圧巻の5時間10分、「トリスタンとイゾルデ」。(c)Karen Almond/Metropolitan Opera

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 昨年は、映画「国宝」の2時間55分という長さが話題となった。「休憩を入れてほしかった」「いや、面白くて長さを忘れた」と、SNSでも百家争鳴となった。だが、2時間55分どころか、「5時間10分」という「オペラ映画」が、いま、東京・東銀座の東劇で上映されている。さすがにこちらは2回の休憩があるが、それにしても、ほとんど1日がかりだ。

 それが、〈METライブビューイング2025−26〉の1本、ワーグナーのオペラ「トリスタンとイゾルデ」である。いったい、どういうオペラ映画なのか。「5時間10分」を、どのように過ごせばよいのか。そもそも、オペラに詳しくなくても楽しめるものなのか。

 この機会に、初めてワーグナー体験に挑もうと考えている方のために、以下、音楽ライターの富樫鉄火氏に解説してもらった。

圧巻の5時間10分、「トリスタンとイゾルデ」。(c)Karen Almond/Metropolitan Opera

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歌手も指揮者も、次々死亡……

 いま上映中の「トリスタンとイゾルデ」は、今シーズン話題のオペラです。そもそもこのオペラは、そう頻繁に上演される作品ではありません。それを、世界トップの歌劇場、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場(通称〈MET〉)がこの3月に新演出で上演しました。その舞台を収録した、迫真の映像です。前回の上演が2016年でしたから、実に10年ぶりの登場というわけです。

 いったいなにが大変かというと、特に主役2人は、尋常ではない力量をもつ歌手でないと、うたえません。広い音域と声量、体力、さらにはシェイクスピア俳優なみの演技力も必要です。

 それだけにこのオペラは、1859年8月に完成していたのですが、うたえる歌手が見つからず、正式に初演できたのは5年後でした。その初演でトリスタンとイゾルデをうたったのは、若手のカロルスフェルト夫妻です。ところが、夫は4回うたった直後に急死します。死因は脳卒中で、苛酷なトリスタン役が遠因だといわれました。妻はショックで精神を病み、二度と舞台には立てませんでした。以来、このオペラは「危険な芸術」と呼ばれます。

 指揮者にとっても、たいへんな演目です。1911年、フェリックス・モットルがミュンヘンの歌劇場で指揮中に心臓発作で倒れ、そのまま亡くなっています。1968年には巨匠ヨゼフ・カイルベルトも、おなじ歌劇場で指揮中、心臓発作で倒れて亡くなりました。

 日本初演は1963年10月、日生劇場のこけら落とし公演で来日したベルリン・ドイツ・オペラですが、短縮版上演でした(当時は、カット上演が通常でした)。この“日生劇場ライブ”は、近年、奇跡的に録音が発見され、CD化されて話題となっています。

 全スタッフ・キャスト日本人による初演は、つい最近の2015年5月です。ただし室内オーケストラ編曲版による上演で、トリスタン役は、第1・2幕と第3幕とで、ちがう歌手のうたい分けでした。これだけでも、いかにたいへんなオペラかわかるでしょう。

 とにかくこのオペラは長いのです。全3幕ですが、どの幕も、おおよそ80分近くかかります(バーンスタイン指揮の1981年“没入ライブ”に至っては、各幕、約90分を記録しています)。それだけに、歌手も指揮者もオーケストラも、充分に休む必要があります。よって、幕間ごとに30分以上の休憩を入れる公演がほとんどで、総上演時間は、最低5時間以上となります。2024年3月に新国立劇場で上演された際は、45分の休憩2回をふくめて「5時間25分」。午後2時に開演し、終演は夜の7時半ころでした。

 余談ですが、全曲で「70分」のミニ公演もありました。2024年3月、〈東京・春・音楽祭〉での「子どものためのワーグナー《トリスタンとイゾルデ》」です。歌手はすべて日本人、全曲を「70分」にダイジェスト。ドイツ語歌唱の間を日本語のセリフでつなぐ構成でした。もともとドイツでは定番の公演で、鑑賞したひとの話では「よくできていて驚いた。このオペラが“おとぎ話”であることが、あらためてわかりました」とのことでした。

ワーグナー初心者は、まず“体験テスト”を

 では、いったいどんな物語なのでしょうか。ひとことでいうと、映画「国宝」にも登場した「曽根崎心中」のような、“道行き”(心中)ものです。

 舞台は、伝説時代の中世ヨーロッパ。アイルランドの女王イゾルデが、不本意ながらコーンウォール(イングランド南西部)のマルケ王のもとへ嫁がされます。その嫁入り道中で、かつて自分の婚約者を殺したトリスタンと出会いました。すわ仇討ち! と毒薬を呑ませます。さらに、自分もイヤな男と結婚させられるくらいなら死んだ方がましだと、一緒に毒薬を呑んで自殺をはかります。ところが、それは毒薬ではなくて、「惚れ薬」だったのです。2人は、たちまち強烈な恋に落ち、「愛の死」に共感をおぼえるようになります。マルケ王は、面目丸つぶれ。事態は混迷化し、最終的にトリスタンは暗殺。イゾルデもあとを追い、ラストでは「宇宙と一体となって」昇天します。

