駐妻【ちゅうづま】―海外駐在員の妻。

数多の平凡な妻の中で、一際輝くステータス。それはちょっとした幸運で手に入れた期間限定のシンデレラタイム。

彼女たちがこれまでの人生で何を夢見て、何に泣き、何を喜び、何を成し遂げたのか、ここでは誰も知らない。

共通点はただ一つ、夫について、海外で暮らしていること。

駐妻ワールド。

そこは華麗なる世界か、堅牢なる牢獄か。

夫・彬の赴任に伴い、タイ・バンコクで駐妻としての生活が始まった里香子。引っ越しの翌朝、早々に彬の会社のバンコク婦人会から豪華な花束とカードが届く。

それを見た里香子は、8年前、ロンドン留学中に嫉妬に狂った駐妻から衝撃的な電話がかかってきたことを思い出すのだった。

彼女のバンコク駐妻ライフが幕を開ける―。




「里香子! ようこそバンコクへ!」

車を降りると、オープンカフェで雪乃が立ち上がってこちらに手を振っている。里香子はほっとして雪乃に走り寄り、抱き合って再会を喜んだ。

「雪乃、念願の駐妻ライフ、楽しんでるのね!」

里香子は雪乃の姿を眺め、思わず吹き出した。

つやつやと輝く肌やサンドレス、鮮やかなネイルや上品なレザーサンダルからのぞく涼しげなペディキュア。それはまさに駐妻のイメージ通りの装いだ。

ロンドン留学時代の宣言どおり、雪乃の駐妻志望熱は衰えず、帰国後は総合商社の一般職に内定を決めた。

青山学院大学の英文科在学中にロンドン大学に1年間の留学をした雪乃。

その”程よい”学歴に、ベビーフェイスと女らしいプロポーションを最大限に活かして駐妻への道を拓く、とは当時の彼女の弁だ。

その後、周囲が驚くほどの順調さで、社内恋愛を経て結婚。念願かなって、半年前からバンコクに駐在している。

「元気よ、バンコク駐妻は最高!都会だし、マッサージもネイルもし放題。朝、好きな食材買っておいとけばお手伝いさんがリクエスト通りにディナーを作ってくれるし」

「…なんかよくわからないけど、雪乃を見てると、新参者の緊張がほぐれるわ。タイ語教室、申し込んでくれてありがとうね。3か月ごとの開校だから、今日入れてよかった」

里香子が安堵の表情を見せると、雪乃はいたずらっぽく笑う。

「あら?奥様ったら、『新人の洗礼』はこれからよ。最初が肝心。用意はいい?」

そして里香子は、学校が入っているビルのエントランスに促されたのだった。


里香子を待つ、駐妻コミュニティの洗礼とは?


バンコク駐妻の必須科目!?タイ語クラスで見たもの


―ふうむ、タイ語教室、てっきり英語で説明かと思ったら、日本語だったか…。

里香子は、授業をやや拍子抜けしながら受けつつ、周囲を伺う。どうやらここでは日本人の初心者向けに日本語で授業が行われているようなのだ。

午前中のクラスは「超初級タイ語 ジャパニーズバージョン」だった。

そこにいるのは、10名全員が日本人の駐妻で、里香子も含めてタイ語は初心者。ただ、里香子のように引っ越し早々、というよりは、バンコクに来てからある程度は経っている人がほとんどのようだ。

里香子を除いて、全員がほぼ同じテイストのレザーのサンダルを履いている。それは壮観でさえあった。

色はさまざまだが、さっき雪乃が履いていたものと同じブランドではないだろうか。

―もしかして、これが噂のバンコク駐妻御用達のオーダーメイド靴、『MUZINA』のサンダル?

彬の駐在が決まり、里香子は迷った挙句、さまざまな事情から帯同を決意した。それからは短時間で情報収集をすべく、バンコク情報を必死に集めたのだ。

周囲を観察しているうちに、授業はあっという間に終了し、最後はこれまた拍子抜けするほど簡単なタイ語のあいさつで締めくくられた。

「里香子さん、でしたよね。バンコクに来られたばかりなんでしょう?今からお隣のクラスの方たちとランチに行くんだけど、ご一緒にいかが?」

帰り支度をしていると、隣の席の華やかな美人がやけにウィスパーボイスでささやく。確か自己紹介でアリサと名乗っていた。




里香子は、思いがけない誘いに嬉しくなってうなずく。

「あ…はい!喜んで。隣のクラスに私も友人がいるので、ご一緒してもよろしいですか?」

里香子の問いに、アリサは「もちろん」と答え、どこかへ電話をかけ始めた。

「あ、もしもし、ヒロちゃん?え?仕事中?ごめんね、ちょっとお願いが。いつもの24階のランチ、8人で個室を予約してくれる?ありがとう!英語で予約なんて無理だもん、助かるわ。これから車で行くから、15分後でお願いします」

―…もしや奥様ランチ会の予約を、仕事中のご主人に頼んだ?

