日本赤十字社が漫画『宇崎ちゃんは遊びたい!』を起用した2019年のポスターは、一部から「セクハラ」と批判され、第2弾では図案が大きく変更された。東京大学教授の瀬地山角氏は「性的なものが必ずしも女性蔑視になるわけではないが、PRする対象と場所によってはセクハラにもなり得る」と指摘する――。

※本稿は、瀬地山角『炎上CMでよみとくジェンダー論』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

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■見かけなくなったキャンペーンガール

日本では水着のグラビアやヌード写真などが掲載された男性誌やスポーツ新聞を、駅の売店でふつうに購入することができます。ですがこれが許容されるのは、世界的に珍しいことだと考えるべきだと思います。アメリカなら怪しげな特別な店に行かないと手に入れることはできません。2020年に予定されていた東京オリンピック・パラリンピックを前に、大手コンビニチェーンは成人向け雑誌の販売を原則中止しましたが、今後こうした流れは広がっていくでしょう。

かつては化粧品メーカー、飲料メーカーなどさまざまな企業が、水着キャンペーンガールを自社の宣伝やPRに起用していました。大手繊維メーカーのキャンペーンガールは、モデルや女優の登竜門ともいわれ、毎年話題になってきました。しかしある時期から、キャンペーンガールという宣伝方法そのものをやめる企業や、水着の着用をことさらアピールしない企業も多くなっているようです。

水着の女性の写真やポスターは昔から性的な存在として流通していました。そして、社会に幅を利かせていたおじさん層のおかげで、ふつうにあるものとして許されていたわけです。しかし、水着の女性を取り上げる雑誌は読者とともに年をとり、新しい雑誌も生まれてこなくなりました。ネットという新たな場ができたわけですが、そこでは雑誌だったら起きなかった問題──「見たくない人は見なければいい」というルールが通用しなくなるという問題を抱えることになります。受け手もメディアも変わり、情報の均衡点が変わったわけです。

■炎上した日本赤十字社の献血ポスター

日本赤十字社は若い世代へ献血を募るために、漫画『宇崎ちゃんは遊びたい!』とコラボをし、献血協力者に主人公の女性「宇崎ちゃん」をデザインしたクリアファイルを配布するというキャンペーンを展開します。

発端は2019年10月14日、アメリカ人男性が東京・新宿東口駅前の献血ルーム前に掲示されていたキャンペーンポスターを見て、ツイッターで問題提起。2日後、それを引用する形で太田啓子が「日本赤十字社が『宇崎ちゃんは遊びたい』×献血コラボキャンペーンということでこういうポスターを貼ってるようですが、本当に無神経だと思います。なんであえてこういうイラストなのか、もう麻痺してるんでしょうけど公共空間で環境型セクハラしてるようなものですよ」とツイートし、大きな炎上案件に。

漫画『宇崎ちゃんは遊びたい!』とコラボした血液センターのポスター(提供:アニメイトホールディングス、©Take)

■性的表現=女性蔑視なのか

まず、議論の出発点で確認しておきたいのは、性的であることが必ずしも女性蔑視であるとは限らないということです。自ら性的なメッセージを発したい、もしくはセックスワークに従事したいと考える女性もいて、それが自由な意思に基づいていれば、それ自体が否定されることではありません。個人が性的である、性的情報を発信する主体となる自由は守られるべきです。当然ですが、そこに強制がないことが前提です。

次に何をもって「わいせつである」「性的である」といえるのでしょうか。ここには刑法175条のわいせつ物頒布等の罪をめぐるポリティクスと、セクシュアルハラスメントの一類型である環境型セクハラが関係しています。

まずわいせつ物頒布等の罪における、「わいせつ」という概念について見てみましょう。これは時代によって大きく変わっていくものです。イギリスの小説『チャタレイ夫人の恋人』の日本語訳本がわいせつ文書かどうかで争われたのは1950年。マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』の裁判が起きたのは1959年。さほど大昔のことではなく、日本では戦後になってもつい数十年前までは、文字で書かれた性的表現でもわいせつとされ、認められないケースがあったのです。

■ロリコン嗜好を犯罪視することはできない

しかし現在ではおそらく、文字作品を「わいせつ物」として立件するのは不可能でしょう。現時点では、映像で性器が映ったら「わいせつ」というルールになっているわけですが、これまた変わったルールです。性器を映さないためにモザイクという処理がされています。このモザイクはアジアには若干ありますが、欧米にはない特殊なルールです。これによってコンドームの装着がきちんと描かれないといった問題点もあり、性器が見えるかどうかに議論が集中することはおかしいと私は考えます。

児童ポルノについては、そこに子どもが映っていたら明確な犯罪です。被害者が存在するわけですから。しかしその意味で逆に、いわゆるロリコン漫画は犯罪にはできません。オタクとかロリコン層をわざわざ礼讃する必要はもちろんありませんが、性的嗜好自体を犯罪視することは、決してやってはならず、犯罪が起きた時点で処罰すべきことです。小児性愛という欲望自体を処罰の対象とするのではなく、実写でないものに留めている限り犯罪にすべきではないと私は考えます。行為に及んだときに犯罪とするということを守らないと、人のファンタジーまで犯罪にすることになるからです。

■公共での性的表現はどの程度許される?

