今年11月、ビーチサッカーのワールドカップがパラグアイにて開催される。日本代表はこれまで全9大会に出場し、最高成績は2005年大会の4位。前回の2017年大会は、グループステージ敗退に終わっている。

 10回目の出場権を獲得すべく、サムライたちはアジア予選の行なわれるタイへと旅立った。その日本代表のなかに、ブラジルからやってきたビーチサッカー界のスターがいる。ビーチサッカーの盛んなブラジルを離れ、なぜ彼は日本にやってきたのか――。


ビーチサッカーの日本代表としてW杯に過去3度出場している茂怜羅オズ

 ワールドカップに3度出場し、バルセロナで世界一の称号も手にした(※)。世界の年間ベストプレーヤーのひとりに、実に4度も選出されている。そんな日本人選手がいることをご存じだろうか。

 サッカーの話ではない。ビーチサッカーである。しかし、競技は異なれども、これほどまでに輝かしいキャリアを持つ日本人アスリートは、そうそうお目にかかれないだろう。

 茂怜羅(モレイラ)オズ。サッカー王国ブラジルからやって来た砂の上の英雄は、今、日本人として世界にその名を知らしめている。

(※)FCバルセロナの運営するビーチサッカークラブに所属し、2014年に世界ビーチサッカー選手権で優勝した。

 茂怜羅がビーチサッカーを始めたのは、6歳の時。リオデジャネイロの海のそばで育った彼にとって、ビーチサッカーは身近な存在だった。

「コパカビーチのすぐそばに住んでいたのですが、そこで家族の知り合いがビーチサッカースクールをやっていたので始めました。サッカーも好きだったんですが、サッカー場が近くになかったので、自然とビーチサッカーにのめりこむようになりました」

 もっとも、ビーチサッカーの世界ですぐさま才能を開花させた茂怜羅だったが、周囲からは将来を考えて、サッカーを薦められるようになる。実際に14歳の時、地元サッカーチームのヴァスコ・ダ・ガマからの誘いも受けた。しばらくはビーチサッカーとサッカーの二足の草鞋(わらじ)を履いたが、気づけばスパイクを履く自分の姿に違和感を覚えるようになったという。

「サッカーを続けていれば、もしかしたらプロになれたかもしれないです。でも、スパイクを履いてプレーすることになかなか慣れなかった。ビーチサッカーのほうが、うまくいくという確信があったんです」

 もちろん、ビーチサッカーが盛んなブラジルであっても、サッカーと比べればお金を稼ぐことは難しい。それでも、生粋のリオっ子である茂怜羅は迷うことなく、16歳の時にビーチサッカーのプロ選手となることを決断したのだ。

 プロ入り後、すぐさま頭角を現した茂怜羅は国内で名声を高め、2006年の20歳の時にドイツのクラブへと移籍する。さらにその1年後、日本からのオファーが届く。沖縄で活動するレキオスBSというクラブからの誘いだった。

「日本のことは、まったく知りませんでした。ジーコが行った国……というくらいで。でも、東京だったらびっくりしたかもしれないけど、最初に行ったところが沖縄だったから、よかったかもしれない。暖かいし、ビーチもある。地元の人もフレンドリーで、違う国に来た感覚はまるでなかったですね」

 もちろん、言葉や食事、文化の違いに戸惑った部分もあったが、日本という国に茂怜羅はすぐさま適応した。そして、しばらくすると、ひとつの感情が湧いたという。それは「日本人になりたい」という想いだった。

「日本は便利で安全だし、日本人の優しさや親切さにも心を打たれました。そして、これからも日本のビーチサッカーを引っ張っていきたいという想いが、日増しに強くなっていったんです」

 茂怜羅が日本に来て驚いたのは、言葉でも食事でも文化の違いでもなく、ビーチサッカーのレベルの低さだった。しかし、茂怜羅はその環境を嘆くのではなく、「どうやって日本のレベルを上げていくか。そういうところが面白かった」と前向きに捉えていた。

 だからこそ、日本人になって、日本にビーチサッカーの文化を根づかせたいと考えるようになった。それが「新しいチャレンジをしたい」と来日した茂怜羅の使命となったのだ。

 その想いを後押ししてくれたのが、先駆者の存在だった。

 ラモス瑠偉――。現在ビーチサッカー日本代表監督を務める熱き男は、20歳で来日し、日本に帰化し、日本にサッカー文化を根づかせた功労者のひとりだ。そんなラモスが歩んだ道のりを、茂怜羅はビーチサッカーの世界で辿りたいと考えている。

 2009年にレキオスBSが活動場所を沖縄から東京に移すと、茂怜羅もチームとともに東京へと移り住んだ。そこで、当時もビーチサッカーの日本代表監督だったラモスと出会い、「日本人になりたい」という想いを告げた。すると、ラモスは自身の経験や人脈を駆使し、茂怜羅の帰化のために尽力してくれたという。

「当初は日本人になりたい、日本代表に入りたいと思っていても、何をしていいか正直わからなかった。でも、ラモスさんに会ってから、いろんなことが動き出しました。ラモスさんには当時からいろいろお世話になっています。

 まだJリーグができていない時にブラジルから日本に来て、日本人になって、日本代表になって、できたばかりのJリーグも引っ張っていった。ビーチも今はプロリーグがないけれど、ラモスさんと同じようなことをやってきたいと思っています」

 ラモスが協力してくれる一方で、自身も日本語の習得に努力を惜しまなかった。そして2012年12月12日、茂怜羅オズは日本人となった。

 すぐに日本代表に選出されると、翌年にはキャプテンとしてワールドカップに出場。ベスト8進出に貢献し、準MVPにあたる「シルバーボール」に輝いている。

 ブラジル代表にも選ばれる実力を持ちながら、ビーチサッカー不毛の地に根を張り、日本にビーチサッカーの花を咲かせたいと心血を注ぐ――。なぜ、茂怜羅はそこまでのモチベーションを備えられるのか。

「日本に来て、日本のよさを知り、本当に日本のことが好きになりました。まだまだやらないといけないことはたくさんありますが、日本のために何かをしたいですね」

 物静かな印象で、流暢な日本語を操るその口調も穏やかだ。熱血漢のラモスとは対照的ではある。しかし、日本のビーチサッカー界を良くしたい、強くしたいという想いの強さは、「日本人よりも日本人らしい」と言われたラモスにも引けを取らないだろう。

 茂怜羅オズ、33歳――。ブラジルからやって来た、砂の上のサムライである。

profile
茂怜羅(モレイラ)オズ
1986年1月21日生まれ、ブラジル・リオデジャネイロ出身。東京ヴェルディBS所属。6歳からビーチサッカーを始め、地元クラブのヴァスコ・ダ・ガマに入団。2004年から2年連続でブラジル全国大会を制し、2006年にはドイツのウニオン・ブラジルでドイツ全国大会も制覇。2007年に初来日し、2011年に日本国籍を取得する。日本代表としてビーチサッカーW杯に2013年、2015年、2017年出場。世界ベスト5プレーヤーには4度選出されている。ポジション=フィクソ。190cm、90kg。