直木という特殊な才能を制御できるのは俺だけだ。 失敗続き、借金まみれの直木三十五に盟友・菊池寛が出した処方箋とは? 『文豪、社長になる』(門井 慶喜)
同人誌として出発した「文藝春秋」は今や総合雑誌にまで成長。会社も株式会社化し、菊池寛は創業者として代表取締役の座に就きました。世に稀な、「文豪兼社長」が誕生したのです。創刊時の同人たちや執筆に名を連ねた新進作家たちも一人前の作家となりました。ただ一人、直木三十五を除いては……。寛のもとを離れ、また事業に失敗していた直木に寛がかけた言葉とは、一体? 尽きせぬ二人の友情が遺したものとは――。直木三十五賞、感動の誕生秘話がいま明らかに。
文豪であり、社長でもあった世に稀な男の生涯を描いた、門井慶喜さんの最新歴史小説『文豪、社長になる』(文藝春秋)より一部抜粋してお届けする第4回。
「文藝春秋」は、その後も部数をのばした。
寛の胸もふくらんだ。どうせならこの雑誌を、
(もっと、大きく)
じつを言うと、それは創刊時からの野心だった。部数だけではない。内容の上でも現在のような文壇雑誌のせせっこましい湖を出て、もっと一般的というか、世間普通の大海を行きたい。
政党の動向だの、工場における労働条件だの、女性の職業進出だのいう時事的な現象もあつかいたいし、海外事情や、家庭問題や、スポーツや、歴史読物や、政界裏話や、長寿の秘訣や、旅行案内や、華族のふだんのお食事拝見といったようなものや……要するに都会の市民が興味を抱くありとあらゆる対象へぶつかりたいのだ。
もちろん小説の創作も載せる。これをひとことで言うと、
――総合雑誌にしたい。
とは、しかし果たして言えるだろうか。
なるほどそう呼ばれる雑誌はある。さしあたり「中央公論」と「改造」あたりは二巨頭だろう。だがこの両誌が「総合」の二字をもって称されるのは、基本的には、思想、政治、経済、科学、文学、美術などに関する論文を載せるという意味。つまりは学芸諸分野の「総合」の意ではないか。
寛はちがう。あるいは「文藝春秋」はちがう。それよりも先にまずこの自分たち人間という体温のある、体臭のある、よろこびもすれば悲しみもする不可思議この上ない存在への興味があって、そこから諸分野へ手をのばす。
別の言いかたをするならば、かたっくるしい諸分野にわかれる前の身軽な人間そのものを「総合」と見るところから出発する。「総合」の意味がちがうのである。学問芸術を探究するふりをして人間そのものを探究する、いや、人間そのものをおもしろがる。そんな態度ででもあるだろうか。
したがってその記事の文体は、おのずから論説よりも随筆寄りになるだろう。いっそ談話に近いかもしれない……われながらあんまり漠然としているけれども、もしもそれに成功したら、「文藝春秋」は類のない雑誌になる。
「中央公論」や「改造」のような硬派とはちがう、「講談倶楽部」や「キング」のような軟派ともちがう雑誌になる。そうして雑誌というものは、類がなければ、
(売れる)
そのためには、まずは「文藝春秋」を商業雑誌にしなければならぬ。寛はそう決意した。もちろん現在でも商業的ではある。本屋の店先で売っているとか、新聞に広告を出しているとかの点では商業的なのだけれども、ほんとうの意味でそうなるには、いまや以下の二点が問題だった。
一、同人制を敷いていること。
二、制作費は寛個人が出していること。
一については言うまでもない。同人制を敷くかぎりは雑誌はひっきょう素人細工の域を出ない。編集も校正も営業もそれぞれの玄人が、毎日着々と、趣味ではなく業務でやらなければ雑誌というのは大きくならない。寛は、同人を解散した。
さいわい――と言うべきか――横光利一や川端康成、あるいは石浜金作などといったような若手の主力は「文芸時代」のほうの編集にすっかり夢中である上に、作家としても多忙になった。
つまるところ寛の手をはなれ、一人前になったのである。雑誌創刊の目的の一半は果たされた恰好である。それに「文藝春秋」の仲間には、菅忠雄のような人間もいた。菅は公式にではないものの事実上の同人で、しかも小説よりも編集のほうに天分があり、すでにして編集長みたいな存在だったから、解散後の新しい組織づくりも円滑に進んだ。今後はこの菅忠雄が業務の中心となっていくだろう。
編集のほうはそれでいいとして、もうひとつ、二の会計の問題はいくらか厄介だった。
それまでもいちおう「文藝春秋」は文藝春秋社なる団体が刊行していることになっていたし、発売ももう春陽堂に依存せず、何とか自分たちでやっていたけれども、実際のお金は、要するに寛が自分の財布から出し入れしているだけ。
