「容疑者は外国籍」「警察は何かを隠している」と悪質なデマも…“京都小学生遺棄事件”はなぜこれほど関心を集めたのか〈専門家が解説〉
京都府南丹市の小学生・安達結希さん(11)が山林で遺体で発見され、安達優季容疑者(37)が死体遺棄の疑いで逮捕された事件。行方不明として捜索がはじまった3月下旬から連日報道され、ネット上では虚偽情報さえ飛び交った。事件はなぜ、これほど大きな関心を集めているのか。一連の動きから浮かび上がる社会の背景や人間の心理、そして問題点について、臨床心理学・犯罪心理学の専門家である原田隆之氏(筑波大教授)が寄稿した。

遺体が発見された現場に手向けられた花やお菓子 ©時事通信社
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事件の衝撃と過剰報道
京都府南丹市で起きた児童死体遺棄事件は、多くの人の関心を呼んだ痛ましい事件であった。幼い子どもが突如として行方不明になったあと、遺体として発見され、養父が容疑者として逮捕されるという衝撃も相まって、社会的関心が高まったのは自然なことである。
しかし今回、事件そのものと並行して、マスメディアとSNSにおける「情報狂乱」とも呼べる異様な現象が起きた。
まず、テレビでは、連日トップニュースで長い時間を割いての報道が続いた。捜査が大きな進展を見せていないときは、容疑者が通勤前に自販機で飲み物を買うのがルーティーンだったなど、事件の本筋とは関係のないことまで繰り返し報じられた。他のニュースよりも大きく時間を割くにしては些末な内容であったし、事件報道の域を超えているようにも思われた。
「容疑者は外国籍である」と誤報も
また、海外のテレビ局が、「容疑者は外国籍である」と全くの誤報を流すという失態も犯した(この局は放送の2日後、情報が誤りだったとして謝罪している)。日本のテレビ局でも、容疑者とは別人の映像を流すなど、情報空間そのものが混乱状態に陥っていると言ってよい様相であった。
一方、SNS上では根拠不明の憶測やデマが大量に拡散された。容疑者が逮捕される前の段階から、憶測で「犯人」を決めつけたり、その年齢や国籍などについての誤った情報を垂れ流したりする投稿が毎日のように見られた。
なぜこれほど騒がれたのか
たとえば、容疑者や関係者が鳥獣処理施設に勤務しているという誤情報が、瞬く間に拡散された。当の施設にはそもそも常駐の職員はおらず、「全くの虚偽」であるにもかかわらず、役所にはたくさんの迷惑電話などがあり、業務に支障をきたすほどであったと報じられている(※)。
なぜ、この事件に対して、このような「情報狂乱」が生じたのか。そこには人間心理とメディア構造の双方が関わっている。
曖昧さに耐えられない心理
まず重要なのは、人間が曖昧さに耐えることを苦手とする存在だという点である。今回の事件では、行方不明から遺体発見まで時間があり、経緯にも不可解な点が多く、初期情報も断片的であった。
こうした状況では、人は「まだ分からない」という曖昧な状態に強い不快感を覚える。心理学では、曖昧さや不確実性は不安を高め、人はそれを抑えるために早く意味づけや答えを求めるとされている。つまり、情報が不足しているときほど、人々は空白を憶測で埋めたくなるのである。
その結果、「警察は何かを隠している」「隠された真実はこうだ」「怪しいのはこの人物だ」などといった憶測が、根拠もなく無責任に流通し始める。しかも、一度ストーリー化された情報は、人の記憶に残りやすい。単なる未確認情報であっても、もっともらしい筋書きを持つと、人はそれを事実に近いものとして受け取ってしまう。
感情を大きくかき立てた3つの要素
また、今回の事件は、人の感情を大きくかき立てる事件であったことも関係している。児童の行方不明、家族関与の疑い、死体遺棄という要素は、不安、怒り、悲しみなどを同時に刺激する。
感情を強く動かす情報ほど、人は他者と共有したくなる。SNSについての研究でも、怒りや驚きを喚起する投稿は拡散されやすいことが知られている。冷静に「まだ分からない」と述べる投稿より、「真相はこれだ」などと断定する投稿の方が注目を集めやすい。そして、それが曖昧さに答えを与えてくれるようなものであれば尚更だ。
つまり、情報の正確性ではなく、感情の強さが拡散力を決める構造がある。これがデマや誤情報の温床となる。SNSは民主的な情報空間である一方、感情増幅装置でもある。
事件をエンタメ化して消費する社会
さらに見逃せないのが、重大事件が参加型コンテンツ化している点である。本来、事件報道とは、国民の知る権利を守るために社会に重要な情報を伝えつつ、権力を監視し、市民の安全意識と公共的議論を促すことにある。
しかし、今回の事件報道では、事件が「考察ゲーム」「推理コンテンツ」であるかのように、長時間にわたって過剰な報道がなされ、事件報道の目的などはどこかに消し飛んでいるかのように見えた。
