「おにぎり2万個」だけじゃない 過去に社会問題へと発展した甲子園事件簿
(1)「甲子園の土」3話
敗れた球児たちがベンチ前の土を手でかき集めて袋に入れるのは、すっかり甲子園の風物詩となった。持ち帰った土は、グランド横のプランターに入れられて花を咲かせたり、球児が勉強部屋の鉢植えにしたりしている。粗末に扱う人はいないようだ。甲子園が「聖地」なのは、こうした行為からもわかる。
●「甲子園の土」を最初に持ち帰ったのは誰か?
諸説ある。一般的には、1949年夏の大会で倉敷工に敗れた小倉高の福嶋一雄投手が始まりだとされている。福嶋は47、48年の夏の大会の優勝投手。史上空前の3連覇に挑んで敗れ去り、足元の土をズボンのポケットに入れたのだと言う。
慶應大学に進んだ福嶋一雄はアマチュア野球の重鎮となり、2013年に野球殿堂入りしている。土を持ち帰った第一号は「打撃の神様」川上哲治だ、と言う説もある。1936年の春の大会で熊本工のエースとして中京商と対戦して敗れた川上は、ユニフォームのポケットに土を入れたと言う。
さらに1946年夏の大会でベスト4まで進んだ東京高等師範付属の選手が持ち帰ったのが最初だと言う説も。このときは選手が自分のポジションの土を取りに行った。今は、試合が終わるとすぐにグランド整備が入るから不可能だが、各選手はハンカチや手ぬぐいに土を包んで持ち帰ったと言う。
ただしこれは西宮球場でのことだった。当時は甲子園だけでなく西宮球場でも大会が開かれていた。
●「甲子園の土」を持ち帰れなかった高校
まだアメリカ領だった沖縄からの最初の代表は、1958年夏の首里高。東九州、沖縄の予選を勝ち抜いて進出したが、福井県代表敦賀高に0-3で敗退。学生野球の父飛田穂州は、「健闘するも順当な結果」と評した。
首里ナインも甲子園の土を袋に入れて持ち帰ったが、那覇港での植物検疫で引っかかった。「外国の土を持ち帰ることはできない」と言う理由だ。ナインは土を処分したが、これを聞いた日本航空の客室乗務員が後日甲子園周辺の石をプレゼントしたと言う。
当時の首里高の仲宗根宏主将は、2008年甲子園に赴き、当時は持ち帰れなかった土を袋に入れて半世紀ぶりに沖縄に持ち帰ったという。
●甲子園の土を大量に持ち帰ろうとして失敗
1984年夏、初出場の長野県代表篠ノ井高は、エース小出の195球の力投もむなしく沖縄水産に0-4で敗れた。
例によって篠ノ井ナインは、バックネット前の土をすくって持ち帰ったが、中にはスコップを持参してビニール袋にぱんぱんに土を入れたナインがいた。袋を持って退場しようとしたが、通路で袋が破れて土をぶちまけてしまった。
学校のグランドに土を入れようとしたとのことだが、変なことで話題を振りまいてしまった。
(2)中京商で深紅の大優勝旗が盗まれた?
愛知県の中京商(現中京大中京)は、高校野球史上最多勝、最多優勝を誇る超名門校だ。戦前から今に至るまで強豪の名をほしいままにしている。1954年の夏も静岡商業を3-0で下して5度目の栄冠に輝く。
翌日の朝日新聞には、真紅の大優勝旗を高々と掲げた中京商ナインの写真が掲載されている。優勝旗は大会終了後、翌年の大会前まで優勝校に預けられる。
このときも優勝校は中京商が持ち帰り、校長室に展示された。校長室にはすでに4本の夏の優勝旗のレプリカと、1本の春の優勝旗のレプリカ、盾、カップ、表彰状などが所狭しと並んでいた。
しかし、11月末、その中から深紅の優勝旗だけが忽然と消えた。正確には、関係者が優勝旗がないことに気が付いたのが11月末。優勝旗のさおには軟式野球部が獲得した優勝旗が代わりにつけられていたのだ。
学校は学生を総動員して捜したが見つからず、警察に届け出て刑事も捜索に加わったがわからず。全国にニュースが広がる大騒ぎとなった。主催者の朝日新聞は「出てくるまで探してほしい」と突っぱねる。
中京商の関係者は夜も眠れない状態となったが、翌1955年2月に、優勝旗は近くの川名中学の校舎の床下から風呂敷に包まれて発見された。
中京商は、校長、野球部ナインも涙を流して喜んだ。このときの中京商のエース、中山俊丈は後に中日ドラゴンズのエースになった。優勝旗の窃盗犯はつかまらず。60年後の現在でも謎の事件となっている。
(3)主将と4番打者が死球で戦線離脱でも優勝した高知高
1964年夏、高知高は開幕試合で秋田工と対戦。右翼手の有藤道世(のちロッテ)は大会屈指の強打者という評判だったが、第一打席で顔面に死球を受ける。上の前歯が三本も折れる重傷で、そのまま救急車で病院に運ばれ入院。
有藤の母が「息子は死んだ」と思ったくらいの強烈な死球だった。さらに2回戦の花巻商戦では主将の一塁手三野幸宏も頭部に死球を受けて昏倒、同じ病院に入院した。