収支の計算も杜撰(ずさん)というか、そもそも帳簿をつけていないのだから杜撰以前である。武家の商法ならぬ文士の商法。いままで何事もなかったのがむしろ奇跡的なので、寛はいろいろの試みの末、文藝春秋社を株式会社とし、みずから取締役社長の座に就いた。
資本金五万円。ここにおいて組織的にも、会計的にも、個人と法人が切り離されたのである。これにより寛は、ときどき社員から、
「菊池さん」
でも、
「菊池先生」
でもなく、
「社長」
と呼ばれるようになった。ときに「菊池社長」とも。
(文士が、社長か)
多少の満足がないでもなかった。余談だがこの法人化以降、社員がよく働くようになった。寛は、
(なるほど)
と思うところがあって、人にはこう言い言いした。
「人間というのは、おもしろいものだね。おなじ仕事でも個人商店でやるのと株式会社でやるのじゃ気概がちがうんだ」
これは寛の勘ちがいだった。あとで社員のひとりが打ち明けたところでは、個人経営の時代には月給も寛の財布から出るわけで、出る日も金額もばらばらだったからまったく安心できなかったのだという。
特に家族のある者は、心配がひととおりでなかった。その月給がこのたびの法人化によって毎月決まった日に、決まった額が出るようになったので働きやすくなった、それだけの話だった。気概うんぬんは関係なかったのである。
ともあれこの結果、「文藝春秋」は急速に面目をあらためた。
雑誌そのものが分厚くなり、そこへ寄稿するのも、だんだん文壇外の著者が多くなった。
新聞紙法第十二条にさだめる保証金を当局へ納付することで本格的な政治論、社会論も掲載できるようになったため、この雑誌は、名実ともに総合雑誌へと脱皮した。誌名は変わらぬ。総合雑誌なのに「文藝春秋」というのは考えてみれば奇妙だけれど、まあ、それはそれで粋(いき)に見えないこともないし、だいいち経営の実際から言っても、多数の読者にひきつづき買ってもらおうとすれば誌名を変えるのは得策ではない。その総合雑誌化第一号は、大正十五年(一九二六)十二月号だった。
創刊から、ほぼ四年後である。翌月には部数が十五万を突破した。目次には政治評論家・鶴見祐輔(つるみゆうすけ)による「二大政党か小党分立か」とか、あるいは太田菊子という著者による「婦人記者十年の生活」などといったようなものが出はじめた。政治種(だね)であり社会種である。「文藝春秋」は少しずつ寛の理想に近づいて行った。もしくは寛その人に近づいて行った。
おのずから、文壇ゴシップは載らなくなった。
文壇の話題そのものが激減したのだから当然だった。読者もそれを求めなくなった。たしかに雑誌の雰囲気は一段高級になったのである。
そうなると、
(直木)
寛は、みょうに気になりだした。
自分はひょっとしたら、あの無口な貧乏神を、
(捨てたか)
直木には直木の言いぶんもあるにちがいない。低級だろうが何だろうが創刊直後のもっとも困難で大事な時期にとにかく「文藝春秋」の名を世にひろめ、発行部数をふやしたのは自分ではないか。文壇ゴシップではないか。その功労者をこうもあっさり追放して、口をぬぐって知らん顔とは恩知らずにもほどがある。
寛は、
(会いたい)
その思いが、しきりと去来した。
言い訳はしない。捨てたといえば捨てたのである。そのかわりと言っては何だけれども、たらふく鰻丼を食わせてやりたい。別の仕事をあたえてやりたい。しかし直木はもう東京にはいなかった。三年前、マグニチュード七.九の関東大震災が発生して東京および京浜地方が壊滅的な被害を受けたとき、直木は、
「東京は、もうだめだ」
と言い残して、着のみ着のままで大阪へ行ってしまったのである。
震災うんぬんは口実で、ほんとうはやっぱり毎日のように借金とりに責め立てられる生活が耐えられなかったのだと寛は察したものだけれども、ともあれ寛は、その後は直木と会うことはなかった。
手紙のやりとりのある誰かから消息を聞くだけ。その消息がまた呆れるものだった。何でも直木は大阪でもやはり出版業から離れられず、プラトン社という出版社に雇われたという。
プラトン社は、生粋(きっすい)の出版社ではない。
化粧品の製造販売で全国的に有名な中山太陽堂という会社が興したもので、つまりは異業種参入組である。それがこのたび「苦楽」という名のおしゃれな娯楽雑誌を出すことになったため、直木はその経営と編集をまかされたらしい。寛はそれを聞いたとき、
「また経営か」
舌打ちしたものだった。
腹が立ったのは、むしろその版元のオーナーに対してだった。化粧品がどれほど儲かるのか知らないが、どうして事前にちょっとでも直木の経歴を調べないのか。
調べれば雑誌「主潮」の失敗はすぐにわかる。東京での借金まみれの暮らしぶりも。すなわち他はともかくこの男だけは雇ってはいけないと容易に判明するではないか。直木というこの特殊な才能を制御できるのは、
