「身元がわかるものは何ひとつない」赤ちゃんポスト開設初日に3歳で預けられた当事者のその後「小2で実母が判明し」
2007年5月、熊本県の慈恵病院に「こうのとりのゆりかご」(通称・赤ちゃんポスト)が開設されました。開設初日に病棟にある1階の扉の中で発見されたのが、現在大学4年生になる宮津航一さんでした──。
【写真】「ゆりかご」に預けられた3歳当時の宮津さん(5枚目/全14枚)
身元がわかるものは何ひとつなかった
── 熊本県・慈恵病院にある「こうのとりゆりかご」は、親が育てられない子どもを匿名でも託すための施設です。宮津さんは「ゆりかご」が開設された初日に、初めて預けられた子どもでした。誰に預けられたのかわからない。青いアンパンマンの上着を着ていたほか、当時の持ち物は靴と数点の衣類のみ。名前や生年月日など、身元がわかるものが何ひとつない状態だったといいます。
そのため、当時の熊本市長が宮津さんの名前を「航一」と命名。ゆりかごの小さな窓から広い海原にこぎ出していくように、可能性が広がるようにと願いが込められたと聞いています。
宮津さん:はい。当初「ゆりかご」は赤ちゃんが来ることを想定していたようですが、ベッドに座って少し笑顔も出ていた私を見て、驚いたと聞いています。
── その後、「ゆりかご」から児童相談所に保護されたのち、里親として宮津家に迎えられました。当時、宮津さんは3歳だったそうですが、初めて宮津家に行ったときのことは覚えていますか?
宮津さん:当時の記憶は曖昧ですが、初めて宮津家に行ったときは夕方か夜で、外が薄暗かったんです。でも「新しい家に来たんだな」と、幼いながらに思った記憶があります。
── 里親になった宮津夫妻には5人の子どもがいますが、当時4人の子どもは既に自立して家を出ていたそうですね。高校生の5番目の子と祖父母、両親、宮津さんでの生活が始まりましたが、新しい環境にどのように馴染んでいったか、覚えていますか?
宮津さん:里子として迎え入れられてしばらくは、私が不安にならないように、家族が1人ずつ、1日3回は抱っこをしてくれました。夜になれば両親と川の字で寝ていました。当時、両親はお好み焼き屋さんを営んでいたのですが、そのお店に連れて行ってくれたり、地域の子どもたちと遊ばせてくれたり、常に気にかけてもらっていたと思います。
また、私が宮津家に里子に入った後、児童相談所から委託された子どもが他にもやってきて、合計9人で暮らすことになったんです。家族の親睦を深めるためにみんなでキャンプや旅行に行ったり。子どもたちが多いからか、家の中はいつもにぎやかでした。そうした日々の積み重ねで、「自分は家族として認められてるんだ」と、徐々に感じるようになったんだと思います。
── 宮津さんは、ご自身の生い立ちについて、早い段階で聞かされていたそうですね。
宮津さん:児童相談所にいるころから、両親がいないことはうすうす気づいていたし、宮津家の両親とも血がつながっていないことは、なんとなくわかっていました。
4歳のとき、たまたまテレビを観ていたら「ゆりかご」のニュースを放送していたんです。そのとき、画面に映った「ゆりかご」の扉を見て、「僕、ここ見たことがある」と言ったらしいんです。その言葉を受けて宮津家の両親は「ひとつでも記憶が残っているなら、嘘偽りなく事実を伝えよう」と思ったようで、その後は私が自分の生い立ちについて聞けば答えてくれました。
当時はとくにショックを受けることはなかったし、私以外にも里子がいたので特別なことだとは思いませんでした。人と違う環境にいると思ったのは小学校入ってからです。
小学2年生で判明した実母の存在
── どんな場面でそう思いましたか?
