「お母さん、ごめんね」。トラックとの事故に遭い、重傷を負った伊藤真波さん。アスファルトに横たわりながら、震える手で母にかけた電話で彼女の口からでた言葉は、バイク通学に反対していた母への謝罪でした。激痛を伴う治療の末、右腕の切断を決意した20歳。仕事も恋愛も結婚もすべて「諦め」た絶望の先で、彼女がすがったものとは。

【写真】「お母さん、助けて」壮絶な痛みを伴う治療中も伊藤さんを支え続けた母と(5枚目/全12枚)

「トラックが目の前に」事故の記憶はそれだけ

事故に遭う前の伊藤さん。看護師を目指して専門学校に通っていた

── 伊藤さんが事故で右腕を失ったのが20歳のころと伺っています。当時、看護師を目指して専門学校に通っていたそうですね。

伊藤さん:事故に遭ったのは、バイクで看護実習に向かう日の朝でした。

看護師を目指したきっかけは母です。幼い頃、3人の子どもを育てる忙しい母の姿を見て育った私は、「自分も何かの力になりたい」と考えるようになりました。その気持ちがいつしか「人の役に立つ仕事がしたい」という思いに繋がったんです。事故は、そんな看護師を目指して学校に通う矢先の出来事でした。

── 当時のことは覚えていますか?

伊藤さん:「トラックが目の前にある」。事故の瞬間の記憶はこれだけです。気づいたら道路に倒れていました。ただ、そのときの私は、「ぶつかった」のではなく「転んだだけ」だと思っていたんです。

だから、周囲が騒然とするなか、私は携帯電話を取り出して、母に電話をかけました。「お母さん、ごめんね。事故っちゃった」。そう伝えたつもりでした。ですが、私の顔面は事故で大きく損傷しており、母にはほとんど言葉は伝わっていなかったようです。

母はもともと「危ないから」と、バイク通学には反対でした。母の心配をよそに、私はバイクに乗り続けてしまった…。反対を押しきっていたからこそ、咄嗟に出た言葉は「ごめんね」だったのだと思います。

「腕だけは残してほしい」逃げ場のない治療の日々

── トラックとの衝突事故…。かなり深刻な状態だったのではないでしょうか。

伊藤さん:顔から体まで、何か所も骨折しましたが、一番ひどかったのが右腕でした。トラックのタイヤに巻き込まれ、皮膚の中にオイルや砂利が入り込んでしまっていたんです。それを取り除く処置に何日もかかったのですが、それが本当に過酷で…。麻酔が効かないほどの痛みで暴れてしまい、押さえつけられながらの処置は今、思い出しても本当につらい。「お母さん、助けて」と絶叫し続けました。

実は医師からは「右腕の切断」という選択肢も提示されていたんです。でも「腕がなければ看護師になれない」からと、「どんな治療にも耐えるから、腕だけは残してください」と医師にお願いをしていました。だから、痛みを理由に逃げることはできなくて。「やめてください」とは言えませんでした。

「右腕を切ってください」その言葉で人生を諦めた

作業用の特殊な義手を作り、看護の現場へ復帰

── 壮絶な痛みに耐えていた伊藤さんですが、最終的に右腕の切断を決意されます。それはいつ頃ですか?

伊藤さん:事故から2か月後のことです。傷口からの細菌感染が進み、敗血症の可能性がある深刻な状態でした。万が一、敗血症が進行してしまえば、臓器障害を引き起こす危険もあり、命にも関わります。痛みもずっと続いていて、食事は取れず、体力も気力も限界で…。そのとき、母に言われたんです。「切るなら、自分で先生に伝えなさい」って。

「腕だけは残したい」と半ば意固地になっていた一方で、敗血症の危険や、自分の体も心も限界に近づいていることも感じていました。それでも、どうしても決断できずに揺れていたとき、母が口火を切ってくれたのです。

バイクに乗り続けたことも、腕を残したいと言い続けたことも、全部自分で選んできたこと。だから「自分の責任でその先を決めなさい」と。

── その言葉を聞いて、どのような気持ちになったのでしょうか。

伊藤さん:学校で学んだ医療の知識があったため、自分が危険な状態にあることは十分に理解していました。ただ、「切ってしまったら全部終わる」という感覚があって。

まだ20歳なのに、仕事も、恋愛も、結婚も、全部なくなるんだと思いました。「腕を切ってください」というそのひと言が、どうしても言えませんでした。医師を前にしても、言葉が出ずに、何分も黙り続けるばかり。やっと言えたときは「諦めた」という感覚でした。

── 伊藤さんの決断に、お母さんはなんと?

伊藤さん:何も言いませんでした。ただ、手術をする朝、母が私のそばにきてくれて、「よく頑張ったね」って右手をさすりながら言ったんです。それを見たら、もう何も言えなくなってしまって。「五体満足に産んでもらったのに、ごめんなさい」と思うことしかできませんでした。このとき感じた申し訳なさは、今でも忘れられません。

「すがるものがほしかった」義手での復学を決意

── 手術後はどのように現実を受け入れていったのでしょうか。

伊藤さん:「片腕のない自分」をしばらくは受け入れることはできませんでした。洗面台の鏡を見るたびに自分の姿に耐えられなくなり、鏡を叩き割ったこともあります。お見舞いに来てくれた友人にも会えず、面会も断って「誰にも見られたくない」と、布団にくるまって過ごしました。

── そこから、どのように気持ちが変わっていったのですか?

伊藤さん:同じ病院に入院していた、同い年の女の子と仲良くなったんです。その子に「つらいよね。でも生きてるじゃん」と言われたことが変化のきっかけになりました。

その子は骨折の治療で入院していたので、正直、「五体満足だからそんなこと言えるんだ」と思いました。でも、その言葉がずっと頭から離れなくて。何もかもが終わったと諦めていた私でしたが、「たしかに生きている。じゃあこの先どうするんだろう」と、少しだけ前を向けた瞬間でした。

ちょうどそのころ、看護学校の先生が来て「学校に戻ってきませんか?」と声をかけてくれました。「義手を作れば復学できる。相当大変だと思うけど、あなたが逃げずに向き合うと決めたなら、私たちがサポートする」と言ってくれて。

腕を切った瞬間から、看護師になる夢は諦めていました。でも「このまま何もない状態でいるのが怖い」という気持ちがあって…。あのときは「戻りたい」というよりも「何かにすがらないと立っていられない」という感覚でした。「絶対に逃げない、弱音も吐かない」と、その申し出を受けることにしたんです。

── 義手をつけて学校に戻る決断は、大きな一歩だったと思います。当時、自身の姿とどのように向き合いましたか? 

伊藤さん:作業用の特殊な義手をつけた私の姿は不恰好で、まるでピーターパンに登場するフック船長のようでした。ただ、当時の私には「看護師になること」だけが、希望の光であり、前を向けるただひとつの理由でした。「義手がないと先に進めない」と、少しずつ向き合えるようになっていきました。

あのときの選択が正しかったのかはわかりません。ただ、「正しいかどうか」ではなく、「立っていられるかどうか」で選んでいたのだと思います。

取材・文:佐藤有香 写真:伊藤真波