(俺だけだ)
それはそれとして、日が経つうち、うれしい知らせも舞いこんで来た。
直木が小説を書きだしたという。しかもその内容は仇討(あだう)ちだという。芥川龍之介や横光利一や川端康成が書くようないわゆる純粋芸術の系統ではなく、大衆小説なのである。
こんどは埋草ではないのだろう。「苦楽」には創刊号以来、ほぼ毎月、着々と直木の短編が掲載された。各回だいたい四百字詰め原稿用紙二十枚ぶんほど。それらのうちから数編をえらび、さらに新稿数編をくわえて『仇討十種』という単行本もプラトン社から出した。
このころ東京・雑司ヶ谷(ぞうしがや)にあった文藝春秋社(後述する)の寛の部屋には、それらの雑誌や単行本がつぎつぎと郵便で送られて来た。寛はそのたび安堵したというか、肩の荷が下りた気がした。よく考えれば直木は編集長の身で自分の原稿を採用したわけだからお手盛りもはなはだしいわけだけれども、二、三編読んでみて、
(悪くない)
寛はそう思った。大衆文学としてはまだまだ標準的な出来ばえの域を出ないけれど、とにかく書きっぷりの明るいのがいい。文壇ゴシップの余徳といえるかもしれない。東京のジャーナリズムでは特に話題にはならなかったが、新人の作などそんなものだろう。
「直木のやつも、もう筆一本で立ってくれたらなあ」
と社員に言いもした。おとなしく小説や随筆だけ書いていれば経営失敗で借金をこさえることもないし、多額の原稿料がふところに入る。
講演旅行で一稼ぎもできる。じつはそのほうが直木に向いているのではないか。
こんな寛の期待は、
――直木が、プラトン社を辞めた。
の報に接してますます大きくなった。理由は容易に察しがつく。どうせ経費を使いすぎるとか、部数がのびないとかでオーナーと対立したのだろう。いいきっかけではないか。
ところが一か月後に来た続報は、
――こんどは、京都で映画事業に手を出した。
というものだった。
何でも直木め、聯合(れんごう)映画芸術家協会なる会社を設立して、プロデューサーのような立場になって、制作費あつめに奔走しているとか。
筆一本どころではない。自分から借金を増やしに行っているようなものである。ほどなく直木直筆の手紙が来た。右の次第をかんたんに報告した上で、
――ついては君の人気作『第二の接吻』を映画にしたい。許可してくれ。
寛はこれを社長室で読んで、
「馬鹿!」
あやうく手紙を引き裂くところだった。大声で、
「斎藤(さいとう)君! 斎藤君!」
「文藝春秋」編集部の斎藤龍太郎(りゅうたろう)が飛んで来たので、椅子から立ちあがり、手紙を読ませて、
「返事は君が書け。僕は書かん。そんな際物(きわもの)にうつつを抜かす暇があったら小説を書けと言っておけ」
くるりと背を向けてしまった。
斎藤は、有能な実務家である。ふだんと変わらぬ声で、
「菊池さん」
と呼びかけた。社長を社長と呼ぶ世間の美風は、この会社からはとっくのむかしに消えている。やはりどこかに素人くささというか、同人雑誌ぶりが残っているのだろう。寛は、
「何だ」
「原作の使用は?」
「………」
「菊池さん」
「うるさい!」
寛は体の向きを変え、大またで出口のほうへ歩いて行った。ドアのノブに手をかけて、ドアに向かって、
「許可する!」
部屋を出た。われながらどうにも感情の始末がつかなかった。
†
直木が東京に帰って来たのは、昭和二年(一九二七)の夏だった。
先に送った十五個の家財道具はすべて田端駅で債権者たちに差し押さえられたため、直木と妻とふたりの子供はとりあえず本郷の菊富士ホテルに身を寄せているという。ろくに着がえもないのだろう。
話を聞いて、寛はただちに、
「やつを連れて来い。首に縄をつけても引っぱって来い」
直木が来た。社長室で机ごしに対峙した。社員を出て行かせ、ふたりっきりになると、山ほど言いたいことがあるのに舌が動かない。
直木は、むろん話さない。
寛も話さない。じっと直木を見た。その風貌はかなり変化していた。やせっぽちで背が高く、鉛筆のようであることは以前のままだが、そのてっぺんが、つまり額から頭頂にかけての部分が、ひろびろと禿(は)げあがってしまっている。
そのくせ、まんなかだけ黒いものが残っているので、武士の髷(まげ)のように見える。ちょっと独特の風貌である。激しい心労でそうなったのか、それとも単なる遺伝の残酷な仕事の成果であるのかは寛にはわからなかった。
寛は、
「直木」
ようやく、呼びかけた。
直木はこっちを見おろしている。その顔からは感情はうかがわれない。
「直木」
もういちど呼んで、金縁の丸めがねを指でもちあげて、