 もちろん実際は、もっと複雑な話なのですが、大筋は上記のとおりです。それでも、ワーグナー未体験だと不安をおぼえるでしょう。その場合は、まず、この作品にご自分が向いているか、事前に“体験テスト”を受けておくことを、お勧めします。

 それは、このオペラの抜粋音楽《前奏曲と愛の死》を聴くことです。第1幕の前奏曲と、第3幕のラスト部分をつなげ、声楽を抜いて1曲にまとめた管弦楽曲で、18分くらいです。YouTubeに山ほどの音源や動画がありますから、いますぐ聴けます。

 なぜこんな楽曲があるのかというと、なかなか初演が実現しないので、自信家のワーグナーが「こんな素晴らしい音楽を、キミたちは聴きたくないのかね」と、聴きどころをダイジェストして、“試演”したのです。これが実によくできていたので、いまでも独立した楽曲として演奏されています。

 まず、これを聴いてみてください。なにやら不安定なモヤモヤ和音ではじまり、切れ目があるようなないような、盛り上がるけれど頂点がこなくてジリジリさせられるような音楽です。これに「快感をおぼえる」ようでしたら、「5時間10分」など、あっという間です。

 逆に、「こんな音楽、耐えられない」という方は、やはり全編はしんどいと思います。無理にお薦めしません。ただし、大スクリーンの圧倒的サラウンド音響とYouTubeとでは、“提灯に釣鐘”ほどの差があります。YouTubeでは、ホンモノに触れたことにはなりません。その点はご承知おきください。

〈METライブビューイング〉の楽しみ方とは

 そもそも〈METライブビューイング〉(以下〈MLV〉)とは何なのでしょうか。ファンの方には釈迦に説法ですが、未体験の方向けに簡単に説明しましょう。

 これは、メトロポリタン歌劇場のやり手総裁、ピーター・ゲルブの発案で2006年よりはじまった企画で、日本では松竹が配給しています。10台以上のカメラを駆使した高精細映像とサラウンド音響による生中継を、映画館の大スクリーンで観るものです。サッカーや大リーグの〈ライブビューイング〉と同じです。

 現在、世界70ヵ国、2200館以上に配信されています。北米とヨーロッパは、衛星経由の生中継です。毎回、ニューヨークのマチネー(昼公演)を中継し、ヨーロッパでは夕刻〜夜の時間帯に観られるようにしています。

 ただし日本では、時差の関係で生中継は無理なうえ、日本語字幕を入れるので、約1か月遅れで、録画で上映されます。のちのネット配信やDVD化はないので、映画館へ行って“体験”するしかありません。現在、国内21館で上映されています。

 第一弾は、2006年12月31日に上映された、モーツァルトの「魔笛」でした。会場は、改築前の歌舞伎座(京都・南座でも上映)。現地で前日に上演された映像を光ファイバー・ケーブルで日本へ送信し、字幕と合成して大晦日に上映するという離れ業でした。

 この「魔笛」は、「ライオンキング」でおなじみジュリー・テイモアの演出で、英語上演、100分短縮版の“ファミリー向け”公演でしたが、その楽しさ、鮮明な映像とすばらしい音質におどろいた記憶があります。実際のMETは3800人収容のマンモス劇場ですから、よほど前方席でないと、歌手の表情や演出の細部は、わかりません。しかし〈MLV〉ではアップの映像も多く、見応え十分でした。まさに「オペラ鑑賞新時代」の扉が開いたと思いました。

 魅力は、舞台中継だけではありません。毎回、案内役(人気オペラ歌手)が登場し、幕間に、いま出演を終えて息が切れている歌手を舞台袖でつかまえてインタビューするなど、リアルな生レポートが売り物です。近年は、エキストラの馬やロバへの「インタビュー」や、小道具係による「武器ガイド」など、ユニークな解説が続出しています。カメラに向かって、母国で観ている家族や友人にメッセージをおくる歌手も多く、微笑ましい光景です。

〈ライブビューイング〉ですから、アクシデントもそのまま中継されます。今シーズンの「アラベッラ」では、主役の女声歌手が、椅子に座る際、横のテーブルを倒してしまいます。しかし、笑ってすませていました。

