「マスキュリニティの理想と、同時代の原理的な道徳的・倫理的問題の間の全体的な連鎖の中に囚われた映画作家」(*1)

フェミニストであり、法哲学や政治哲学などを専門とするドゥルシラ・コーネルは、アメリカ映画界の巨匠、クリント・イーストウッドをこう評した。そして、その作品における取り組みに対して「アメリカの歴史を覆っている異性愛白人男性の男らしさの意味を問うものなのである」(*2)と述べる。

1月14日に公開されたイーストウッドの最新作『クライ・マッチョ』も、こうした見方と無縁の作品ではない。本作は2020年代においてどのような意味を持ち、そのキャリアにおいてどう位置づけることができるのか。イーストウッド映画と現代におけるマスキュリニティ(男性性)をテーマに、小野寺系に執筆してもらった。

※本記事には一部本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。

■半世紀以上にわたって理想の男性像を自ら演じ、撮り続けた巨匠がたどり着いた境地とは?

現実の社会を暗示し、先触れともなってきたアメリカ映画界で、近年とくに高まってきているのが、ジェンダー平等への意識や関心である。家父長制や「男らしさ」の概念など、従来の社会のあり方やジェンダー観が否定される内容の作品が増えてきている。

そんな潮流のなかで、何かを予感させる一作『クライ・マッチョ』が公開された。監督・主演は、「男らしさ」の代名詞として活躍してきた巨匠、クリント・イーストウッドである。

タフな俳優として60年以上、そして映画監督として50年もの間、数々の映画作品を世に送り出し、世界中の観客にとっての「憧れの男」であり続けたイーストウッドが、91歳にして岐路に立っている。本作『クライ・マッチョ』は、そんな彼の状況を示唆する作品となった。

ここでは、本作の内容を紹介しながら、これまでのイーストウッドの業績を見つめ直すとともに、そこからあぶり出される「マッチョ」の行方と、巨匠が長いキャリアを経て、この時代のなかでたどり着いた境地とは何だったのかを考えてみたい。

■「男らしさ」の扱い方の変遷、表現の多面性から見るイーストウッド映画

イーストウッドの俳優としてのキャリアの成功は、西部劇ドラマやマカロニ・ウェスタン(イタリア製西部劇)への出演によってはじまる。

その後、刑事アクション『ダーティハリー』シリーズで当たり役に出会い、映画界に不動の地位を獲得していくこととなる。そこで体現したのが、寡黙ながら怒るべきときには怒りを示し、我慢ならないものに制裁を加える、ひとつの理想化された男性像である。

苦み走った表情と雰囲気ある佇まいは唯一無二の存在感を放ち、頼もしさや説得力においては映画史においても随一だ。日本でも、ある年代以上にはイーストウッドの信奉者が少なくない。

自身が監督・主演した西部劇『荒野のストレンジャー』(1973年)、『ペイルライダー』(1985年)では、イーストウッドは超自然的な存在のガンマンとして荒野の町に参上し、圧倒的な力で悪漢を撃ち滅ぼしてのち、幽霊であったかのように姿を消すという役柄を演じている。

それはある意味で、理想化された男性の魅力が、もはや生身の人間を超えた「概念」として、映し出されているようだ。イーストウッドは、40代から50代にかけて、そんなとてつもない役まで演じるに至ったのである。

『ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場』(1986年)や『グラン・トリノ』(2008年)では、自身が築き上げてきた魂(ゴースト)を、他の役柄へと継承させる役割も引き受けている。

しかしその一方で、自ら落ちぶれたウェスタンショーの座長を演じた『ブロンコ・ビリー』(1980年)や、西部劇における暴力性をリアルにフォーカスした『許されざる者』(1992年)のように、男らしさが現代的な価値観のなかでは歓迎されない場面があることも描いてきたのが、イーストウッド映画でもある。