「無口の病気は、治らんようだな」
「……あんたこそ」
「え?」
「あんたこそ、不機嫌だと極端にしゃべらんようになるらしいな。うまいこと言うやつがいたよ。あれは菊池寛じゃない、クチキカン(口利かん)だとさ」
「くだらん。誰が言った」
「俺だ」
「貴様が言うな」
と口に出したときにはもう、寛は微笑してしまっている。負けである。この直木という、無量無辺の借金とりを相手にしてきた極道者には、自分ごときの𠮟責など蛙(かえる)の面(つら)に水なのだろう。寛は笑いを引っ込めて、
「直木」
「何だ」
「小説を書け。それに集中しろ。貴様にはその才が……」
「あるか」
と、ふいにまっすぐ聞いて来る。寛はとっさに、
「経営の才よりは」
「そうか」

直木三十五 昭和7年 上海にて
直木は、それから猛然と書きだした。「キング」や「週刊朝日」や「サンデー毎日」といったような読者の多い媒体につぎつぎと短編を寄せ、掲載された。
これらの編集部へは、寛が直木を紹介したわけではなかった。直木へじかに注文が行ったのである。どうやら東京の各社もかねて大阪での作品には注目していたようで、帰京を機に、それがいっぺんに花を咲かせた。
直木は、注文を断らなかった。すべて引き受けた。翌々年には「週刊朝日」で長編『由比根元大殺記(ゆいこんげんだいさつき)』の連載も始めたし、「報知新聞」での連載も持った。直木三十五の名は、小説好きの読者はもちろんのこと、そのほかの一般的な市民の脳裡にも定着した。薹(とう)の立った新進だった。
筆名も、このころには固定されていた。あの直木三十一、三十二、三十三……などという年齢をそのまま採った校正者泣かせの奇抜な名つけは、すでにして関西時代、三十五に達したところで直木自身が打ち止めにしたのである。寛もかねて、
「つまらん真似はよせ」
と言っていたのだが、ここへ来てようやく直木も反省したか、あるいはただ単に面倒くさくなっただけか。どうも後者のような気がする。ともあれその直木三十五のこんな流行作家ぶりには、寛は、おどろくよりも先に、
(よかった)
胸をなでおろす思いだった。
運というのは、つづくときにはつづくものである。直木は帰京から三年後、昭和五年(一九三〇)六月より、『南国太平記』という長編を連載しはじめた。
幕末における薩摩藩の内部抗争、いわゆるお由良(ゆら)騒動に材を採ったやはり歴史ものの小説だが、その連載媒体は、ぴったり十年前に寛の出世作『真珠夫人』を掲載したあの「東京日日新聞」および「大阪毎日新聞」だったのである。
そうして『真珠夫人』と同様に、『南国太平記』もまた大人気となった。直木三十五はまさしく菊池寛なみになったわけだが、その寛もたまたま、またしてもたまたま同時期に、あらたな試みを始めていた。
娯楽小説雑誌「オール讀物」を創刊したのである。のちに月刊化されるけれども、この時点では定期刊行物ではない。まずは「文藝春秋」本誌の臨時増刊という体裁で、つまり単発のかたちで世に出した。
総合雑誌ではどうしても或る程度以上には小説のために誌面をさくことができないので、その鬱憤(うっぷん)をこっちで晴らそうという気もあったのだが、それにしてもやっぱり、
(売れる)
その目算が大きかった。
臨時増刊「オール讀物號」は、実際よく売れた。寛はその売り上げの報告を聞いて、
「半年後、いや四か月後には二号目を出そう」
と言った。社員は沸いた。寛はつづけて、
「今回はいろいろの事情があって実現しなかったが、二号目には、きっと直木に書かせよう」
注文を出させた。
直木は、これを引き受けた。ところが締切の日が来ても原稿をよこさない。担当の若い社員が、
「直木先生、まだ一行も書いてないんです。他社の仕事がいそがしいって」
と泣きそうな顔をするので、
「あいつめ」
寛は舌打ちして、椅子から立ちあがり、
「あいつはいま、どこにいる?」
「地下に」
「レインボー・グリルか」
「はい」
「よし、ひとつ僕が行ってやる。うんと尻を叩いてやろう」
文藝春秋は、このときには東京市麴町区内幸町(うちさいわいちよう)一―二、大阪ビルヂング内に移転している。レインボー・グリルは、そのビル内のレストランの名前である。
入居者全体の共用施設であって、文藝春秋社専用ではないのだが、しかし多数の社員がふだんからそこで飲み食いしつつ著者と雑談をしたり、印刷屋と打ち合わせをしたり、はなはだしきに至っては編集会議をひらいたりしているため、何となく専用めいている。
寛はその雰囲気がかねて好きだった。応接室よりも開放的で、それでいてホテルのロビーのような場所よりももう少し閉鎖的というか、気が置けない。
しいて言うなら、談話をたのしむサロンに近いか。そのサロンめいたレストランのいちばん奥のすみの席で、直木は原稿を書いていた。