当時のベンチ入りは14人、2人の入院でわずか12人になりコーチャーズボックスに選手が立つとベンチには1人しかいない異常事態となったが、チームは2年生投手の光内数喜が奮闘して勝ち進み、平安高、宮崎商、決勝で早鞆高を破って見事に優勝。
ナインは、真紅の大優勝旗を持って病院に駆け付け、優勝を共に喜び合った。
(4)予想外の勝利に浮かれ大騒ぎし選手と監督の口論に発展した佐賀工
1987年夏、佐賀県、佐賀工は、2回戦で山梨県の東海大甲府とあたる。東海大甲府は春ベスト4、後に阪神、中日で活躍をする久慈照嘉を中心に好打と機動力が持ち味。優勝候補の一角とされたが、佐賀工は後にダイエー・ホークスに入団したエース江口孝義を中心に粘りの野球を見せ、ホームスチールで決勝点を奪い2-1で勝った。
この勝利に大喜びした佐賀工ナインは、宿舎で大騒ぎ。一般客から苦情が出るほど羽目を外したため、監督が激高。エース江口の頭をバットのグリップで小突いた。監督が酒気を帯びていたために選手が反発。激しい口論となった。
次の3回戦、千葉県、習志野高戦は、4-12で惨敗。江口は3回で7被安打の体たらく。ベンチ内は険悪な雰囲気で、野球どころではなかったという。
(5)主審が流血、それでも「アウト!」のコール
審判だって時にはアクシデントに遭う。1989年春、開幕日の第3試合、香川県の尽誠学園と広島県、広島工戦は0-0のまま9回へ。尽誠学園は二死一塁で1番吉田が左越え二塁打。広島工左翼花岡から遊撃中岡と渡った球は、捕手小笠原へ。小笠原はマスクを放り投げて送球を受ける。
そのマスクが、主審片岡成夫の額を直撃、片岡主審の額からは鮮血が噴出したが、それをモノともせずに真っ赤な顔で「アウト!」。
片岡主審はコールした後倒れて病院へ。以後は一塁審判の本郷審判員が代役を務めた。試合は9回のピンチを乗り切った広島工が10回決勝点を挙げて勝利。片岡主審の怪我は3cmの裂傷、全治10日間だった。
(6)ゴジラ松井、5連続敬遠 一番がっくりきたのは誰だ?
92年夏、高知県、明徳義塾と石川県、星稜の対戦。有名な松井秀喜の5連続敬遠四球の試合。明徳義塾はこの作戦が功を奏して3-2で勝った。
翌日の朝日新聞には、「無念、松井、一振りもできず」との見出しで「不完全燃焼、悔し涙をこらえるのが松井の最後の意地だった」と書かれている。書いたのは井上明記者。68年の甲子園で青森県、三沢の太田幸司と投げ合って優勝投手になった愛媛県、松山商のエースだ。
さらに「大事なもの忘れた明徳ベンチ」というコラムも。明徳義塾は勝ち進んだものの全国の野球ファンから大ブーイングを浴びることになる。監督の馬淵史郎や、投手河野和洋もこの試合以降、長く非難された。松井秀喜は不平、不満をもらさなかったこともあり男を上げ、NPB、MLBで偉大な成績を上げた。
この日のスコアを見て気になったのは、松井秀喜の後を打つ、五番二塁手の月岩信成の不振だ。月岩は1回(2死一三塁)、3回(1死満塁)、5回(1死一二塁)、7回(2死一塁)、9回(2死二三塁)と5回打席に立ち、3回にスクイズを決めた以外、まったく打てなかった。
月岩が1本でも安打を打っていれば、明徳は、敬遠策をやめていたかもしれないし、星稜が勝っていた可能性も大きい。試合後、月岩は「試合前に監督から、松井は歩かされるかもしれない、と言われていた。松井のためにも打ちたかった…」と言っていた。
一番がっくり来たのは月岩だったのではないか。
(7)スローカーブを6球投げただけで降板した木更津総合高のエース
2013年春、千葉県、木更津総合高は、1回戦の長野県、上田西高戦を7-5で破って2回戦に進出した。2年生エースの千葉貴央は、県大会4試合で34回を投げていたが、1年の秋には右肩を故障していた。1回戦でも8被安打5与四球、失点5。本調子ではないことが見て取れた。
2回戦の兵庫県、西脇工戦、千葉は先頭打者今井に対し、初球をやまなりのスローカーブ、ボール、2球目もスローカーブ、ストライク、3球目もスローカーブ、ボール、4球目もスローカーブ、ワンバウンド、場内がざわつき始める。控え投手の投球練習が始まる。5球目もスローカーブ、ストライク。6球目スローカーブで空振り三振。
野球のルールでは投手は最低1人の打者をアウトにするか、出塁させるかしないと降りることができない。千葉はここで降板した。
千葉は試合前から肩の痛みがあったが、言い出せなかったと言う。日本の高校野球の問題点が浮き彫りになったシーンだ。
【執筆:広尾晃】
1959年大阪市生まれ。日米の野球記録を専門に取り上げるブログサイト「野球の記録で話したい」でライブドアブログ奨学金受賞。著書に「プロ野球なんでもランキング」(イーストプレス刊)。