 また、2014年の「ラ・ボエーム」では、当日朝になって主役が急病で降板。急きょ、前夜の「蝶々夫人」を終えて明け方にホテルで寝入ったばかりのクリスティーヌ・オポライスが呼び出され、昼からの公演に本番ぶっつけで代役出演。ハラハラしながら観ましたが、見事にこなしていました。開演前、ゲルブ総裁が舞台に登場し「これから、みなさんは貴重な舞台を体験します。MET始まって以来、前夜に蝶々さんをうたい、翌日の昼にミミをうたう歌手は彼女が初めてです。どうか応援してあげてください」とスピーチしたのには、感動させられました。

休憩時間の対処法と、3つの見どころ

 今回の公演は、30分という、「トリスタン」としては短めの幕間が2回あります。しかしその間、スクリーンではインタビューや解説があるので、映画としての休憩は、約10分間です。さっそくトイレに行くわけですが――実は、その間も、映像はつづいています。幕内の舞台転換作業を、見せるのです。膨大な数の裏方スタッフが、巨大なセットを動かし、次の幕の舞台をつくりあげます。初めて観る方は、こんなところまで映すのかと、おどろくでしょう。舞台関係者は、興味津々のはずです(同時に、なぜチケット代が高額なのかもよくわかります)。しかし見入っていると、トイレに行く時間がなくなりますから、思いきって席を立つようにしてください(スクリーンに、カウントダウン・タイマーが出ます)。もし軽食を食べるとしたら、この10分間ですませることになるので、おにぎりやスナックなど、簡単につまめるものにしておくほうが無難です。もちろん、水分補給も必要ですが、最低限に。ただし、あくまで「映画」なのですから、我慢できなくなったら無理せず、途中退席しても大丈夫です(上映中の出入り口にかんしては、案内があります)。

 今回のイゾルデ役はノルウェーのリーゼ・ダーヴィドセンで、なんと双子を出産した直後の本格的復帰公演です。その驚異的な声量と歌唱力には、度肝を抜かれるでしょう。トリスタン役はアメリカのマイケル・スパイアーズが初役で見事に演じます。彼はテノールですが、低音のバリトンまで出せるので「バリテノール」と呼ばれる稀有な歌手です。演出はアメリカのユヴァル・シャロン。彼はワーグナーの本家、バイロイト祝祭に、アメリカ人として初めて起用された演出家で、独特な舞台を見せてくれます。旧来の「トリスタン」とはかなりちがった解釈ですが、特に演劇ファンにとっては見どころ満載だと思います。

 最後に、初体験の方向けに、見逃してほしくない点を3つ。

 案内役は、アメリカの人気ソプラノ歌手、リセット・オロペーサです。大柄な歌手が多いオペラ界ではめずらしく、華奢でかわいらしい女性です。今期の〈MLV〉では、ベッリーニ「清教徒」に主演していました(すでに上映終了)。画面のなかで、「わたしも昨日、ここでヴィオレッタ(椿姫)をうたいました」と言うので、ぜひ観たいと思う方もいるでしょうが、残念ながら、彼女の「椿姫」は今期の上映はありません。

 次に――第3幕の最初で、イングリッシュホルンのソロが、えんえんと流れます。この楽器はオーボエの仲間で、ドボルザーク《新世界より》の有名な旋律「家路」(遠き山に日は落ちて)で知られる楽器です。通常、舞台裏(ステージ袖)で演奏することが多いのですが、今回は奏者が「演技者」もかねて舞台に登場するので、注目です。また、イゾルデ到着を舞台裏から告げる〈笛〉の音も、楽譜上はイングリッシュホルンなのですが、ここはワーグナー自身が「できれば木製のアルペンホルンのような響きの楽器で」と指定しています。では、今回は、どんな楽器が使われるのでしょう。指揮のヤニック・ネゼ=セガンが、楽屋で楽しそうに解説してくれるので、お見逃しなく。

 最後に――すくない出番ながら重要な役が、物語のキー・パーソン、イゾルデの侍女ブランゲーネです。今回はロシア出身のベテラン、エカテリーナ・グバノヴァが、素晴らしい演技と歌唱を見せてくれます。彼女はメゾ・ソプラノでわき役が多いのですが(何度か来日もしています)、2005年、パリ・オペラ座でのブランゲーネ役が絶賛され、以後、当たり役となりました。今回も幕間インタビューで「わたしはブランゲーネ役とともに20年間、歩んできました」と誇りをもって語っています。こういう大ベテランのわき役がいてこそ、METの高水準な公演は実現できているのです。

〈METライブビューイング2025-26〉〜ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」は、5月14日まで、東京・東銀座の東劇で上映中(ほかの劇場は上映終了)。詳細は公式HPで。

富樫鉄火(とがし・てっか)
昭和の香り漂う音楽ライター。吹奏楽、クラシックなどのほか、本、舞台、映画などエンタメ全般を取材・執筆。シエナ・ウインド・オーケストラなどの解説も手がける。

デイリー新潮編集部