文藝春秋祭 大阪ビル・レインボーグリルでの菊池寛
向かいの席が、あいている。寛はわざと大きな音を出して尻を落として、
「それは、うちのか」
直木は顔を上げもせず、
「『改造』だ」
「他社か」
「うん」
「うちのを書け。締切はおとといだ」
「鯖(さば)を読んでる。まだ間に合う」
「まあな」
と、寛もあっさり認めてしまう。直木のような雑誌編集のうらおもてを知りつくしている相手には、こんな交渉はもともと何の意味もないのだ。寛は手をのばし、直木が注文したらしい飲みかけのアイス・ティをがぶりと飲んで、
「いつから書ける?」
直木は、ひぃ、というような甲高い咳をひとつして、
「あと十二、三枚だ。終わったら取りかかる」
「そうか」
「一時間後だな」
「ほんとか」
「ああ」
この間、直木は、寛とは目を合わせていない。あくまでも顔を伏せ、ペンを持ち、こちょこちょと原稿用紙のマス目を埋めながら話している。
その埋めっぷりは、たいへんなものだった。寛の倍は速い。これならなるほど一時間で十二、三枚という神業もじゅうぶん可能ではないか。
一枚ぶんを埋めてしまうと、直木は、それを手で横へ払ってしまった。
カルタの札でも払うような手つきである。横には若い女がすわっていて、それを上手に受け止めて、裏返して、それまでの原稿の束の上にのせて両手で立たせ、トントンと音を立てて端をそろえた。見るからに慣れた仕草である。
寛は、
「わかったよ、直木。それまで織恵(おりえ)さんと話していよう」
と言い、その若い女へ、
「こいつの世話はたいへんだろう、織恵さん?」
寛もかねて顔見知りの直木の愛人、香西(こうざい)織恵である。原稿の束を寝かせて置いて、にっこりして、
「ええ。たいへん」
「僕のとこへ来てもいいよ」
「あらあら」
「うんと可愛がってあげる」
「そういえば、あしたは晴れますかしらね。帝劇へ梅幸(ばいこう)を見に行くんですけど」
会話がうまい。いかにも昭和という新時代の都会の女性という感じがして、寛は気持ちよく雑談した。
ときおり直木も口をはさんだ。結局、執筆は三十分あまりで終わってしまって、直木は、
「おーい」
とレストランの女給仕を呼んで、原稿用紙の束を突き出して、
「もうじき『改造』の記者が来る。渡しといてくれ」
女給仕が原稿を受け取ると、直木はさらに財布から十円札を一枚出して、
「チップだ」
寛は反射的に、
(多すぎだ)
と思ったが、こっちが口を出すことでもない。だいいち、もう待ちきれないのだ。
「よし。直木」
「ああ」
「それじゃあ」
寛は立ちあがり、
「飲みに行こう!」
「ひぃ」
と、直木はまた咳をした。承知した、の意らしい。一緒に来ていた若い社員があわてて背広の裾を引いて、
「菊池さん。菊池さん」
「何だね」
「あの、『オール讀物』の原稿は……」
「あしたから書く。それでいいだろう」
と、まるで直木本人であるかのように一蹴して、ふたりで夜の街へ出た。
銀座のカフェで女給をからかい、それから新橋の待合へ。なじみの芸者を呼んで深夜まで痛飲した。直木は酒は飲めないが宴席が好き、というより、宴席で女と話すのが大好きなのである。
寛は、酔った。これほど飲んだ夜はなかった。自分がこの直木三十五という男を、
(流行児にした)
その自負が、何より旨い酒の肴だった。もちろん本当のところは直木を流行児にしたのは他の誰よりも直木本人であり、その才と意志の力にほかならないのだが、そもそもの話をするならば、もしも自分が「文藝春秋」に文壇ゴシップを書かせていなかったら。
その総合雑誌化ののちも根気づよく普通の随筆を書かせていなかったら。大阪で失敗した直木をふたたび東京であたたかく迎えて「小説を書け」と𠮟咤(しった)していなかったら。そのいずれかひとつが欠けていても、作家・直木三十五が世に出ていなかったことは確実なのである。
直木も、さだめし恩に着ているはずである。何しろ浪費家だからまだ借金は少し残っているらしいが、これも近いうちに完全になくなる。そうなればもう恐いものなしだ。直木の名はますます大きく重くなり、天下第一等になり、そうしてそれを目次に載せた自分の雑誌もますます売れる。お金が儲かる。
(永遠に)
とまでは思わない。
そこまで寛は夢想家ではない。ないがしかし寛はこのとき四十三だったし、直木は四十になったばかり。先は長いはずだった。今後もどんどん書かせよう、依頼の雨を降らせようと思いながら新橋の待合を出たとき、直木は、
「これから書く」
と言った。寛は呂律(ろれつ)のまわらぬ口で、
「何を?」
「貴様の原稿だ」
「ああ、たのむ」
酒を飲まない直木には、こんなことも可能なのである。寛は大声で、