宮津さん:小学2年生のときに、生い立ちから現在までの様子を写真とエピソードを交えて紙にまとめる課題がありました。私の生い立ちについては入学前に、宮津家の両親が学校に説明をしてくれていて、私が里子であることは周りに公表しないことになっていました。なので、この課題も先生の配慮で、宿題にしてきていいと言ってくれたのですが、みんなが当たり前に持っている赤ちゃんのころの写真はなかったし、赤ちゃんのころのエピソードも語れません。
結局、宮津家の両親と相談して赤ちゃんのころの写真は宮津家の兄から借りて、宮津家にくる前、3歳までのことは覚えていないので、自分で想像で書いて、どうにか提出したんですけど。周りの友達と比較して自分の立場を悲観するよりも、みんなに自分の生い立ちがバレないか、という不安のほうが強かったと思います。
── その後、小学2年生のときには、宮津さんの生い立ちについてわかったそうですね。どういった経緯だったのでしょうか?
宮津さん:児童相談所の方が私の生い立ちをずっと調べてくれていました。私を「ゆりかご」に預けたのは親戚でした。そこで初めて私の生年月日や正式な名前が判明して。父親の身元は今もわからないままですが、母親は私が生まれて私が5か月のときに交通事故で亡くなっていたことがわかりました。
実母の写真を見せてもらうと、私の髪の毛は天然パーマなんですけど、母の髪にもウェーブがかかっていて、「似てるな…」と思ったらグッとくるものがありましたね。周りの人には目元が似ているとよく言われます。すでに母は亡くなっていましたが、母がいなくて悲しいという気持ちよりも、母のことがわかった喜びのほうが大きかったですね。
「ゆりかご」に託してくれて「ありがとう」
里親の両親には当時も今もずっとよくしてもらっていますが、実母の存在がわかるまで、自分がどうやって生まれてきたのかわからない不安や、言葉にできないもどかしさを抱えていました。親戚は、ゆりかごの扉を開けた人しか持っていない「お父さんへ お母さんへ」という手紙を持っていたようで、私の親戚であることは間違いないようです。親戚が手紙を持ち続けてくれたことで、「ゆりかご」に預けた親戚と、「ゆりかご」に預けられた私の存在が一致し、生い立ちがわかったうれしさと同時に安心したことは覚えています。
親戚の人には会ったことないので、なぜ私をゆりかごに預けたのかわかりません。たぶん私を育てることが難しくて、私の命を「ゆりかご」に預けたんだと思いますが、身元がわかってホッとしたし、「ゆりかご」に命を繋いでくれたことはありがたいと思っています。
その後、自分を産んでくれた人を知りたいと思って、父にお墓参りをしたいと伝えると、その年の夏休みに連れて行ってくれました。
お墓参りは全部で3回行っています。熊本地震が起きる前、小学6年生のときに1回。実母が交通事故で亡くなった場所がわかった中学3年生のときに1回。それから大学1年生のときです。そのころには宮津家と養子縁組をしていたので、その報告を含めてお墓参りに行きました。
── 小学2年生のときに宮津さんの正式な名前がわかりましたが、その後も「宮津航一」の名で過ごされていますね。
宮津さん:周りには公表していなかったので、学校に許可を取ってそのまま「宮津」の通称名で過ごしていました。ただ、困ったのは小学校の卒業式。卒業証書に名前を書いてもらうんですが、卒業証書は戸籍名で記載されることになっていたので、学校で使用している通称「宮津航一」ではない、本籍名で記載されました。
── 友達に気づかれずに済んだのですね。人とは違う生い立ちを経験して思春期を迎え、反抗期などはありましたか?
宮津さん:よく聞かれるんですけど、たぶんなかったんじゃないかな、と思います。宮津家に入ったときから自分を特別視することなく、いいときは褒め、そうじゃないときは怒ると、普通に接してくれましたし、何より常に愛情を感じていました。
小・中学校は自宅から遠く、よく送迎してもらっていたので、会話をする時間が自然とありました。高校は陸上部に入りましたが、両親がよく応援に来てくれてうれしかったですね。家には僕以外にも里子がいていつもにぎやかだったし、孤独とか寂しさをあまり感じることはなく、反抗する場面もなかったんですよね。中学校では生徒会長や応援団長、陸上部では主将をしていたので、学校生活が充実していたんだと思います。
たしかに私は人と違う生い立ちをしています。でも実母の存在がわかったこと。その後も自分が寂しい思いをせずに安心して過ごせる環境を作ってくれた「ゆりかご」や里親家族にはとても感謝しています。今は「ゆりかご」の当事者として名前を公表して、当事者だからわかることを発信しています。
取材・文/松永怜 写真提供/宮津航一