里香子は驚きを隠すのに精一杯だ。

つい1週間前まで、東京の大手ディベロッパーの総合職としてハードに働いていた里香子は、まだ専業主婦よりも会社員としての感覚のほうがずっと強い。

―仕事中にそんな電話がかかってきたらがっくりするだろうなあ…。

見知らぬサラリーマンに同情しつつ、急いで隣のクラスの雪乃を捕まえに教室を飛び出した。


華麗なるマダム会の目的は、里香子の身上調査?


駐妻ヒエラルキーのチェックポイント


「これからよろしくね、里香子さん。乾杯!」

ネイルを施されたいくつもの華奢な手が、グラスを掲げる。

窓のはるか下にはバンコクの喧噪と緑の茂った公園が広がっていた。ホテルの最上階にあるこのゆったりとした品の良い、豪勢な飲茶ランチは、どうやらバンコクマダムの日常らしかった。

「里香子さんは、駐在は何か国目?お子さんはいらっしゃるの?」

さっそくの質問に、里香子が「海外駐在は初めてで、子どもはおりません。よろしくお願いします」と答えると、なぜか全員少し嬉しそうにした。

―駐妻界ではね、何か国目かで、まずはランクが決まるの。3か国目とか、日本に帰らないで次の国に駐在するのを”スライド”っていうんだけど、スライド15年目とか、そういう奥さんが格上なのよ。

ここに移動するときに、雪乃が車の中で耳打ちしてくれたことは本当らしい。

里香子のとなりで、雪乃がすかさず続ける。

「里香子とはロンドン留学時代からの友人なんです。私は英語、モノになりませんでしたけど、彼女は努力家で、堪能なんですよ」

すると、里香子をランチに誘ってくれたアリサが、笑顔で答えた。

「あら!そうなの、それで同時期にバンコクなんて凄い偶然ね。里香子さん、さっき学校で提出してた書類が見えたんだけど、里香子さんのご主人と私の主人、同じ会社みたい」

アリサの言葉に、里香子はぎょっとする。

駐在員の妻が現地で語学学校に通う場合、多くが領収書を提出すれば会社に授業料を払ってもらえる。

里香子も事前に聞いていたので、所定の書類を学校に提出したのだ。

まさか、それを見られていたとは…。

そのとき、それまでニコニコしていた何人かの顔色がさっと変わった。

里香子の夫・彬は、大手自動車メーカーの技術部門で勤務している。

そのことについて、里香子は、雪乃からある忠告を受けていた。

ー彬さんの会社は待遇が最高ランクだし、下請け会社の奥様がたくさんいるの。羨望とやっかみの対象になりがちだから、気を付けて。

そう聞いていたので、夫の会社のことを自分から言うつもりはなかった。それなのに。

「それじゃあお住まいもやっぱりあのタワーなの?」

ミントグリーンのサンドレスを着たカナという女性が、興味津々といった様子で里香子に尋ねる。年齢は25・6歳だろうか、この中で一番若く見える。

「え、ええ、トンローの…。先にバンコクに来た主人が、会社の方に勧めていただいて決めたらしくて。私は土地勘がないので」

そう答えながら、里香子が住んでいるのは、彬の会社の駐在員が多く住む「超」がつく高級アパートだと雪乃から言われたのを思い出した。最後は声が小さくなる。

会社に出してもらっているだけで、威張れるようなことは何もない。

「わあ!素敵!今度遊びに行かせてください。フリースペースがありましたよね?私最近インドまで行ってヨガインストラクターの資格取ったの、良かったらご一緒にどうですか?」

「里香子さんのタワーに近いホテルのプールサイドバーで、シャンパンのフリーフローブランチが始まったのご存知?良かったら明日、ご一緒にどうかしら?今人数がわかればコンシェルジュに予約してもらうわ」




里香子は彼女たちの勢いに押されつつも、なんとか相槌を打つ。

ちらりと雪乃を見ると、にっこり笑ってグラスを軽く掲げている。彼女は心から、この駐妻の世界を楽しんでいるようだ。

東京で働いていた頃とはあまりにもかけ離れた生活。これから3年、ここでうまくやっていけるのだろうか。

里香子は湧き上がる不安を、無理矢理シャンパンと一緒に飲み込んだ。

▶NEXT:5月31日 木曜更新予定
華やかでちょっと滑稽な駐妻生活始動!そして里香子が見たタイ人富裕層の桁違いセレブライフとは?