「高卒」と学歴を低く偽る東大出身者も(写真はイメージ)

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 東大出身者の中には、自身が「東大卒」であることを隠す人が少なからずいるという。ひがみや妬みの対象にもなりやすいため、隠す人の気持ちも理解できなくもないが、中にはかたくなに隠し通す者もいる。『東大なんか入らなきゃよかった 誰も教えてくれなかった不都合な話』(飛鳥新社)の著者で、自身も東大出身のライター・池田渓さんがリポートする。

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 学歴を意図的に偽ることは学歴詐称とされる。ショーンKや野村沙知代、古賀潤一郎元議員、疑惑にとどまるが小池百合子東京都知事など、芸能人や政治家が、実際には卒業してない大学を「卒業した」「修了して学位を取得した」などと偽り、後にそれが露見して仕事を失ったり、社会的制裁を受けたりしたという話は枚挙にいとまがない。

 通常、学歴詐称をする理由は、実際の学歴よりも高学歴に見せたいからだろう。ところが、世の中にはその逆の人もいる。僕がかつて取材で出会った東大文学部卒のS氏(男性・44才)は、自らの学歴を「高卒」と偽って今の仕事に就いていた。つまり、なんとも珍しい「逆学歴詐称」だ。そんな彼は都内の地下街で派遣の警備員をしている。管理部門ではなく現場の施設警備員だ。

 S氏は東大卒業後、全55巻の学習漫画シリーズ『マンガ日本の歴史』(中公文庫)を描いた石ノ森章太郎に憧れて学習漫画家になった。東大受験と同じ要領で、1日10時間の独学を真面目に1年続けて画力を身に付け、出版社からはコンスタントに仕事の依頼が来ていたそうだ。

 しかし、「自らの作家としてのブランディングに失敗した」とS氏は言う。あちこちの出版社でその時々の編集者に依頼されるまま漫画を描き散らしたが、苦労して描いた漫画はどれもさほど売れなかった。そもそも、学習漫画というジャンルは、それこそ『マンガ日本の歴史』のようなシリーズものでもない限り多くは売れない。

「東大受験とその後の教養課程で、色々な学問を広く浅く修めて、なまじ器用だったことが裏目に出たね。1つの出版社で1つの分野に絞ればよかった。本の内容も真面目すぎだったかな」

 当時を振り返り、こう反省したS氏。10年間、朝から晩まで机に向かって漫画を描き続けて年収は150万円ほど。座り仕事のしすぎで頸椎椎間板ヘルニアを患ったことを機に、S氏は派遣の警備員の仕事を始めることにした。だが、不規則な勤務時間、重労働、危険と隣り合わせの職場、体育会系気質……警備員の仕事は世間的にはブラックな仕事とされている。何より目立つのは給与水準の低さだ。厚生労働省によれば、警備員の平均年収はどの年代も300万円前後。日本人の平均年収の約430万円と比べると、警備員という職業は間違いなく低収入の部類に入る。

 S氏がなぜそのような仕事をあえて選んだかといえば、「ブラックで慢性的な人手不足の警備業なら、自分のようにまともな職歴が無い人間でも雇ってくれる」と思ったからだという。そしてS氏はこの採用面接で、自らの学歴を「高卒」と偽る履歴書を提出した。

「東大まで出て警備員になろうとする人はめったにいないよね。学歴を知られると『こいつは社会性に致命的な問題があるんじゃないか』と思われるじゃない。それに、職場で東大卒の学歴をいじられるのも避けたかったしね。正直に言えば、東大まで出ていて30代後半の働き盛りに、警備員の仕事に応募していることに対する羞恥心もあった」

 おそらく最後の理由が一番の本音なのだろう。いずれにしても「警備員になろうとするとき、東大卒の肩書きは不要どころか邪魔でしかなかった」そうだ。

 その後、無事に警備員となったS氏の現在の年収は230万円。国税庁によれば40代前半の日本人男性の平均年収は約560万円だから、その半分以下だ。同世代の東大卒の平均年収とは比べるまでもないだろう(ちなみに、転職・就職のための情報プラットホーム『OpenWork』の運営会社が2019年に発表した「出身大学別30才年収ランキング」によれば、ランキングの1位は東京大学で年収810.9万円とされている)。

 だが、たとえ給料は安くても、S氏は今の仕事に十分満足しているという。施設警備員の仕事はルーティン・ワークで、慣れてしまえばまったくエネルギーを使わずにこなせる。机にかじりついて血ヘドを吐きながら漫画を描いていた頃より、精神的にはずっと楽なのだそうだ。また、少人数で回しているから職場で人とあまり会わなくていい。自らを「コミュ障」という彼には、そんなところもありがたいのだった。

 唯一の苦労は、職場で目立たないようにすることだ。やはり東大卒の頭脳は警備の現場では突出しており、事あるごとに地頭のよさが目立ってしまう。例えば、「自衛消防技術」という施設警備員が持っておくべき資格の認定試験を受験したときのこと。S氏にとっては簡単な筆記と実技の試験だったが、一緒に受験した職場の同僚の半数は不合格になった。そんな試験を入社したばかりで経験も浅いS氏がストレートで合格したものだから、上司から「Sくん、君優秀だねぇ」と突かれてしまい、「学歴詐称がバレたらどうなることかとひやひやした」そうだ。

 他にもある。職場である駅地下街の勤務者を対象に、働くうえでの業務知識、フロア情報、近隣施設の情報を100問のテスト形式で問う社内プロモーションが行われたときのこと。全体で数百人、S氏の職場からは10人ほどが受験していた。S氏はその試験中に、自分が満点を取ってしまったことを確信したという。満点を取ってしまうと皆の前で表彰されるため、わざと3問間違えて答えを記入し97点にしておいたが、それでも職場ではダントツ。同僚がざわついて、やはり焦ったそうだ。

 苦労の内容が世間一般とはズレているようにも思うが、東大卒の学歴がバレないように本人は必死なのだろう。“苦労話”をしながら、S氏は真顔で心底面倒くさそうな表情をしていた。

 田舎で農業を営んでいるご両親は、息子が生きているだけでも「よし」としている節があるそうだ。「俺は地位も名誉も金もとっくに諦めているよ。結婚して子どもをつくるとか、たまに小遣いをあげるといった人並みの親孝行も、申し訳ないけどもう無理だね。親もそのあたりは薄々気付いていると思う」とS氏は語った。

 今の生活における目下の悩みは自身の健康だ。頸椎椎間板ヘルニアは小康状態、十二指腸潰瘍も患い、ここ最近は物が見えにくく緑内障の気があるという。昼夜を問わず机にかじりついて漫画を描いてきたことや、警備員として不規則な生活を送っていることの影響か、40代に入って体に一気にガタがきてしまった。

「うちは両親とも高卒だから、息子が天下の東京大学に入ったときは誇らしかったはずなんだよな……」そう呟いた後、「今は、とにかく健康を維持して、せめて親よりも長く生きてあげることだけが目標だね」とS氏は話した。それが、貧しくとも精神的なストレスが無い生活を選んだ東大卒業生の生きる目標なのだろう。

【池田渓】
1982年兵庫県生まれ。東京大学農学部卒、同大学院農学生命科学研究科修士課程修了、博士課程中退。フリーランスの書籍ライター。共同事務所「スタジオ大四畳半」在籍。近著に『東大なんか入らなきゃよかった 誰も教えてくれなかった不都合な話』(飛鳥新社)がある。