美智子さまの嫁入りは「さんざんご辞退申し上げたんですが…」 「上皇后陛下」実父が語っていた「世紀のご成婚」への“本音” 「最後は当人同士が電話で話して…」 【結婚の儀から67年】
4月10日は、上皇陛下(92)と上皇后陛下(91)のご成婚の日。それから67年の歳月が流れたことになる。美智子さまは、長い皇室の歴史の中でも初めて民間から嫁がれた皇太子妃。ご成婚後、皇室の中でさまざまな軋轢が生じたのは周知の通りだ。「週刊新潮」ではご成婚23年が過ぎた昭和57年(1982年)、それまで美智子さまとご実家・正田家が直面してきた苦難について振り返っている。【前編】では、美智子さまが皇室に入られて以後、ご実家の正田家に、20年間でわずか5回ほどしか里帰りがかなわなかったことや、その背景にある宮内庁の対応の問題点について考察した。【後編】では、美智子さまに対し、宮内庁が行った“干渉”について、さらに深掘りする。

【前後編の後編】
(「週刊新潮」1982年9月2日号記事を一部編集の上、再録しました。当時の記事のため、記事中の敬称は昭和のものです。文中の「皇太子」は現・上皇陛下のことを指します)
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【写真】「美しすぎる」のひと言…昭和30年代「ミッチーブーム」を呼んだ頃の美智子さま
正田家が予測し得なかったもの
浜尾氏によれば、美智子妃の里帰りがなかなかかなわなかったことも、
「原因は同じところ(=宮内庁)にある」
ことになる。
「ご成婚後まもなくは、年に一度ずつぐらい帰っておられたのが、だんだん間遠くなりましたでしょう。原因はハッキリしています。何しろ、妃殿下(=美智子さま)という方は、私ども侍従にモノを頼む時でさえ、必ず“おヒマだったら”とか“お仕事がなかったら”といった言葉をお入れになる。そのたび、私どもは、そんな神経を使われずともと思ったほど、細かい配慮をなさる。そういう方だけに、宮内庁がご自分の里帰りにいい顔をしなければ、皇太子さまに何かご迷惑がかかるんじゃないかと思われたに違いない。そして、宮内庁が妃殿下の里帰りにいい顔をしなかったのは、やっぱり、前例がなかったからなんです。昔の妃殿下方は、お小さい時に親元を離れる習慣があり、お里帰りにそれほどの意味がなかっただけのことですのにね」
で、浜尾氏は、
「正田家が予測し得なかった最大のものは、宮内庁がこれだけ干渉してくるとは思わなかったということではないか」
というのである。
遠慮する母
そういえば――こういう話がある。語るのは、あるベテランの皇室記者氏だ。
「美智子妃の妹の恵美子さんがまだ学生でいらしたころのことですがね。繊維関係の業界誌に、恵美子さんの名前である投書が載ったことがある。実は、その投書は誰かが恵美子さんの名前を騙って出したものだったんですが、これを一番先に問題にしたのが宮内庁だったといわれているんです」
浜尾氏は、
「宮内庁の干渉の仕方は、決して直接話法ではやらない。やるなとかやりすぎだとはいわないのです。私も、浩宮さまに関するマスコミとの応対について、当時、同じ経験をさせられましてね。間接話法でジワジワやられた。あのやり方に正田家の方方が付き合わされていると思うと、お気の毒さは言いようがありません」
富美子夫人(=美智子さまの母)が、神経性の慢性胃炎に悩んでいるのも、無理からぬというわけなのである。
「正田夫妻は、東宮のお孫さまたちをしみじみとお抱きになったことが一度もないのではないか。御所に来られるのも、皆様のお誕生日とお正月だけ。あとは富美子夫人が時折、電話をかけてこられるぐらいのものですものねえ。それほど遠慮されているんですよ」(浜尾氏)
一番心配したことは
さて、当の正田家は何というか。そろそろ、(美智子さまの父である)英三郎氏(79=当時)にご登場願わねばなるまい。
