ところが、こうした楽しい場にもマナーが持ち込まれることになります。そこで、バーンは音楽から失われてしまったものがあると指摘します。

<こうした考えで言うところの真剣な音楽とは、首から上、つまり頭で理解し、消費する類のものなのである。身体を動かして音楽の楽しみを表現することは、社会的にも道徳的にも良くないこととされてしまう。>
(『How Music Works』 p.25 筆者訳)

 隣の客が歌うことに対して嫌悪感を隠さない、潔癖症的な現代のオーディエンスの原型は、こうして生まれたのです。

 もちろんライブを味わいたいという個人の権利は尊重されるべきですが、一方で、その権利が音楽の本質的な楽しみ方を犠牲にした「自己満足」に過ぎないのかもしれない……という視点も押さえておく必要があるのではないでしょうか。

 井口理さんの発言は、単なるアーティストのお願い以上に、私たちに改めて「音楽とは何か」を考えるきっかけを与えてくれたのです。

<文/石黒隆之>

【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4