亜流では無い「平民」による政党内閣が生まれたというのだから、世界がそのニュースをどう受け取ったかおわかりだろう。
歓迎あるいは期待である。
〈英『タイムズ』紙(一九一八年一〇月一日)は、この内閣が初めての単独政党と平民出身の首相による内閣であることを伝え、日本はゆっくりではあるが着実に民主主義と議会政治に向けて進んでいると歓迎した。
保守系として知られる英『サン』紙(一九一八年一〇月五日)も、政治家として、新聞記者として、外交官としてさまざまな経験を積んできた原の実力を評価し、民主主義の危険と美点を知る人物であり、国際政治の転換に貢献するだろうと記した。
米『ニューヨークタイムズ』紙(一九一八年一〇月二日)が関心を寄せたのは日米関係だった。同紙は藩閥政治家と政友会の対立の歴史を述べたうえで、政友会は元来、欧州大戦への参戦やシベリア出兵に反対しており、輿論の声を背景に政府の方針を転換すると予測し、日米関係が改善に向かうと期待を寄せた。〉
(『原敬』清水唯一朗著 中央公論新社刊)
以上のように、日本が関係悪化を懸念していた英米の見方は、押しなべて好意的であった。日清戦争あたりの報道ではまだまだ日本に対する理解が不足していた英米の論調だが、このころになると日本に対する分析も的確で、とくに『サン』紙の分析は鋭い。じつは、政党嫌いの山県有朋が最終的に「原ならよい」と頷いたのは、まさに原の政治力と見識を認めたからだった。まさに『サン』紙の言うように、政治家として官僚として新聞記者として、原はどの立場でもきわめて優秀であった。
また新聞社でも、一記者としての立場だけで無く、社長つまり経営者の立場も経験し、その他の実業でも経営者経験がある。そうした経歴から言っても物事を多角的に見られる存在であり、だからこそさまざまな勢力とも巧みに共存して政治家としての立場を築いてきた。それが原の政治力であり、それは海千山千の古狸・山県有朋ですら認めざるを得ないものであった。
この時期、日本を仕切ってきた元老の一人であった山県有朋の欠点は、盟友の伊藤博文とは違い、政党政治を衆愚政治につながる危険なものと見ていたことである。だから陸相、海相の現役武官制を維持することに全力を注ぎ、伊藤が求めた内閣(政治)による軍部コントロールを徹底的に拒否した。再三述べたように、山県は『軍人勅諭』があるから軍部が政治に口を出すことなどあり得ない、と固く信じていたのである。
実際の歴史では、これも前にも述べたとおり、軍部は逆に軍人勅諭を「盾」として、「われわれは天皇直属であり、内閣のコントロールは受けない」という形で独走し、大日本帝国を滅ぼした。伊藤博文が考えていた政治による軍部のコントロールが実現していたら、こんなことにはならなかっただろう。
じつは、原の政治の「師匠」とも言うべき存在が伊藤博文だった。当然、伊藤が抱いていたに違いない「軍部を内閣のコントロール下に置かない限り、将来禍根を残す」という信念の後継者であった。その点は山県にもっとも嫌われる部分だったが、それでも山県が原内閣の成立を認めざるを得なかったのは西園寺公望が徹底的に「ワンポイントリリーフ」を拒否したこともあるが、他に総理大臣を任せられる人間がいなかったことも大きい。その力量は、山県も認めざるを得なかったのである。
その原内閣の顔ぶれは、次のようなものだ。内閣総理大臣(第19代)・原敬、外務大臣・内田康哉、内務大臣・床次竹二郎、大蔵大臣・高橋是清、陸軍大臣・田中義一、海軍大臣・加藤友三郎、司法大臣・原敬(首相兼任)、文部大臣・中橋徳五郎、農商務大臣・山本達雄、逓信大臣・野田卯太郎、鉄道大臣・元田肇。特筆すべきは、陸相、海相以外はすべて立憲政友会所属であるということだ。つまり、日本初の政党内閣は第一次大隈重信内閣であるが、陸相、海相以外すべて政党員という内閣はこれまでには無く、この原敬内閣が日本初の本格的政党内閣と言われるゆえんである。
また、原内閣が発足した二か月後の新聞の第一面に掲載されたのが「独逸降伏」、つまりドイツが降伏して第一次世界大戦が終了したことを知らせる記事であった。連合国側の勝利で、日本も戦勝国の一員となったのである。当時これを目にした人々は、当然原内閣は「幸運をもたらす内閣だ」と思っただろう。結局、原が暗殺されることによってこの内閣は短命に終わってしまったが、この絶好のスタートを見て当時の人々の誰がそんな不幸な結末を予測しただろう。
人間の運命というものは本当にわからない。_
(第1488回に続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『真・日本の歴史』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2026年5月1日号