「たのむ。たのむ」
くりかえしつつ、その痩せた背中をばんばん叩いた。ごりっと背骨の感触があって、
「うっ」
直木が顔をゆがめた、ような気がした。
†
それからまもなく、直木は、織恵への態度が一変した。
各社の記者の前で平気で𠮟る。どなりつける。とうとう織恵が耐えきれず、
――直木のもとを、去った。
と聞いたのは、三年後のことだった。
つまり織恵は三年も耐えたのである。寛はつい、
「かわいそうに」
と口に出した。
織恵がではない。直木がかわいそうだと思ったのだ。なぜなら寛は、このころにはもう、
(結核)
その確信を持っている。
死病である。寛がそれに気づいたのは、あの、
「ひぃ」
「ひぃ」
という甲高い咳がきっかけだった。
日を追うごとに激しくなった。直木はいつからか、袱紗(ふくさ)づつみに大量のちり紙を入れて持ち歩くようになった。ちり紙には痰(たん)を吐くのである。十分か十五分に一度くらい、ときには二、三分に一度の頻度でそれをやるため、少量では足りないのだと寛はわかった。
体つきも、気の毒だった。もともと鉛筆のようだったのが、さらに痩せほそり、肌の色が悪くなった。或るとき寛が、
「体重は、いくらだ」
と聞いたところ、
「十二貫を切った」
と答えた、ということは四十五キロ以下である。これで健康だと思うほうがどうかしている。本人もとつぜん胸が痛んだり、その痛みが背中へまわったりするらしく、ことに背中は深刻だった。どうやら織恵が逃げ出したのは、これが原因らしかった。痛みで直木にやつあたりされたのもそうだけれども、記者のいないときに四六時中、背中を揉ませられたのが体力的に保(も)たなかったのだ。
そんなふうに衰弱しながら、しかし直木は、仕事はした。原稿の注文はすべて引き受け、すべて書いた。
あの小さな字で書きとばした。それがまた読者に受けるものだから注文はいよいよ多くなる。執筆量も多くなる。宴席好きも相変わらずだった。夜になるたび、まるでそれが義務ででもあるかのように誰かを誘って銀座へ行く。待合へ行く。そうして湯水のように金を使う。

直木三十五(晩年)
誰かから、
――静岡に、美人の芸者がいるらしい。
と聞けばさっそくその店へ行って口説きにかかるという具合で、或る意味、これほど勤勉な遊び人もなかった。たばこも吸った。一日に二箱。ときに胸がごろごろ鳴っても、かまわず吸いつづけた。安い国産は吸わなかった。
織恵のあと、直木は、新しい愛人を得た。
真館(まだち)はな子という女だった。紹介したのは寛である。もともと文部省傘下の大日本聯合婦人会という団体の会計をしていたというので、直木のところへ連れて行って、
「秘書に雇ってくれないか」
と言ったところ、直木は、はな子の顔をじっと見て、
「秘書もいいが、女房にはどうだ」
直木はこのとき、妻と正式に別れたばかりだった。はな子もまた離婚歴のある女だった。直木ははな子をふたりきりの旅行へ誘い、こう言ったという。
「僕はこれから一年間うんと働いて、金をこさえて、その後一年養生する。それからほんとの結婚をしよう」
ふたりは、生活をともにするようになった。事実上の夫婦になった。でもやはり駄目だった。はな子は或る日、寛のところへ来て、
「もう、無理です」
泣きだしたのである。あんまり小言がやかましく、或る日など、やかんの湯の沸く音がうるさいと言い出して、そのやかんを投げつけたという。
香西織恵のときとおなじだった。いや、いっそう情況は、
(悪いな)
その日はどうにかはな子をなだめすかして直木のもとへ帰らせたが、数日後また来て、こんなことを訴えた。
「あの人とふたりで海を見ていたら、沖に船が泊まったんです。そうしたらとつぜん怒りだして。私に『あの船を動かせ!』って」
寛は、
(いよいよか)
暗然とした。直木自身、もはや何を言っているのかわからないのではないか。
「これはもう、入院だね」
と、はな子へ言った。もっとも寛はつづけて、
「どう言えば、聞き分けるかな」
ため息をついた。それまでも入院を勧めたことはある。費用はいっさい文藝春秋社で持つとも言ったのだが、直木はそのたび、
「いそがしい」
と言って、それきり無口になってしまうのだった。
だが今回は、事情がちがうようだった。はな子から沖の船の話を聞いた数日後、こんどは直木が社に来て、
「入院するよ」
寛はつとめて表情を変えず、
「そうか」
「君だけじゃない。各社の連中もうるさいんだ。嫌になっちまう」
「はな子さんもか」
「ああ」
「そうか」
各社うんぬんも事実だろうが、それよりも、直木はもうよほど痛みが耐えがたいのだろう。寛は、
「入院したら、書くのはよせよ。退院したらまた書けばいい」
