「喉から手が出るほど、欲しい――」

高級ジュエリーに、有名ブランドのバッグ。

その輝きは、いつの時代も人を魅了する。

しかし誰もが欲しがるハイブランド品は、昨今かなりの品薄状態だ。

今日もショップの前には「欲しい」女性たちが列をなし、在庫状況に目を光らせている。

人呼んで「ハイブラパトローラー」。

これは、憧れの一級品に心を燃やす女性たちのドラマである。

▶前回:「指輪はハリー・ウィンストン一択!」しかしブティックに行くと、婚約者は思わぬ反応で…




専業主婦・恵 (33)
2つのミニマトラッセ【シャネル クラシック スモール ハンドバッグ】


金曜日の夕方。

恵が『ベージュ アラン・デュカス 東京』に着くと、夫の聡はすでに席についていた。

スポーツジムを経営する同い年の聡と再婚したのは3年前。

聡は今でも、2人の時間を大切にしてくれる。

「恵、弁護士さんはなんだって?」

7年前に離婚した元夫の渡辺から恵に、弁護士を通じて連絡があった。そこで今日、詳しい内容を聞いてきたのだ。

ワインリストを見ながら恵は答える。

「渡辺の彼女が妊娠して再婚するから、毎週土曜の藍との面会は終わりにしたいって。離婚した時は33歳だったから、今は彼も40歳ね。今度は失敗したくないんじゃない?」

「そうか。藍ちゃん、ショックを受けるかな?」

渡辺と恵の間にできた娘の藍。今日は、恵の実家に泊まりに行かせている。

「もう10歳だし、理解できるわよ。…あと、渡辺が私と会いたいそうよ。今さら何の用があるのかしら?」

シャンパンで乾杯すると、聡が優しく言った。

「恵、どうするの?会うの?」

離婚調停が始まってから、渡辺とは弁護士を通してしか連絡していない。

「多分、渡辺は会って私に謝りたいのよね」

恵はシャンパンを飲みながら、渡辺に話題を戻す。

「謝ったら、渡辺は新しい人生を始められるでしょうね。でも、そんな一方的な謝罪なんて、私の心を無視していると思わない?」

渡辺からされたことは、一生許すことはできない。シングルマザーになってからの恵は数えきれないほどの苦労をした。

「会うかどうかはゆっくり考えればいいよ」

聡が優しく恵の手を握った。

「そうだ、僕たち結婚して3年だね。何か記念にプレゼントしたいな」

「うれしい。私、シャネルのミニマトラッセがずっと欲しかったの」

スマホとミニ財布、リップぐらいしか入らないスモール ハンドバッグ、通称ミニマトラッセ。

「じゃあ、ミニマトラッセを明日一緒に見に行こう。あ、もうすぐ前菜が来るよ」

恵は、“マトラッセ”と口にした途端、遠い日の渡辺の声がよみがえってきた。



8年前。

25歳の誕生日プレゼントに、恵がミニマトラッセをリクエストしたときのこと。元夫の渡辺は白紙のノートを開き、こう言ったのだ。

「どうしてミニマトラッセが欲しいのか、理由を書いてみよう」

恵がどんな理由を書いても『それはなぜ?』と追及される。

夜も更けた1時、びっしりと恵の字で埋め尽くされたノートを見て、渡辺は言った。

「このノートを見て、欲しい理由をもう一度考えよう」

すっかり疲弊した恵は泣きながら言った。

「ミニマトラッセは必要ありません。ブランドものはもう欲しがりません」

「恵、よく決断したね。すばらしいよ」

恵の脳裏に、遠い日の結婚生活の記憶が次々とよみがえってくる。


渡辺の行動に違和感を抱いたきっかけは、些細なことだった。

渡辺が経営する人材派遣会社。そこで行っている社員研修の内容に、恵が『面白そうね』と言ったのだ。

「業務効率化の研修なんだよ。恵もやってみる?」

社会人経験がほぼなかった24歳の恵に、渡辺は嬉々として熱弁をふるった。

「じゃあ、考えてみよう!どうしていつもリビングが散らかっているのかな?」

「藍が、まだ1歳だもの。お世話にかかりきりなの」

答えれば「その理由は?」と執拗に追及される。

「試しに、藍と恵の1日を書き出してみよう!…お昼寝の時間が2時間ほどあるね。この時間の使い道は?」

「その日によって違うわ。夕飯の準備をしたり、休憩したり」

「なるほど。よし、明日は僕も休みだから、恵の主婦業を効率化できるように見てあげるよ」

そして次の日の昼間。

藍をやっとの思いで昼寝させ、くたくたで寝室から戻ってきた恵に、渡辺は言った。

「お疲れさま。恵も休憩して。コーヒーを入れておいたよ」

「ありがとう。ああ、コーヒーが身に染みる!」

恵がソファでコーヒーを飲みながらスマホを手に取ると、渡辺はそれをさっと奪った。




「今は休憩でしょ。スマホをいじったら脳が休まらないんだから、そのあとのパフォーマンスに影響するだろう」

スマホを奪われた恵は、愕然として、虚空を見ながらコーヒーを飲んだ。

「あの…」

コーヒーを飲み終えた恵が「スマホを返して」と言うと、渡辺はうれしそうに言った。

「休憩できたんだね!今こそ片付けの時間だよ!さあ、早く、動いた動いた!」

渡辺の満足げな笑顔に、恵は違和感を覚えながら片付けをし、1日が終わるころにはいつもよりぐったりしていた。

次の日から、追及を逃れるために、部屋の片付けを優先するようになった。

