「まさに地獄」最前線で命と向き合った警察官らのあの日…「おじいさんか、女子中学生か」助ける人を選ばなければならない葛藤。宮城県内では14人が殉職 東日本大震災

日常を一変させた未曾有の大災害。混乱の中、最前線で人命救助にあたった警察官たち…。住民の避難誘導中に殉職した警察官、宮城県警トップとして陣頭指揮を執った者、あの日の判断を自問自答する者、多くの遺体と向き合い、次の災害への備えを問う者。
東日本大震災から15年。あの日、震災とどう向き合ったのか。警察官の「3.11」を追った。
■「まさに地獄」錯綜する情報と県警トップの苦悩

「目の前に住民が残っている限り、逃げることはなかった。本部長として誇りに思うが、全国の警察の後輩には、管理者はそういうことではいけないと話をしている」そう語るのは、東日本大震災当時の宮城県警本部長・竹内直人氏。あの日の記憶と教訓を伝えている。
「幸か不幸か、あの時の宮城県警本部長は私しかいないので、還元というのもおこがましいが、自分にやれることがもうちょっとあるかもしれない」(竹内氏、以下同)
戦後最大の自然災害に直面し、あの時何を思ったのか…。2011年3月11日午後2時46分、竹内氏がいた県警の庁舎も激しい揺れに襲われた。午後2時49分、「大津波警報」発令。午後3時15分ごろ、気仙沼市に津波が到達した。
午後3時半、県庁で1回目の災害対策本部会議が開かれた。県警のトップとして、陣頭指揮を執った竹内氏。
「『何時何分に大きな波が来た』『南三陸署の3階まで水没した』そういう話は次から次に入ってくる。一番印象的だったのは、気仙沼市が火の海になった。油のタンクが津波でやられて、そこに火がついて、鹿折地区だが、紅蓮の炎で燃えている。そういう映像を見ると本当に言葉もない、まさにこれは地獄」
県警には通報が相次ぎ、現場の警察官からの無線情報も錯綜した。当時の様子が、会議の議事録から見えてくる。「確認が追いつかない状況」「警察無線もなかなか通じないので詳細不明」「溺死体が200から300、詳細確認中」。
「混沌としている、断片的な話しかない。『これ本当か』と聞いたら『現場の警察官からの連絡』という触れ込みだった。誤報だったのだが…」
警察署も被災し、現場が混乱を極める中、徐々に被害が明らかになる。多くの犠牲者が想定される中、自らの手帳にこう書き残した。「1万人地獄 これから本番 現場はもっと辛い」。
竹内氏は地震から3週間後、石巻市を視察。「西側の所から約20メートルの水面に浮かんでたのを自衛隊の方々が発見してきた」「だいぶ水が引いてきたので、ご遺体は既に収容して」と報告を受ける。この日、行方不明になっていた警察官が遺体で見つかった。
県内では、14人の警察官が避難誘導中に津波に巻き込まれるなどして殉職した。このうち2人が行方不明のままだった。
「あなた方は警察官として治安維持という崇高な責務を有する一方で、それぞれに愛し守るべき家族があり、将来の夢や希望があったもの存じます。それらのすべてを残し、人生の半ばにしてこの世を去らねばならなくなったあなた方の無念さを思う時、また、かけがえのないあなた方を突然失ったご遺族の皆様方のご心痛を思う時、胸が張り裂けんばかりの悔しさがこみ上げてまいります」(竹内氏の弔辞)
2011年5月、臨時警察署長会議が開かれ、黙祷が捧げられた。竹内氏が呼びかける。「(行方不明者が)簡単に見つからなくなっている今、これからがまさに正念場。県警察としては、とにかく徹底的に捜す。捜しつくしたと言えるまで捜す」。
■「なぜもっと早く“退避しろ”と言えなかったのか」苦渋の決断

当時、気仙沼警察署の署長だった佐藤宏樹氏は、駐在所に勤務していた2人の部下を失った。あの日、署員に住民への避難誘導をした後、高台に逃げるよう指示した。
「『ご遺体発見』の第1報で目の前が真っ白になり、なぜこんなことになったのかということで胸がいっぱいになってしまった。優秀な戦友を2人も失ってしまったことに関しては、今でも悲しみが癒えることはない。なぜもっと早く『退避しろ』と言えなかったのか」
仲間を失った深い悲しみ。あの日、佐藤氏には署長としての苦渋の決断があった。
「この辺がちょうど(気仙沼警察署)旧庁舎の正面出入口だった。津波火災がすぐそこまで及んでいた。そこに大川という大きな川があるが、その川を挟んで向こう側は全部、津波火災で焼失してしまっていた」(佐藤氏、以下同)
警察署は、市街地を流れる「大川」から300メートルほどの場所にあった。津波で、拳銃や無線機が流出するのを恐れた佐藤氏。署員9人に対し、「決死隊」として重要装備品を庁舎の3階に運ぶよう指示した。
迫り来る津波と火災。決死隊は逃げ遅れた住民およそ20人を救助し、3階へ。幸いにも津波は庁舎1階の天井付近で止まった。もし津波が3階を越えていたら、署員は全滅していたかもしれない。
「その指示が正しかったのかは、今でも悩みに悩んでいて。13年経った今でも、夢にまで出てきて大汗をかいている。ベストな判断が難しかった。だけど、ベターな判断にしようと言い聞かせて、よりまともなものは何なのか、よりましなものは何なのかを考えながら指揮・指導をしていた」
■「おじいさんか、女子中学生か」助ける人を選ばなければならない葛藤

