五十嵐淳子さんと中村雅俊

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【全2回(前編/後編)の後編】

 ひとはみな一人では生きてゆけないものだから――。中村雅俊(75)が1974年に発表したデビュー曲「ふれあい」の一節である。4月28日に急逝した女優・五十嵐淳子さんと中村は無類の“おしどり夫婦”として知られてきた。秘話でつづる、二人が生きたヒストリー。

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 前編では、二人のなれ初めや、結婚式での秘話などについて紹介した。

 コロナ禍を境に、五十嵐さんにある変化が生じたと指摘するのが、東京・祖師ヶ谷大蔵駅前にあるお好み焼き店『剛毅』の店主である。

「雅俊さんはこの店がオープンした2009年からよくいらっしゃって、コンサートの打ち上げなどに使ってくれたこともあります。ただ、淳子さんといらっしゃるときは決まってお二人だけでした」

五十嵐淳子さんと中村雅俊

 気さくな中村は、

「お酒が入ると、隣のお客さんの料理を見て“それ、おいしいですよね”とよく話しかけるんです。お客さんに合わせて政治の話をすることも。だんだん冗舌になる雅俊さんの隣で淳子さんは“分かった、分かった”みたいな感じでやさしくたしなめていました」(同)

 店主の目には、中村が五十嵐さんの手のひらで転がされているように映った。

「注文するときは、いつも雅俊さんが淳子さんに“これ頼んでいいかな”とお伺いを立てていましたし、雅俊さんが追加しようとすると、淳子さんが“そんなに食べられないからやめなさいよ”と注意する。最後は、酔って顔の赤い雅俊さんに“はいはい、そろそろ帰りますよ”。雅俊さんはいつも淳子さんに従っていて、やりとりはまるで夫婦漫才みたいでしたよ」

 しばらくの間、夫妻はふた月に1度のペースで来店していたという。ところが、

「コロナ禍の後、お二人でいらっしゃるのは年に1度くらいのペースになりました。また、淳子さんはそれまで梅酒や白ワインを飲んでいたのに、最近はウーロン茶でした。1年半ぐらい前には、淳子さんの調子が悪くなったとも耳にしていました」(同)

「年齢と不相応なほど、お奇麗で」

 1975年のドラマ「俺たちの勲章」で企画を務めたドラマプロデューサーの岡田晋吉(ひろきち)氏は、新聞で五十嵐さんの訃報に接した。

「翌日、雅俊にお悔やみの電話をかけたところ、かなり憔悴(しょうすい)し切っている様子でした。困惑した口調でしきりに“大変です”と言っていて……。どちらかに先立たれた場合、残された側の生活設計などについて、まったく話し合われていなかったようで、それほど突然の不幸だったみたいです」

 岡田氏が最後に五十嵐さんと会ったのは2年前。

「私が家内を亡くしたのですが、そのことを中村夫妻には知らせなかった。ところが、二人は律儀にも弔問に訪れてくれました。五十嵐さんは、年齢と不相応なほど、お奇麗でいらした。私に“気を落とさずに”と言葉をかけてくれた思い出が脳裏をよぎります」

 岡田氏の自宅には、彼女の“形見”がある。

「毎年、私の誕生日にお花を贈ってくれたんです。1年前には観葉植物を頂きました。毎日水をやる手間がかからない品種で、今でも青々としています。結局、これが最後の贈り物になってしまいました」

“あの妻がいたら浮気はできないですよ”

 中村夫妻の結婚式で司会を務めたアナウンサーの徳光和夫氏はこう明かす。

「雅俊くんとは結婚式の後もたびたび番組で共演することがありました。昨年2月に『路線バスで寄り道の旅』に出てくれたときには、“徳光さん、僕ら結婚してもうすぐ50年になるんですよ。妻もよろしくって言っていました”と話してくれてね。僕が結婚式の司会をしたことを義理堅く覚えてくれていたんです」

 中村は徳光氏に、幾度も愛妻への気持ちを打ち明けていたという。

「ロケのとき、カメラが回っているかどうかもお構いなしに、彼はいつも“いやあ、僕にとっては最高の妻です”などと話してくれた。僕が“君はモテるから浮気の一つでも……”なんて言うと、“あの妻がいたら浮気はできないですよ”と答えていましたね」(同)

 さらに、

「一緒にお茶をしたときだったか、雅俊くんは僕に“かみさんには一日でも長生きしてもらって、俺はかみさんより一日でも早く逝きたい”ということを口にしていました。おしどり以上の夫婦だと感じましたね」(同)

 悲しみに出会うたびあの人を思い出す――。デビュー曲のフレーズが、今ほど切実に染みることはないだろう。

 前編では、二人のなれ初めや、結婚式での秘話などについて紹介している。

「週刊新潮」2026年5月21日号 掲載