「僕は、彼女のことを何も知らなかった…」

プロポーズした直後、忽然と姿を消した彼女。捜索の手掛かりは、本人のものだと思われるインスタグラムのアカウントだけ。

ー彼女が見せていたのは、偽りの姿だった?

インスタグラムに残されていた、慎ましやかな彼女の姿からは想像もできない世界とは…。

◆これまでのあらすじ

2019年4月。プロポーズの数日後、前触れもなく消えた明子。連絡先も消され、途方に暮れていると、自分のインスタグラムのアカウントに見知らぬ「いいね」がつけられているのを発見し…?




謎のアカウント 「@emodaw_sihrtoa」


敏郎は、自宅のパソコンを食い入るように見つめていた。

明子のものと思われるアカウントの、最後の投稿は2週間前。その画像には敏郎も食べたことのあるビーフシチューのような料理が、見覚えのあるテーブルに並べられている。

ハッシュタグによると、ハンガリーのグーラッシュという料理のようだ。

フォロワーは1,269人。インスタグラマーというほどでもないが、友人間で盛り上がっているだけのレベルではなさそうである。

「まさかな…」

このアカウントの主が明子であることは、ほかのいくつかの料理投稿からみても明らかであった。

しかし、投稿された写真のほとんどが“見覚えのないレストランの写真”であったせいで、敏郎は自分の判断に自信が持てないでいた。

銀座のダイニング、赤坂のフレンチ、恵比寿のバー、横浜の老舗イタリアン。物静かで慎ましい明子が訪れているとは思えない、華やかな場所の数々。

投稿の日時は、過去に敏郎が仕事で、長期間家を空けていた時期と一致する。

その事実が「@emodaw_sihrtoa」イコール明子であるという可能性をさらに強めたのだった。


見覚えのないレストランの数々。そこに誰と訪れていたのだろうか?


敏郎は、目を見張ってそれぞれの画像を隅々まで確認する。

ーこんな場所、誰と行ったのだろうか。写真には僕以外の男の影は全くないが…。

その一方で、彼女が訪れたであろうレストランの投稿には

【いつも彼氏さんと美味しそうなお店に行っていて、うらやましいです】
【ラブラブですね!】

などと、その写真の奥に誰かいることが前提のコメントが寄せられている。

もちろん、敏郎はそのレストランには行っていないのに。



いてもたってもいられなくなった敏郎は、その投稿のなかでも、自宅からそれほど離れていない高級ホテルのバーラウンジに向かった。

そのバーはホテルのロビーに併設されており、昼間はコーヒーラウンジとして開放感はありながらも落ち着いた雰囲気を醸し出している。

敏郎も過去に女優との打ち合わせで指定されて行ったことがある。そんな気軽さもあった。

敏郎は入店すると、おもむろに店内中央にあるカウンターに座り、髭を蓄えた50代くらいのマスターにブレンドをオーダーした。

マスターは「かしこまりました」と注文を受け入れながらも、デイタイムにわざわざカウンターに座るなんて珍しい、という顔で敏郎を一瞥する。

「ここに、僕の“婚約者”が来たことあるって聞いて。いい雰囲気のバーラウンジだって言っていたものだから、仕事のついでに来たんだ」

言い訳がましさを承知しながら、敏郎は自らマスターにその理由を説明した。

「ありがとうございます。私はバータイムもここに立っているので、お話ししたことあるかもしれませんね」

気さくにほほえむ彼に、手ごたえを感じた敏郎は、この機会を逃さんとばかりに明子の名前を出してみる。

ーどうせ1回限りの来店なんだし、知らないだろう。

ダメ元だったが、藁をもつかみたかった。

しかし、マスターから返ってきたのは驚くべき言葉だった。

「近藤明子さん。存じ上げていますよ。常連さんですから」

「え、常連?」




その証言は、にわかには信じがたいものだった。

「はい。いつもおひとりでいらっしゃっていたかと」

マスターはブレンドコーヒーを淹れながら、ゆっくりと語る。しかし、敏郎は落ち着くことができなかった。

「でも、ひとりで呑みに来るって。彼女には婚約者がいるんですよ。そんな必要あります?」

思わず出た敏郎の言葉に対し、彼は意味ありげな表情で逆に尋ねた。

「お客さん。女性がひとりで呑むのはなぜだと思いますか?」

「寂しいからでしょう。もしくは、ひとりで呑む自分に酔うためとか」

嘲笑気味に答えた敏郎に合わせるように、マスターの口元も緩む。

「一理あるかもしれませんが、単純に呑みたいからですよ。明子さんもそうだったと思います。じっくりお酒の時間を楽しみたい、ただそれだけだったんでしょう。男性も女性も関係ありません」