建築後50年たつという東京・池田山の正田邸には、冷房の設備がない。謹直な背広にネクタイ姿の英三郎氏は、ウチワでわずかな涼を取りながら、あくまでもニコヤカに語る。
「美智子が嫁いで、23年ですか。もうそんなになりますかねえ。あれ以来、正田家がどう変わったか。変わったところがないといえば嘘でしょうね。現象的に変わったのは、いうまでもなく、正月や両陛下のお誕生日に宮中へお招きを受けるようになったこと。それと、外国の大使館とのお付き合いね。大使主催のパーティーなどによく呼ばれるんですよ。お返しというのではないが、こちらも逆にお呼びしたり……」
英三郎氏は、慎重に言葉を選び、グチめいた言葉は決して口にしない。宮内庁についても、
「長官をはじめ、いい方が側近におられるし、安心しているんですよ。美智子がヤセてるヤセてると、世間でよくいわれるんですが、日本人は人の体のことを気にし過ぎるのね」
そういいながら、英三郎氏は、こんな打ち明け話をする。
「この23年間で、いちばん心配したのは、浩宮様(現・天皇陛下)が生まれたあと、美智子の具合が悪い時がありましたよね。あの時は、私も葉山に行き、リラックスさせるために一緒に絵をかいたりしました。家内も毎日付き添うわけにいかんし、ああいう時は心配で辛いところがありました」
昭和38年、美智子妃が妊娠の不調で、葉山で長期療養され、巷間、ノイローゼではないかと噂された時期の話である……。
礼宮さまの一言
で、夫妻にとって、一年のうちで最も楽しい時は夏休みの軽井沢なのだそうだ。この時ばかりは宮内庁の干渉から逃れられるというわけなのか。ともあれ、英三郎氏の声は、お孫さんたちについて語る時、ひときわ弾む。
「世間の並からいうと、たしかにふだん自由に孫には会えない。が、その辺の気持はいいにくいし、難しい。でも、夏には会えるんですよ、軽井沢でね。あちらはプリンスホテル、私らは南ヶ丘の別荘。クルマで十分ほどの距離ですから、あちらからお招きも受けるし、来られもする。この時がいちばん水入らずになれる時だなあ。私どものことは、普通に、おじいさま、おばあさまと呼んでくれます。私の喜びは、あちらのお三人がそれぞれ立派になっていく。それが最高の喜びですね。礼宮さま(現・秋篠宮殿下)はユーモアに富んでいて、テニスもうまい。いつだったか、用賀にあるウチの会社のテニスコートにご家族を連れ出したら、ブレーしている私を見て、一言、“見事なフットワークだ”――あれには参った」
しかし、英三郎氏は、美智子妃のご婚約当時を振り返り、いま改めてこう語る。
「私ども、もうさんざん、ご辞退申し上げたんですよ。それが最後は、ホラ、当人同士が電話で話して、決めちゃったわけ。しようがないよねえ。もしも、あの時、娘が皇太子妃になっていなかったら……。いまさらいったって始まらないから、考えたこともありませんがね」
そして、ポツンとこう付け加えた。
「心労は、でも、家内にはいろいろあるだろうと思います。私自身は、とくに変わっちゃいませんけどねえ」
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この記事が掲載(1982年)された6年後に、富美子さんは78歳で死去。1999年には、英三郎氏も95歳で亡くなっている。終生、昭和天皇との会食の機会には恵まれないままだった。
この記事から40年余り。美智子さまは、皇后ご在位時代に「平成流」の新たな象徴のあり方を貫かれ、“干渉”を受けるどころか、宮内庁を逆に掌握されたように思われる。世紀のご成婚から67年。改めて過ぎ去った歳月の長さを感じるのである。
【前編】では、美智子さまが皇室に入られて以後、ご実家に20年間でわずか5回ほどしか里帰りがかなわなかったことや、その背景にある宮内庁の対応の問題点について考察している。
デイリー新潮編集部
