【豊臣兄弟!】主人公なのに“不人気”な仲野太賀「秀長」 理由は残念なファンタジー役にある
小一郎の記事があまり読まれない理由
いよいよ藤吉郎(池松壮亮)と小一郎(仲野太賀)の兄弟が、大きくステップアップするようだ。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、第18回「羽柴兄弟!」(5月10日放送)で、この兄弟の立ち位置がかなり変わる。なにしろ、藤吉郎は城持ち大名になるのである。
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第17回「小谷落城」(5月3日放送)では、織田信長(小栗旬)が裏切られて3年余り、ようやく浅井家の本拠地である小谷城を落城させ、浅井長政(中島歩)を切腹に追い込んだ。その最大の功労者こそが木下藤吉郎秀吉だった。それまでの小競り合いや調略で存在感を示しただけでなく、小谷落城自体がほぼ秀吉の手柄だった。

ここから兄弟の出世物語も速度を増し、ワクワクさせられるはずなのに、なにか引っかかるものがある。ちなみに小一郎はこのころ、木下小一郎長秀と名乗っていた。秀長と名乗るのは、兄の秀吉が小牧・長久手合戦に勝って、名実ともに天下人になってからだが、記事では便宜上、秀長と呼ぶ。その秀長、主人公なのに、人気がいまひとつ高まらない。『豊臣兄弟!』で話題になるのは、信長や秀吉、その他の武将ばかりで、秀長のことを書いた記事はあまり読まれない、という話も聞く。
その理由は、戦国時代の現実とかけ離れたファンタジックな会話を、秀長が主人公だからと、一身に背負わされているからではないだろうか。それについては、追って詳しく述べるが、最初に秀吉と秀長の兄弟が、どうステップアップをするのかを見ておきたい。
天正元年(1573)8月29日、夜半に秀吉は3,000の兵を率いて、小谷城の山麓居館があった清水谷の奥の水の手口から、一挙に山上の京極丸に駆け上がり、攻め入った。そして長政の父で、ドラマでは榎木孝明が演じた久政がいる北部と、長政がいる南部に城を分断。双方が連絡を取り合えない状況をつくったうえで、まず久政を切腹させた。そのうえで翌日の9月1日、南部の本丸方面を攻めて、浅井家を滅亡させたのである。
その功を認められて、秀吉は浅井家の旧領である北近江(滋賀県北部)の3郡、12万石もの領地をあたえられた。そして、旧式の山城である小谷城を廃して、琵琶湖岸に長浜城を築いた。当時は今浜と呼ばれたその地は水陸交通の要地で、城下町を展開できる平地がふんだんにあった。そこを長浜と改称し、琵琶湖の湖水を堀に引き入れ、天守がそびえる城を築いた。だが、築城にはしばらく時間がかかったので、2年ほどは小谷城を使ったようだ。
同時に、秀長も秀吉の与力として、一定の領地をあたえられたと考えられている。
現代的なヒューマニズムを一身に
さて、秀長が背負わされている「戦国時代の現実とかけ離れたファンタジックな会話」とはどんなものか。たとえば、第16回「覚悟の比叡山」(4月26日放送)では、浅井方の武将、宮部継潤(ドンペイ)を織田方に寝返らせる交渉を秀吉とともに担い、継潤が寝返るにあたって要求したことを叶える困難に直面した。
継潤の要求とは、秀吉か秀長のどちらかの子供を人質に差し出してほしい、というものだったが、2人には子がいない。姉のとも(宮澤エマ)の子の万丸(のちの関白秀次)を差し出すほかなく、反対するともを必死に説き伏せた。そのとき秀長はともに、次のように熱く訴えた。
「わしらはもう百姓じゃない。侍なんじゃ。わしら家族は守られる側ではなく、守る側になった。一人でも多くの命が助かる道を選ばねばなりませぬ」
もちろん、現代の感覚に照らせば正論だ。実際、この時代の武将たちは、できるかぎり味方の損失を小さくしようとした。しかし、それは現代的な人命尊重のヒューマニズムに依拠した発想ではない。損失を小さくしなければ、配下の国衆や家臣の離反を招き、それが自分たちの存亡につながったからである。
ところが、『豊臣兄弟!』では、そういう際の判断の基準に、いちいち現代的なヒューマニズムを取り入れる。もっとも、現代人が視聴するドラマだから、ある程度は仕方ないと思うのだが、そういうセリフが秀長に集中しているのである。主人公を輝かせよう、という制作側の意図は感じるが、結果的に、小一郎のセリフばかりが、いつも安っぽくなってしまっている。
