外食が思うようにできなかった、2021年。

外で自由に食事ができる素晴らしさを、改めてかみ締める機会が多かったのではないだろうか。

レストランを予約してその予定を書き込むとき、私たちの心は一気に華やぐ。

なぜならその瞬間、あなただけの大切なストーリーが始まるから。

これは東京のレストランを舞台にした、大人の男女のストーリー。

▶前回:「店選びは完璧なはず」銀座の高級フレンチで外資コンサルの男が告白。しかし、彼女は予想外の反応で…




Vol.10 ユリ(30歳)の選択


「なんか、久しぶりだね」

今日は付き合って3年になる彼氏と、西麻布にある『ISSEI YUASA』で食事をする約束をした。

1ヶ月ぶりに会う修二は、忙しさのせいか目の下にクマを作り、少し痩せたように見える。

最近は2人とも仕事が多忙で、こうしてゆっくりとレストランで食べることもなかった。

「そうだね、ユリは元気だった?」

疲れた表情の中に、いつもの修二の優しい笑顔がまじる。

「うん、修二は?」
「あぁ、それなりに。レストランを予約してくれてありがとう。正直、今日ここを選ぶとは思わなかったけれど…」
「どうしても修二と来たくて…」

私の返事に、彼は言葉を返さずに寂しく微笑んだ。

ここは昔、修二が予約をしてくれた場所。でもその日、私は行けなかった。

「ごめん!デザインミスが発覚して、今日中に工場に行って対応しないといけなくなったの。今日行けるかわからない、ごめんね!」
「そっか…。でも、今日はどうしても会いたいから待ってるよ。何時になってもいいから」

言葉通り、修二はずっと1人で待ってくれていた。でも結局、私は間に合わなかったのだ。仕事後に急いで電話をかけた私は、彼に再度謝った。

「本当にごめんね、なんか話があったんじゃ…?」
「いや、別にいいんだ。ただ会いたかっただけだから」

当時、お互い仕事優先で会う時間が減っていた中、修二が「この日は空けておいて」と言って指定してきたのが『ISSEI YUASA』だったのだ。

あの日、彼は私にプロポーズをするつもりだったのだと思う。


修二が特別な日にこのレストランを選んだ理由とは?


けれどもその日を境に、2人の関係はギクシャクしていった。

もともと忙しさからすれ違いが多くなっていた。でもこの出来事をきっかけに、2人の歯車が噛み合うことはなくなった。

私たちは今日、お別れするのだ。

修二のことは嫌いになったわけではない。私のつまらない話も優しく聞いてくれるところは大好きだったし、物事を論理的に捉え、私が仕事の相談をした時には的確なアドバイスをくれるところも尊敬していた。

でも、彼のそんなところが時々嫌に感じるようになっていたのだ。

なんとか時間を縫って会えた彼は、スマホを片手に仕事をしながらも、無理して私の話を聞いてくれようとした。それが段々と負担に感じるようになっていってしまった。

それにケンカをすると、1人だけ冷静さを保ち、論理的に話の矛盾点やケンカの原因の改善点を淡々と説明してくることにも腹が立った。

そうして、小さなことがどんどんと積み重なっていった結果、お互いに疲れてしまったのだ。




「ここは器から素敵だね。味も繊細ですごく美味しい」

そう言って彼は、バカラのグラスに盛られた冷製パスタを丁寧に口にする。

その満足げな表情を見ながら、彼がレストランを選ぶときには、彼なりのこだわりがあることを思い出した。

だからこそ、あの日選んでくれたこの店に、彼と最後に来てみたかったのだ。あの時どんなことを考えてここを選んだのか、どうしても知りたくなったから。


修二(31歳)の想い


僕たちは今日、別れる。これがユリとの最後の晩餐になるのだ。

そんな日に、ユリがこの店を予約したことに驚いた。ここは僕にとっては苦い思い出でもあったから…。

あの日、僕は彼女にプロポーズをしようと決めていた。

その頃の僕は、今の仕事が徐々に楽しくなり上司からも認められ、立て続けにプロジェクトにアサインされていた。

そのためユリとデートはおろか、ゆっくりと食事をとる時間すらなくなっていたのだ。

一方でユリも、ある有名なコンテストで彼女のデザインが賞を取った。

それを機に、アメリカに本社を構える大手デザイン事務所へと転職し、海外とのミーティングも増えて僕とは益々時間が合わなくなっていった。

そんな状態だったからこそ、早く籍を入れて、少しでも一緒にいたかった。何よりも彼女を手放したくなかった。

「どうしても今日会いたいんだ」

ユリにそう伝えたのは、その日を逃したら次にいつ会えるかわからないと思ったから。

『ISSEI YUASA』は、店のテーマの一つに“本物”を掲げている。本物の味とアートを楽しみながら、僕の愛が“本物”だと証明したいと思ってここを選んだ。でも結局、彼女は現れなかった。

そのとき、ようやく僕は気がついたのだ。

― プロポーズをする時間もないほど忙しい僕らに、結婚生活なんてとても無理なんじゃないか…?