SNSにおいては、そもそもそのような目的など最初から存在せず、今や無法地帯化している。特に、多くの閲覧数を得ると収益化できるようなシステムの下では、目先の利益に目がくらんだ人々が、競うように注目を得られる投稿をすることが日常化している。
そこでは、事実かどうかや関係者の人権、他者への迷惑などは二の次となり、どれだけ突飛な投稿をして注目を集めるかが最大の関心事となっている。
情報の受け手たちも、最初は被害者に対する心配や同情、加害への怒りがあったかもしれないが、自分たちから遠い場所で起こった不可解で残忍な事件に対して、徐々にそれを「エンタメ化」して消費するようになっていったかのようだった。
非日常的な事件や事故を「楽しむ」傾向
そもそも、人は非日常的な事件や事故を「楽しむ」傾向がある。これにはいくつかの心理学的な理由がある。
第一に、進化心理学的な脅威モニタリングである。危険な事象に注意を向けることは生存上有利であるため、事件事故は人々の強い関心を引く。現代社会では直接的な危険が少ないため、他者の不幸や犯罪が「安全な形での疑似体験」として消費される。
第二に、覚醒水準の調整であり、これを刺激希求と呼ぶ。日常が単調であるほど、恐怖や驚きを伴う情報は覚醒を高め、興奮や没入をもたらす。これが「怖いが見てしまう」という反応を生む。
第三に、社会的比較と自己防衛である。他者の不幸に触れることで「自分はまだ安全だ」という相対的安心を得る。これを下方比較と呼ぶ。
事件事故を扱ったドラマや映画がヒットし、多くの人がそれを楽しんでいるのは紛れもない事実である。そして、その関心は、フィクションにとどまらず、現実の事件事故に対しても同じように向けられる。こうして、狂乱報道のなかで、人々の関心は、事件への心配や不安から、事件をエンタメ化し消費する方向へと堕落する。
今回、過剰な情報狂乱は、東北で発生した地震およびその報道を境にピタッと収束した。それは、マスメディアが地震報道に時間を割く必要があったことと、受け手のほうも、この事件の報道に「飽きた」からだろう。
誤情報の害
事件報道において誤情報の代償は大きい。無関係な人物が疑われ、地域に風評被害が生じ、遺族は二次被害を受ける。
あるタレントは、「母親は何してんのよ」「母親にものすごい怒りを感じてる」などとSNSに投稿し、悲しみに打ちひしがれているであろう家族にまで追い打ちのような攻撃を向けた。
さらに誤情報は、警察の捜査を妨害することにもつながりかねない。秘匿捜査をしている警察の邪魔をしたり、誤情報に騙された市民が警察に情報提供をしたりする危険性がある。
嘘をでっちあげて投稿するケースも
今回の事件において生じた情報狂乱は、事件そのものとは別に「第二の事件」とも言えるだろう。このような事態に、われわれはどう対処するべきであろうか。
まず、マスメディアは過剰報道や、情報の垂れ流しをすることなく、冷静で抑制的な報道に徹するように、改めてその報道姿勢を問い直すべきだ。視聴者が求めているから放送するというのではなくて、過熱する視聴者を抑えることの役割も必要である。
過剰報道すると、受け手側は「これは重大な事件だ」ととらえ、ますます感情的に反応しやすくなる。そして、それが誤情報拡散の一因ともなる。一部メディアでは「誤情報に注意」などと注意を呼び掛ける場面もあったが、自身の過剰報道が誤情報拡散につながっていなかったか、検証が求められる。
SNSなどでの誤情報に対しては、第一に、受け手側が「SNSなどでの出所不明の情報は不正確であることが多い」と理解することである。重大事件ほど、最初の数日は誤認・錯綜が起きやすい。また、面白がって、あるいは収益のために意図的にショッキングな嘘をでっちあげて投稿する者も多い。
感情の赴くままに、これらを鵜呑みにしたり、拡散したりするのではなく、他の情報と比較したり、信頼できるメディアの情報や警察からの発表などを待って、その真偽を確認する余裕が必要である。
プラットフォーム側の責任も大きい。収益化をしているアカウントがデマや誤情報の発生源になっている場合は、そのアカウントの停止などの措置を迅速に行うべきである。いろいろな事件や災害などが起きるたびに、おそらく事実ではないと分かっていながらデマを垂れ流すような悪質なアカウントもある。そうしたアカウントを放置しておくことは、プラットフォームもデマ拡散の共犯者だと言われても仕方ないだろう。
私たちが問われていること
この事件で最も重い現実は、一人の無辜の子どもの命が失われたことである。にもかかわらず、社会の視線が情報狂乱へと流れるなら、被害の本質から目をそらすことになるし、被害者への冒涜ともなる。
私たちが問われているのは、事件に対して感情的、短絡的に熱狂することではない。真実が確定していないときに、どれだけ慎重で抑制的でいられるかである。そこに、成熟した情報社会かどうかが表れる。
※「朝日新聞デジタル」2026年4月18日配信
(原田 隆之)