諭すように語る彼に、敏郎は少々むっとした。

「“女性が”と主語を持ち出したのはそっちだろう」

そんな揚げ足を取ると、彼は「そうでしたね」と申し訳なさそうに謝りながらブレンドを差し出した。


そして明かされる、明子の過去とは…?


他愛もない雑談のあと、敏郎はマスターに何気ないフリを装って聞いてみる。

「明子は、ここで何か僕のこととか、話したことあるかな」

「いえ。明子さんからプライベートの話は聞いたことはありませんね。世界情勢や経済の話とかはよくしていましたが」

「世界情勢?」

「はい。確か、お勤めが外資系コンサルだったんですよね。明子さんからお勉強させて頂くことも多かったですよ」

「明子がコンサル…?」

「そんなバカな」と声が出そうになったところで、敏郎は言葉をのみ込んだ。そしてそれ以上の情報を引き出そうと、必死で言葉を繕う。

「そ、そうだったな。確か、どこの会社だっけ…」

「細かいところは覚えていませんが、昔NYにも住んでいたんですよね。ここに初めて来た頃、東京に異動してきたばかりだと言っていましたが」

「それ、何年前」

「私がこの店に移ってきたばかりの頃だから…」

「少なくとも3年以上前だろう?僕に会う前のはずだが?」

突然、マスターの表情が変わる。驚くべき情報の数々で食い気味になる敏郎に、どこか警戒心を抱いたようだ。

それ以降、マスターは敏郎が何を聞いても質問をはぐらかすのみになった。その様子から、自らの必死さと言動の不自然さに気づき、敏郎は反省する。

ーそうだよな。婚約者だと名乗りながらも、僕は明子のことをほとんど知らなかったのだから。

手持ち無沙汰になり、帰るきっかけもつかめず、何気なくバーカウンターに並ぶ酒瓶をスマホのカメラで撮影してみる。




最新型のスマホは、ホテルラウンジの空気も一緒に撮りこむ。クラシックな内装に並ぶ色とりどりの酒瓶はフィルターをかけずとも映えている。

敏郎は、インスタグラムにその写真を投稿した。

「明子が見るかもしれない」そんな下心があったのは言うまでもない。



寂しさを癒す『いいね』の通知


確実に誰もいない部屋に、ひとり帰る。明子がいなくなってからというもの、その無意味さは敏郎の家に帰る足取りを重くさせていた。

だが、今日はどこか違っていた。スマホの通知が敏郎の孤独を癒してくれていたのだ。

友人たちから届く“いいね”の数。

3年ぶりとなる投稿への、物珍しさからだろう。鳴りやまない通知に空虚な心が満たされていくのをおぼえた。

そして、ふと思う。

彼女もまた“それ”を感じていたのだろうか。だから、ガラにもない店にひとりで行ったり、時折こじゃれた料理を無理に作っていたのだろうか。

胸の奥がツンと痛んだ。

そんな彼女にしてしまったのは、仕事ばかりであった自分のせいでもあるから。

もしかしたらあの店のマスターが言っていた「コンサルで、NYに住んでいた」というものも、彼女なりに自身の空虚を埋める虚構だったのかもしれない。

いいねの中には「まだその店にいますか?」と思わせぶりなコメントを寄せてくれた旧知の女性もいた。

しかし、明子からのアクションはない。

日も傾きはじめ、山手通りを歩きながら夕食はどうしようかと考える。

ー明子がいたらこんなことを考える必要はないのに。

気が付けば、僕はコメントをくれた女性にメッセージを送っていた。

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メッセージの送り主と会うことを決めた敏郎。そのデートは、多くの意味で彼の心を揺さぶり…?