主人公なのに秀長の人気が盛り上がらない最大の理由は、そこにあるのではないだろうか。そうした安っぽさが次から次へと繰り出されたのが、第17回「小谷落城」(5月3日放送)だった。
究極の場面で語られるファンタジー
浅井久政が切腹したのち、秀吉と秀長は長政との和睦交渉と、信長の妹でもある長政の妻、市と3人の娘の救出を願い出た。そして、夫婦が2人で座っている場にこの兄弟が赴いたのだが、小一郎が長政に放ったセリフが、この時代の武将の考え方からは乖離したものだった。
秀長は「わが殿もおわかりでございます。浅井様の寝返りは、お市様をお守りするためだということを」と言った。長政が朝倉側についたのは、朝倉側の脅迫から市を守るための決断で、そのことを信長も知っている、というのだ。しかし、そのような情緒的な判断をすれば国衆や家臣たちの離反を招き、滅亡しても仕方ないのが戦国大名だった。
続いて、死を選ぼうとする長政に、秀長は次のように語って思いとどまらせようとした。
「人は放っておいても死にまする。どんなに偉い身分の者も、屈強な侍も、みんな死ぬ。寿命をまっとうできずに、病やケガで死ぬ者も大勢おりまする。なんでわざわざみずから死なねばならんのじゃ。侍の誇りがなんじゃ。そんなものは捨てて、生きたくても生きられないもののために生きてくだされ」
これも現代的には正論かもしれない。だが、長政は織田方にとって、3年余りにわたって多大な犠牲を払いながら追い詰めてきた宿敵で、ようやく討てるところに至ったのだ。しかも、そこにたどり着くまでに、秀長自身が多くの浅井方の武将や兵を殺している。そんな敵をいざ討てる状況になって、こんな青臭いファンタジックな考えが頭をもたげるなどありえない。
だが、そんな説得も空しく長政が死を選んでからのこと。長政がすでに腹に短刀を突きつけ、1人で苦しんでいるとき、秀長は市に向かって、以前に途中まで語った話の続きをはじめた。
「そこでその大男は、フーと息を吐いたかと思うと、湖の水をすべて飲み干してしまったのです」と語りはじめ、おおむね次のように話は展開した。大男はそうやって、溺れかけた娘を助けたが、じつは愛しているその娘を抱きしめようにも、腹が邪魔してかなわない。そこで大男は、自分で自分の腹に針を刺したが、すると鉄砲水のように水が噴き出し、空に昇っていった大男は、月となって娘を見守るようになった――。
仲野太賀のイメージに関わる
この大男の逸話が、いま死のうとしている長政の市への愛と重なる、ということらしい。しかし、まさにそんな話をしているとき、長政は腹に刀を刺してもだえ苦しんでいるのである。それなのに、秀長は涙を浮かべながらおとぎ話を語り、市はそれに心を打たれて涙するとは、なんという場面なのか。
切腹する者には介錯をするのが武士の流儀であり、介錯は苦しませないためのものであると同時に、武士の尊厳を守るためのものでもあった。
だが、こんなおとぎ話に小一郎や市が感動し合っている間に、長政は介錯をしてもらうこともできず、武士の尊厳を損ねつつ苦しみ続けたのである。最後は、市が長政の介錯をしたが(介錯とは難しく、少しぐらい訓練したところで、女性に簡単にできるようなことではなかった)、どう考えても、御託を並べる前に秀長が買って出るべきものだった。
ことほどさように秀長は、『豊臣兄弟!』のなかの、歴史的状況や当時のものの考え方を無視した、現代的ヒューマニズムにもとづいたセリフを、主人公として一身に背負わされている。それが筆者の見るかぎり、常に上滑りしており、少なくとも筆者は、『豊臣兄弟!』を見ていて、信長や秀吉、そのほかの武将の行動や発言には納得することがあっても、秀長には違和感ばかりを覚える。
そして、おそらく多くの読者が、筆者と同様の感慨を、意識の有無はともかくとして、いだいているのではないだろうか。だから、秀長の人気が出ないのではないだろうか。
秀長はのちに、羽柴政権の「かすがい」のように、多くの大名たちの信頼を勝ち取って政権につなぎ止める役割を果たしたが、それはもっと実質的な交渉に長けていたからで、こんな空疎な言葉を吐いていたからではあるまい。青臭いヒューマニズムから早く解放してあげないと、仲野太賀という俳優のイメージまで低下しそうで心配になる。
香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。
デイリー新潮編集部
