【W杯回顧録】第15回大会(1994年)|「もう足に力が残っていなかった」PK戦に泣いたR・バッジョ。日本の“ドーハの悲劇”にマラドーナ追放、ブラジルが24年ぶりの頂点に
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●第15回大会(1994年)/アメリカ開催
優勝:ブラジル
準優勝:イタリア
【得点王】フリスト・ストイチコフ(ブルガリア)、オレグ・サレンコ(ロシア):6得点
24か国出場枠での最後の大会は、「狭き門」を象徴するように大陸予選から様々なエピソードが生まれた。日本では大会前年にJリーグが開幕し、代表チームも初の外国人プロ監督ハンス・オフトを迎えて環境が激変した。「日本をワールドカップへ連れていくのが私の仕事」と宣言したオフトは、1992年に東アジアとアジアのタイトルを連続して獲得し、本命視されてカタールのドーハで集中開催の最終予選に臨んだ。
2戦目にイランに敗れ崖っぷちに立たされるが、続く北朝鮮戦と韓国戦を連勝。最終戦でイラクに勝てば本大会出場を決められる優位な状況を築いた。だが、2−1とリードを保ったアディショナルタイムに、イラクがCKを獲得。おそらく跳ね返せば終了のホイッスルが鳴るタイミングで、イラクに同点ゴールを許してしまう。日本は土壇場で「悲劇」に見舞われ、韓国が逆転で奇跡的な3大会連続出場を決めた。
欧州では次期開催国で優勝も狙えるメンバーを揃えたフランスが、パリでの最終戦の土壇場でブルガリアに逆転弾を許し敗退した。また前回準優勝のアルゼンチンは、コロンビアに0−5と大敗。王様ペレは「コロンビアこそが優勝候補」と絶賛した。結局、アルゼンチンは、オーストラリアとの大陸間プレーオフに回り、麻薬使用でセリエAから追放されたディエゴ・マラドーナを復帰させて本大会への切符を手にするのだった。
アメリカン・フットボール仕様のスタジアムの収容力のおかげで、本大会では1試合平均最多の6万8592人の集客を記録した。しかし、普及対象国のアメリカが、地球最大のスポーツの祭典の舞台として相応しかったかは疑問だった。
ワールドカップ開催時は、NBAやNHLが佳境を迎え、アメフトのスーパースターだったO・J・シンプソンに夫人殺害容疑がかけられて警察とのカーチェイスを展開。テレビのチャンネルは完全にそちらに占拠され、ワールドカップ開催中に公共の場でサッカーの映像が楽しめない大会となった。テレビ中継も欧州がメインターゲットなので、現地では酷暑の日中に開催され、気温は40度近くに到達することもあった。
前回のイタリア大会では、ゴールが少なくカードが乱発されたため、危機感を抱いたFIFAはいくつか打開策を打ち出す。勝利ポイントは「2」から「3」に変更され、オフサイドもプレーに関与しない選手には適用されないことになり、終盤戦で重要な意味を持つことになった。
大会序盤では、アジア勢の善戦がさざ波を立て、南米2か国の事件が大きな波紋を呼んだ。酷暑の我慢比べのような環境は、こうした気候に慣れたアジア勢を後押しした。アジア地区最終予選を首位通過したサウジアラビアは、2戦目でモロッコを下し、同大陸としては1966年大会の北朝鮮以来の勝利を飾ると、3戦目でもサイード・アル=オワイランの60メートルドリブルシュートが決勝点となりベルギーを破ってベスト16に進出する。
また韓国も、スペイン、ボリビアと分け、GL最終戦では0−3から猛暑でグロッキー状態に陥ったドイツを1点差まで追い込んだが、惜しくも敗退した。
