『鬼滅の刃』遊郭編はなぜ悲しく儚いのか 妓夫太郎&堕姫兄妹が際立たせた“鬼側”のドラマ
『鬼滅の刃』は主人公・炭治郎が鬼になってしまった妹・禰󠄀豆子を人に戻すため、鬼殺隊として成長していく姿を描いた物語である。『週刊少年ジャンプ』(集英社)の“王道”たる「友情・努力・勝利」がふんだんに溢れるアツいバトルマンガであり、現代のマンガとしては1、2を争う知名度を誇る人気作といえるだろう。そして、そんな人気の背景には、たんなるアツいバトルマンガにとどまらない“ある要素”が関係している。『鬼滅の刃』の大きな特徴であり、魅力となっている、その要素とは「鬼側のドラマ」にある。
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そもそも『鬼滅の刃』における鬼とは、元々は人間であること、主食が人間であること、太陽の光を浴びると消滅してしまうなどの共通項はありながらも、禰󠄀豆子や、珠代、愈史郎など例外となる鬼も多数存在しており、鬼の明確なメカニズム自体は未だに謎を残している部分も多い。特に「人の記憶」の残り方は今のところ鬼によって様々だというほかない。
これまでに炭治郎が敵対した鬼の中で最初に「人の記憶」を垣間見せた鬼は、「立志編」の第4話「最終選別」で現れた鬼・手鬼である。手鬼は、消滅の間際に自身の兄との記憶に揺れ、炭治郎の慈しみによって兄と共にこの世を去るという姿が描かれた。また、「立志編」の第11話「堤の屋敷」では、物書きとしての過去を持つ鬼・響凱が、第21話「隊律違反」では、人としての最後の記憶を埋め合わせるように鬼たちと家族を作る鬼・累が登場し、彼が人であった頃の過去が描かれる。
このように『鬼滅の刃』では、鬼たちの「人の記憶」や人の頃の後悔、鬼になってしまった、もしくは、ならざるを得なかった経緯などがしっかりと描写される。実際に過去の記憶などが全く描かれていない鬼も存在してはいるが、こうした鬼の回想が全編を通してところどころに配置されていることで『鬼滅の刃』は単なる勧善懲悪にとどまらない深い余韻を伴ってストーリーが進行していく。
そんな中でも「鬼側のドラマ」がとりわけ大きな輝きと存在感を放っている一編が「遊郭編」である。上弦の陸・妓夫太郎と堕姫の兄妹が敵として立ちはだかり、ラストには彼らの壮絶な過去をもって締め括られる「遊郭編」では、生まれた環境というテーマがさまざまな形で描かれている。例えば宇髄天元の場合には、忍の家系に生まれ厳しい訓練と数々の姉弟の死を経て、父への反骨心を抱いたまま成長した過去と、彼が鬼殺隊の「お館様」こと産屋敷と出会ったことで幼少期からの価値観を克服し、3人の妻と新たな家族を作っている現在が描写されている。
また、妓夫太郎と堕姫の兄妹と、炭治郎と禰󠄀豆子の兄妹についても触れないわけにはいかないだろう。炭治郎本人も「その境遇はいつだっていつか自分自身がそうなっていたかもしれない状況」であり、炭治郎と禰󠄀豆子が2人とも鬼になっていた未来があったかもしれないと語るように、確かに、両兄妹は「遊郭編」時点で2人きりの家族で支え合っており、その点は同じ境遇にあると言えるだろう。しかし、それぞれの過去と、生まれた環境は全くもって違うものである。
なぜならば、元々たくさんの家族に囲まれて育ってきた炭治郎と禰󠄀豆子は、これまでにも温かい家族の記憶に何度も命を救われてきており、「遊郭編」の第6話「重なる記憶」でも家族との思い出の子守唄が物語の鍵を握ることとなる。一方で、妓夫太郎と堕姫は、幼い頃から本当に2人きりで生きていくしかなかった状況にあり、実際にあの境遇に生まれて生きていくしかない人がいたとして、果たして「鬼にならない」という選択を取れるものだろうか。そう思ってしまうほど、暗く過酷な過去を持つからだ。
このように「遊郭編」では、上弦の鬼と柱による死闘を通して、宇髄も炭治郎も「家族の力」でピンチを潜り抜けるという描写が積み重ねられた上で、最後に妓夫太郎たちの過去が描かれるという構成により、辛く苦しい彼らの孤独と悲壮感を抱える「鬼側のドラマ」が一層際立つ展開となっているのだ。そして、そんな2人きりの兄妹の過去と、何度生まれ変わっても同じだという彼らの絆を、炭治郎たちはもちろん、慮ることはできれど、妓夫太郎たちの2人以外の何者にも知る由はない。その事実により鬼であることの罪と罰を残すバランスも併せて、「遊郭編」は悲しく儚いながらも素晴らしい落とし所と結末をもって描かれていると言えるだろう。
最後に、「遊郭編」について、今更何かをぶり返すつもりも毛頭ないのだが、『鬼滅の刃』が子供にも大人気であるが故に「遊郭」という場所の設定に対する物議があった。そうした意見が出たことにも頷けるのだが、やはり歴史として「遊郭」は存在し、そんな「遊郭」を舞台としたからこそ、このように社会と人間と世間が誰かを鬼にしてしまうきっかけを作った、もしくは、作ってしまうかもしれないという想像力の重要性は意味を強めたといえる。それは、大人にとっても、子供にとっても『鬼滅の刃』の「遊郭編」を通して感じられる大切なことなのではないだろうか。
このように、『鬼滅の刃』の中でも、鬼側が残す人間性とドラマが特に際立っている「遊郭編」が存在することによってまた、今後の一面的ではない鬼と人の対立という構図にさらなる厚みが加わった。改めて、鬼と人を超えた圧倒的な巨悪・鬼舞辻無惨に立ち向かうこれからの炭治郎たちの勇姿や覚悟からますます目が離せない。
※竈門禰豆子の「禰」は「ネ」に「爾」が正式表記。(文=矢吹=幹太)