「業務効率化の研修のおかげだね!恵、すばらしいよ」

以降、渡辺は『改善活動』と称して、恵の家事育児に口を出すようになった。

気が休まらなくなった恵は、ある朝ついにベッドから出られなくなってしまう。

「恵、起きられない?セロトニンが足りないんだよ。さあ、朝日を浴びて、大きな声で笑おう」

寝室のカーテンを全開にし「わっはっは」と笑う渡辺に狂気を感じた恵は、藍を連れて世田谷の実家に逃げたのだ。




恵の考えは離婚一択だったが、渡辺はまったく理解できないようだった。

「カウンセリングを予約したから夫婦で受けてみようよ」

渡辺に連れて行かれたカウンセリングでカウンセラーはこう言った。

「渡辺さん、あなたのやっていることは、モラハラです」

納得いかない様子の渡辺は何度もカウンセラーを論破しようとしたが、カウンセラーの冷静な分析についに涙を流して言った。

「これは、恵のための『改善活動』なのに…」



最初は、離婚に反対していた渡辺だったが、離婚調停は長くはかからなかった。

『あのカウンセラーは、間違っている』と言っていた渡辺も、最後にはモラハラを認め、会って謝罪をしたいと申し入れてきた。

恵はそれを拒否して今に至る。




次の日、恵は聡と一緒にシャネル 銀座を訪れたが、案の定ミニマトラッセはなかった。

残念だが、目に留まったハートにココマークのブローチの購入を決め、店員さんに、他におすすめはないか聞いてみる。

「このブローチがお好きでしたら、こちらなどいかがですか?」

ココマークがついたジッパー式のポーチを勧められ、手に取ってみる。

渡辺との離婚を機にしばらくシャネルから離れていた恵は、久しぶりに触れるキャビアスキンレザーの感触に胸が高鳴る。

ポーチのジッパーを開けると、中からのぞくルージュノワールの生地の美しさに思わずため息をもらした。

「可愛い…」

ブローチに加えポーチも衝動買いした恵は、好みの物を勧めてくれた店員さんにお礼を言う。

「私、いつかミニマトラッセが欲しいんです。また伺っても良いですか?」

周りを見渡すと、顧客であろう女性が、ソファに座って楽しそうにタブレットを見ている。次のシーズンのプレタポルテを注文しているようだ。

― そうだった。お買い物で、後ろめたい思いなんてしなくて良いんだよね。

次の来店予約を済ませると、恵は、渡辺に歪められたままだった自分の心が解放されていくのを感じた。




2ヶ月後、聡と一緒にブティックを訪れた恵は、ついにミニマトラッセを紹介してもらった。

アクセサリーを含め、スーツや靴など、少なからず投資はしたが、極めて早いタイミングでの紹介と言えるだろう。

「恵、すごく似合うよ」

黒のラムスキンの光沢をうっとりと見つめる恵を見て、聡もうれしそうだ。

ミニマトラッセにまつわる渡辺とのエピソードは、聡にも話してある。

ついに手に入れた今、恵はようやく渡辺と会う覚悟ができた気がした。

「聡、ありがとう。…私、渡辺に会ってみようかな」



渡辺との面会の日、恵が緊張の面持ちで『ザ パレス ラウンジ』に到着すると、渡辺とその結婚相手はすでに着席していた。

― あれ、あの人、こんなに小さかったっけ?

記憶の中の自信に満ち溢れた元夫は、今では髪に白いものも混ざり、うつむき加減でソファに座っている。

恵のミニマトラッセをちらりと見ると、何か言いたげな顔をしたが、隣の再婚相手に促されてお辞儀をした。




「渡辺が、どうしても恵さんに謝りたいと言っていて…すみません、ちょっとお化粧室に行ってきます」

妊娠4ヶ月だという再婚相手はそう言うと、口元を押さえて立ち上がった。

恵は、彼女が握り締めていたバッグを見て、思わず声を上げた。

「そのミニマトラッセ、私と同じ…!」

渡辺が静かに言った。

「妊娠がわかった時、ギフトに欲しいって言われてプレゼントしたんだ。僕たちももう40歳で、子どもを授かってすごくうれしかったしね」

再婚相手が化粧室に行ってしまうと、渡辺は小さな声で言う。

「ミニマトラッセが欲しいって言った君にしたこと、覚えているよ。申し訳ない…」

恵は、その言葉を遮った。

「バッグをプレゼントするなんて、あなたは変わったのね。…彼女を愛していて、大切にしたいと思っているのね?」

渡辺はうなずいた。

「渡辺さん、今ここで私に謝罪してください」

深々と頭を下げる渡辺を見て、恵は席を立った。

「もういいです。お幸せに」

ラウンジを出たところで、待っていてくれた聡と藍に駆け寄る。

「恵、どうだった?」

心配そうに聞く聡に、恵は笑顔で答えた。

「なんか、どうでも良くなっちゃった!さあ、家族みんなで美味しいものでも食べにいこう」

恵はミニマトラッセを肩から掛けると、藍と手をつなぎ、反対の手で聡の手をぎゅっと握り締めた。

▶前回:「指輪はハリー・ウィンストン一択!」しかしブティックに行くと、婚約者は思わぬ反応で…

▶1話目はこちら:お目当てのバッグを求め、エルメスを何軒も回る女。その実態とは…

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シャネルに憧れるバンカー女子。彼女はレアアイテムを手に入れられるのか?