直木は素直に、
「うん。そうする」
入院先は、東京帝国大学医学部附属医院。整形外科の病棟だった。
医師の診断は、脊椎(せきつい)カリエスだった。肺に生じた結核菌の病巣が血管を通じて脊椎へまわり、いわば背骨を腐らせる。
だが診断は、これだけではなかった。入院から五日後には、
――脳膜炎の可能性あり。
ということで内科病棟へ移された。寛が察したとおりだった。はな子へ沖の船を動かせと言ったのは、痛みの故のやつあたりというより、何か幻覚を見ていたのだ。脳膜炎は脳および脊髄をつつむ膜に病原体が入りこむことで引き起こされ、高熱や意識障害等をもたらす。菌はもう作家の頭脳まで侵していた。
ベッドの上で、直木は毎日、頭痛を訴えた。
右へ左へと寝返りを打って、シーツをぎゅっと握りしめ、
「痛い。痛い」
どなりちらして、看護婦をののしった。
鎮静剤の注射を要求した。腰が痛いと言うときもあり、背中が痛いと言うときもあったが、どこでも激痛であることは変わらなかった。
鎮静剤は、一日に何本も打たれた。はじめは打つたび五、六時間ほども眠ったもので、周囲の者はほっとしたが、その時間もだんだん短くなった。体が薬に慣れたのだろう。食事はほとんど口にしなかった。栄養はもっぱら葡萄糖(ぶどうとう)の点滴で摂取した。
病状は、もはや国民的な関心事になっていた。
何しろ当代一の人気作家のそれである。新聞やラジオは連日それを報道した。きょうの体温、きょうの容態、きょうの言動……病院には記者たちが押しかけて来た。はな子や看護婦は対応できない。ほかの患者にも迷惑がかかる。寛はそこで病院側へ、
「となりの病室を、借り切ることはできませんかね」
と提案して、了解を得た。
ベッドを運び出し、かわりに椅子やテーブルやソファを持ちこんで、いわば文藝春秋社の出張所とした。社員はここに交代で詰めて、直木の世話をしたり、取材者に対する受付の仕事をしたりするのである。
他社の編集者や記者も、出入り自由とした。こうなったら全出版界、全新聞界をあげて、
(面倒を、見てやる)
そんな気だった。
入院から九日後の晩。寛はその控室のソファに腰をおろし、夕刊を読んでいた。
ほかには二、三人の若い編集者がいた。今夜はもう取材記者は来ないだろう。と、廊下から、
「菊池さん。菊池さん」
ささやく声がある。寛は顔をあげて、
「何だい。菅君」
ドアが、少しあいている。その隙間でこっちを見ているのは「文藝春秋」編集長・菅忠雄の片目だった。この夜は、彼が病室当番なのである。
「菊池さん。その……おかしいんです」
「おかしい? 何が」
「直木さんが。もう六時間も眠ったままで」
「結構じゃないか」
「最近は、鎮静剤はせいぜい二、三時間しか効いてないでしょう。大丈夫ですかね」
不安そうな声だった。目の前で容態が急変してほしくないというのは、看病する者には共通の心理である。寛はさして考えもせず、
「大丈夫だろう」
と答えてから、ふと思いついて、
「それじゃあ、ちょっと休まんか」
「えっ?」
「僕が病室へ行く。直木とふたりっきりにしてくれ。君はそのあいだ、これでも」
と、読んでいた夕刊をばさりと折って立ちあがり、ドアをあけて、菅の胸へ押しつけた。菅は夕刊を手に取ると、
「ええ、そりゃあ」
少し軽い足どりで控室に入った。寛は病室へ足をふみいれる。
うしろ手に、ドアを閉める。
窓はカーテンで覆われていて、電灯もあまり明るくない。寛は目を細めた。直木の痩身がながながとベッドにあおむけになっている。
体の上に毛布をかけ、ひからびた両腕だけを出して、すうすう息を立てている。安らかな寝息だった。寛はそっと近づいて、直木の顔を見おろした。左右の眼窩(がんか)ががっくりと落ちくぼんでいて、そのなかで、瞼(まぶた)が山のようになっていた。
頬は、無精ひげが伸び放題だった。唇はぴったりと閉じられていたが、意外に色がよく、ただし無数のしわが寄っている。寛は椅子を引いて来て、ベッドの横にすわり、
「直木」
声をかけた。
直木は、返事しない。無口のせいではない。寛はうつむいて、
「すまない」
「………」
「ほんとうにすまなかった。僕は、その……あんまり君を酷使してしまった」
あとはもう、ことばにならなかった。胸のなかで話をつづけた。直木。直木。言い訳するつもりはないが、僕はたぶん、君が一人前になったのがうれしすぎたんだ。
ただ不安でもあった。何ぶん君は金づかいが荒い。生活もめちゃくちゃだし、人に迷惑をかけることを何とも思わないところがある。それでなくては作家というのは偉大な作品は書けんのだと君は豪語していたけれども、読者は気まぐれだ。いくらでも流行の風に流される。もし人気がなくなったらどうなるのだ?