沿岸部では、懸命な救助活動が行われていた。県警機動隊の特別救助班長だった永野裕二氏は「向こう端に要救助者がいっぱいしゃがみ込んで、シートを被ってしゃがんでいたのは覚えている」と振り返る。当時、ヘリコプターで孤立した人の救助にあたった。
「暗くなってしまって、もう限界だとヘリコプターの方からも聞いて、最後の1人、この人しか上げられないという時に、何でここに残らなかったのかと思った。私がヘリコプターに戻る分、もう1人上げられたかもしれない」(永野氏、以下同)
永野氏には、当時の活動で忘れられない現場がある。「横断歩道橋も取り払われた。操縦が厳しいのを知っていたから、なるべく早く早くという気持ちで活動にあたった」。
午後5時45分ごろ、日没を迎え、ヘリの活動が限界に近付く中、歩道橋でおよそ50人の要救助者を発見した。歩道橋の下は水とがれきに覆われ、火災が発生していた。ずぶ濡れの女性や赤ちゃんなど4人をつり上げ、救助できるのはあと1人だけだった。
「白いカーディガンを着た女子中学生を上げようとした。歩道橋の端からおじいさんが出されて、『おじいさんを助けてください』と。おじいさんを助けたら良いのか、このまま女子中学生を上げたら良いのか、迷っていた。すると女子中学生が『私は後で良いです』と言ってくれた。それをきっかけにおじいさんに救助道具をかけ直して引き上げた」
助ける人を選ばなければならない、葛藤。その後、歩道橋に取り残されていた人たちは水かさが下がった夜、地元の消防などに救助されたという。地震発生から11日間、全国からの応援を含めた警察のヘリで262人を救助した。
「自分が救助したのは、自分で救助要請ができた方、自分たちのヘリコプターに手を振ることができた方。それ以外にも手を振れなかった方、救助要請もできなかった方がたくさんいる。その人たちに気付かずにヘリコプターで飛び越えてしまった。何で気付かなかったのか。後悔ではないが、自分たちの力が足りなかったのではないか」
■「後ろに1000体待っています」限界を超えた検視現場

時間の経過とともに、警察活動は救助から捜索に変わっていった。増え続ける犠牲者。新たな問題に直面していた。
2011年3月20日。災害対策本部で宮城県警本部長の竹内氏は、利府町にある県総合体育館を遺体安置所として使用することを知事に要請した。
「ご遺体の収容等の状況ですが、お手元のペーパーにございますように、昨日午後9時段階で4882人。1万5000人分以上は保管できる能力が必要ではないかと考えております」
体育館には連日、多くの遺体が運ばれてきた。
捜査一課長だった阿部英明氏は当時、検視業務を指揮していた。異動の内示を受け、あの日はデスクの整理をしていた。3月11日が一課長として最後の日になるはずだった。「一瞬、『背負っちまったかな…』という気持ちはあった。正直なところ」(阿部氏、以下同)
阿部氏はすぐに、13人1組の検視班を13班編成。全国から応援で集まった警察官も加わり、最大700人以上が検視にあたった。
「検視している場所に自分の母親が運ばれてきた、そういう捜査員もいた。当時、現場は無我夢中でやっていたと思う。もう休む暇もなく、次から次という感じで」
県内で、最大26カ所に及んだ遺体安置所。地震から1カ月でおよそ8000人が運び込まれた。
「開始して3〜4日後くらいに責任者に『進捗状況どうだ』と聞いたら、『目一杯頑張っていますけど、後ろに1000体待っています』という言葉がいまだに記憶として残っている」
現場では、遺体を収納する袋などの資機材や死因を特定する医師、歯の記録で身元を確認する歯科医師が不足していた。自治体との連携にも課題が…。遺体安置所を事前に確保することや身元確認や引き渡し業務について、平常時から協議することが大切だと話す。
「南海トラフ地震は東日本大震災に比べたら、とんでもなく大きい被害になる。対応できるのかどうかという疑問さえ出てくる」
2024年7月、竹内氏ら警察OBはNPO法人「災害時警友活動支援ネットワーク」を設立した。大規模な災害が発生した時に、震災を経験した警察OBを現地に派遣し、支援する方法を模索している。
「命よりも大切なものはありません。警察官といえども殉職者を出してはならないことが最も重要で悲しい第一の教訓でした」(佐藤氏)
「知らないことは想像できない、知識がないことについては想像力が及ばない。『そんなことまで起こるの』というのを頭の片隅に置いていただくと、それをもとに想像を広げて準備することができる」(竹内氏)
東日本大震災から15年。命の最前線で活動した警察官たち。教訓をつなぎ、次の災害と向き合う力に──。
(東日本放送制作 テレメンタリー『“3.11”を忘れない94 警察官の3.11』より)