結婚をするとなると、両家の顔合わせや新居の準備、彼女が望むのなら式や新婚旅行もある。そのうち子どもだって欲しくなるだろう。それらを乗り越えられるほど、今の僕たちに余裕はない。

― 今はまだ、結婚の時期じゃないよな…。

そうして僕はもう少し落ち着くまで待とう、と思い直した。


修二が気づいたユリの優しさとは…?


けれど、それ以来徐々に僕たちの関係はギクシャクしていった。お互いにイライラしてぶつかることが増えていた。

そして気がついた頃には2人の関係はもう、修復不可能なところまできていたのだ。




「もう…無理だと思う…」

久しぶりに会ってもすぐケンカになる関係に、ユリは心底疲れていた。そしてそれは僕も同じだった。

「そうだな…」

その日以来連絡をとっていなかったが、先週ユリから突然連絡が来た。

『最後に、一緒に食事でもしない?』

『最後』という文字を見て、僕はショックを受けた。頭ではわかっていたのだ、ユリとはきっともう戻れないということを。

でも、実際にその言葉を使ったユリは、もう完全に僕とのことに決着をつけたのだと思い知らされた。

その後、彼女から送られてきた店の場所が『ISSEI YUASA』だった。きっと僕が彼女にプロポーズをしようと思っていたことなど、気がついていないのだろう。



修二がどういう思いでこのレストランをプロポーズの場に選んだのか、食事を進めるうちにすぐにわかった。

ここは空間・料理・味・器と、すべてがアート作品になっているのだ。細部にまでシェフのこだわりが見られる。

デザインを生業とする私にとって、この空間は夢のような場所だった。私の好きなものに囲まれたここで、彼はプロポーズをしようと思ったのだろう。

「本当に素敵なお店。器も色彩や柄に、独自のこだわりが感じられる」
「よかった。シェフのテーマの一つに『本物に触れる』っていうのがあるらしいんだ」

― 本物…。

私たちの恋愛は、決して偽物なんかじゃなかった。少なくとも私は本気で彼を愛していた。なのに…。

― どうしてこうなってしまったのだろう。あの時私が間に合えば、何か違ったのかな…?

そんな私の心が聞こえたかのように、修二が言った。

「僕たちはさ、きっとただタイミングが悪かったんだと思う。お互いに今は仕事が第一だっただけで…。僕はユリと付き合えて本当に楽しかったし、大好きだったよ」

思わず涙が一粒こぼれ落ちた。

次にここを訪れるのは、お互いきっと“本物の愛”を見つけたとき。その時まで、この切なく悲しい気持ちは胸の奥にしまっておこうと誓った。



ユリと別れてから半年。僕は相変わらず忙しく仕事に没頭した日々を過ごしている。

そんな時クライアントからの誘いで、ある有名なイタリアンで食事をすることになった。

「何かアレルギーや食べられないものはありますか?」
「いえ、僕はなんでも大丈夫です」

そう答えて少し後悔した。前菜に僕の苦手なセロリが入っていたからだ。

― なんか、セロリを見るのなんて久しぶりだな…。

そこであることに気がついた。ここ数年、レストランを予約するのはユリだった。

でもセロリが嫌いなんて子どもっぽくて気恥ずかしかった僕は、それを彼女に伝えたことなどなかったはずだ。きっとそんな僕に気がついて、いつもこっそり店側にセロリが苦手だと伝えてくれていたのだろう。

「わぁ、きれー」

僕たちが食事をしていると、隣の席にいた20代前半くらいの子がスマホを取り出し、写真や動画を撮り始めた。

― ユリが料理の写真を撮っているところを、見たことがないな…。

突如彼女が昔言っていたことを思い出す。

― 写真に撮っちゃうと、なぜか記憶が薄れちゃうの。だから私はできるだけ五感を使って、香りやその時の気持ちと一緒に心に留めるようにしているの。

彼女はいつも、運ばれてきた料理を全身で堪能するかのように、まずは目で楽しみ、次に音と匂いを感じとっていた。そしてゆっくりと舌で味わうと、彼女独自の感想を話してくれた。

だがそんな姿も、別れる1年ほど前から見ていない。僕と付き合うようになってからはゆっくり味わうというよりは、早く済ませるようになっていた。

思えば、彼女が料理を急いで食べていたのは、食後仕事に戻らなければならない僕のためだったのではないか。ゆったりとコース料理を楽しんだのも、あの日が久しぶりだった。

ユリは僕を気遣って、高級レストランではなく定食屋や居酒屋など、早く食べられるようなお店ばかりを選んでくれていたのだ。

― あぁ、僕は彼女に本当に愛されていたんだな…。

その時初めて、僕は彼女の想いを感じた。

― 食事くらい、もっとゆっくりとすれば良かった。彼女の料理の感想も、もっと聞いてあげれば良かった…。

今さら気がついた彼女の優しさに、僕はひどく後悔した。

彼女への愛を“本物”だと示したかった僕は、彼女の本当の愛に気づくことができていなかったのだ。

今頃彼女はどうしているだろうか?次こそは、彼女の本当の優しさに気がつける人と、幸せになってほしいと心から願う。

▶前回:「店選びは完璧なはず」銀座の高級フレンチで外資コンサルの男が告白。しかし、彼女は予想外の反応で…