知れている。君はたちまち暇になる。その暇を埋めるべくどうせまた自分で雑誌を創刊するに決まってる。そうなったら借金地獄へ逆落(さかお)としだ。
僕の不安は、つまりそこにあったんだ。僕はつねに自分へ言い聞かせたものだ。蚕(かいこ)に桑の葉を食わせるように、馬に飼い葉を食わせるように、直木三十五には小説の仕事を食わせなければならんとな。だから毎月のように注文した。他社の仕事も山ほどあると知りながらだ。
いや、もうひとつある。僕は大きな誤りを犯していた。僕はこれまで、何としても、君の体は頑丈なのだと思いこんでいたのだ。ちょっとやそっとじゃ壊れやせんとな。
何しろ君は健脚だった。おぼえているか。まだ僕たちが若かったころ、講演旅行に出かけたとき、君は早朝の京都でえらく僕たちを歩かせたじゃないか。
そうだ、たかだか一椀のふろふき大根のためにだ。いやもう、まことに、あれは人生最悪の日だったなあ。それにしても君はあのとき足が速かったし、また疲れを知らなかった。きっとあの第一印象が頭に残ってしまったのだろう。君なら大丈夫、どこへ置いても大丈夫と……。
「すまない」
寛は、顔をあげた。
直木の顔を見た。さっきと変わらない。ぴくりともしない。ただただ静かな病室の空気のなかへ、規則的な、平和な鼻息がほのかに溶けて行くだけ。まるで子供が寝ているようだと寛は思った。
「………」
眠り顔を、見まもりつづけた。
†
五日後は、昭和九年(一九三四)二月二十三日。死の前日である。その晩、直木はとつぜん立ちあがった。
病室の当番は、またしても菅忠雄だった。寛はその場にいなかったので、あとで順を追って聞いたところでは、菅は社で急ぎの仕事をして来たのだという。
だから、ひどく疲れていた。前の番の者と交代して、椅子にすわった。直木はおだやかに眠っていた。菅はそれで安心して、うつらうつらしたのである。
夜半、ガタリと音がした。
菅は目をさました。長い影が視界に入った。見あげると、うすぐらい電灯の下、直木がすっくと立っていた。小学生が定規(じょうぎ)で引いた線のように細い体が、ベッドの向こうを、出口のほうへ歩きだしている。
その横顔は、鬼気にみちていた。頭蓋骨へ直接埋めこんだような眼球がくわっと前を向いている。口は大きくあいていて、耳のあたりまで歯が見える。
歩きながら、右手をかざした。
その手はペンを持つかたちになっていた。こまかく動きつつ上から下へ。また上へ戻って下のほうへ。
(書いてる)
菅は、背すじが凍った。大声で、
「池島(いけじま)! 池島!」
控室には、池島信平(しんぺい)という新入社員がいるはずだった。帝大出だが若いから力はあるだろう。池島はドアをあけて入って来るや、
「あっ!」
ふたりは前後から直木へ抱きついた。菅がうしろ、池島が前。創刊以来の同志と最若年者。いっしょに抱き上げてベッドへ戻そうとしたのだが、直木の歩みは力強く、ふたりにはそれを止めることができなかった。
直木の口は、どんなことばも発しなかった。意識もないのだろう。物音におどろいて看護婦たちが来て、ぜんぶで四、五人で、棒を倒すようにしてベッドの上にあおむきにした。
直木は、おとなしくなった。食い入るように天井を見つつ、その右手はなお空をさまよっていたという。享年四十四。あの新聞小説『南国太平記』で流行作家となってから、わずか三年後のことだった。
†
翌年、寛は「文藝春秋」誌上で、ふたつの文学賞の新設を発表した。芥川龍之介賞と直木三十五賞である。
それらを、誰にあたえるべきか。寛は当初、
(老大家に)
そのことも考えた。そのほうが賞そのものは重みを以て世間にむかえられるだろう。
だが結局、逆にした。芥川賞は一般文芸、直木賞は大衆文芸、それぞれの分野で最も優秀なものを書いた「無名もしくは新進作家」にあたえることとする。
なぜそうしたのか。会社経営や雑誌編集の面でのいろいろな配慮があったことはむろんだけれど、心理的というか、感情的な理由は自分でもわからない。
ちょっと分析できない。けれども、
(ひょっとしたら)
と、寛は、のちに思ったりした。
ひょっとしたら自分は、賞に託して、ひとつの夢を見ているのかもしれない。
時間の復讐とでもいおうか。受賞者がもしも二十年、三十年と活躍すれば、そう、そのぶんだけ、あまりにも命みじかくして死んでしまった畏友(いゆう)ふたりの魂への埋め合わせができる。罪ほろぼしになる。そんな感傷的な夢を。
そのためには受賞者はもちろん、賞そのものも、
「長生き、だな」
そう自分へつぶやいたとき、寛の人生に、またひとつ新しい目標が誕生した。