2002年に成人向け漫画がわいせつ物にあたるとして訴えられ、有罪となった「松文館裁判」がありますが、この場合は漫画が「写実的」であることが問題とされました。写真と同じ扱いにされたわけです。ただ写真ではない二次元のものを犯罪にするのはかなり難しいはずです。なぜなら、被写体となる被害者が存在せず、保護法益(その罰則によって守られるもの)が「公序良俗(公共の秩序善良の風俗)」しかないからです。保護法益が公序良俗しかないのなら、基本的には発行そのものを禁止するのではなく、ゾーニングによって見たくない人が見ずにすむように、棲み分けをはかるべきだと考えます。

棲み分けるとなると、発信を禁止しない代わりに、公共の空間での性的情報は、発信する自由よりも、不快だと思う人の感覚を優先すべきだということになります。したがってさまざまな人の目にとまる電車の中で、雑誌広告に水着の写真を使うのはやめるべきでしょう。

いいかえればこれは日本の公共空間における性の露出を、どの程度許すのかという問題になります。駅の売店で売っているスポーツ新聞や週刊誌の性表現は、そうした観点から見たときに、明らかに度が過ぎるといわざるをえません。働く女性が増え通勤の場での女性のプレゼンスが高まったことも踏まえ、公共空間のルールや均衡点を変えていく必要があります。おじさんたちばかりの空間だったから許されたものが、「環境型セクハラ」と呼ばれるようになるのです。

■「宇崎ちゃん」ポスターは何が問題だったのか

セクハラは通常「対価型セクハラ」と「環境型セクハラ」の2つに分類されます。前者はたとえば「昇進させてやるから」もしくは逆に「いうことを聞かないとクビだ」といった対価を用いてハラスメントをするケース。これに対し後者、「環境型セクハラ」はたとえば職場にビキニの水着のポスターを貼ることのように、職場で性的メッセージの強いものを人の目に触れるようなところに出す行為です。

後者は厳密には女性差別とは別のものです。性的メッセージを特定の空間でどの程度許容するのかという線引きに関わる問題だからです。不快に感じるのが多くの場合女性なので、重なって見えることになりますが、論理は異なります。女性が職場に男性のセミヌードのポスターを貼ったら、やはり環境型セクハラとなる可能性があります。

そうしたことを踏まえ太田啓子は、公共空間で性的なメッセージが強く出ている『宇崎ちゃんは遊びたい!』の献血ポスターについて、「公共空間で環境型セクハラしてるようなもの」と批判したわけです。親戚に高校生の女の子がいたので聞いたのですが、高校生などの間で献血はノベルティをもらうためのもので、それを目当てに連れ立って行くことがよくあるのだそうです。あの『宇崎ちゃんは遊びたい!』を使った献血の募集は、同人誌を販売する日本有数の大規模イベント、コミックマーケット(通称コミケ)では効果があったとのことで、その意味ではうまく機能したのでしょう。

■老若男女がいる場に持ち込んだ失敗

そういった背景を考えると、批判を浴びたときに日本赤十字が出した「今回のキャンペーンも献血にご協力いただけるファンの方を対象として実施させていただきました。なお、今回のキャンペーンはノベルティの配布を目的としており、ポスターなどによる一般の方へのPRを目的にしたものではありません」というコメントは大変正直なもので、現場としてはその通りだったのだろうと思います。

ところがそれを新宿の駅でやってしまった。この献血センターは新宿の地下街にあり、私も何度も通ったことがある場所です。そこにいきなりあの胸が強調された「宇崎ちゃん」が出てきたら、「環境型セクハラだ」という意見が出るのは少なくとも理解はできます。若いオタク系の人がたくさん集まるコミケなら効果的な広告なのでしょうが、老若男女が通る新宿の地下街に持ってきてしまうのは、さすがにゾーニングとして失敗です。日本社会がゾーニングに甘いことも一因だろうと思われます。

その意味でも、最初のきっかけとなったツイートがアメリカ人の男性からのものだったことは、とてもよく理解できます。アメリカの感覚なら、あの空間にあの性的なメッセージを持つものが出てくるのは、かなり違和感があるはずです。アメリカには性器にモザイクをかけるという規制はありませんが、そうしたものは特定の場所で消費されるもので、公共の空間での性的表現は、日本に比べるとかなり抑制的です。そのため見た瞬間に「いかがなものか」という疑問がわいたのでしょう。しかもそれを民間企業ではなく、公共性の高い日本赤十字社がやってしまった。不買運動もできませんから、反発だけが膨らみます。

■「胸がどれ程強調されているか」線引きは難しい

男性向けの性的な商品を不快に感じる女性がたくさんいることは事実で、その人たちが不快に感じないようにするしくみが必要なのですが、それはそうした表現が「女性差別」かどうかということとは、無関係ではないですが、同じではありません。さしあたりは別です。ここで問題なのは表現の内容ではなく、その性描写をどの範囲までオープンにするかが問われており、まさにゾーニングの問題です。そしてそのゾーニングの間違いという意味で「環境型セクハラしてるようなもの」と批判されてしまうのだと思います。

瀬地山角『炎上CMでよみとくジェンダー論』(光文社)

日本赤十字社は宇崎ちゃんとのコラボキャンペーンの第2弾を打ち出し、クリアファイルを胸をあまり強調しないものにしました。これに対し批判の急先鋒だった太田啓子もツイッターで「いい方向になったんだな、赤十字社がはじめからこういう企画でやっていたらよかったですね」とコメント。矛を収めることとなりました。

ただ胸の強調がなくなったわけではなく、逆に私はこれならいいのか、と疑問が残ってしまいました。日本赤十字社を批判したいのではなく、胸の強調がどの程度だったら許されるのかの線引きを、私もはっきりと示すことができないのです。これはマニュアル化できるはずもなく、やはり不愉快に思う人がいることを想定しつつ線を引いていくしかないのでしょう。その均衡点は時代とともに変わっていくのですが。

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瀬地山 角(せちやま・かく)
東京大学教授
1963年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了、学術博士。専門はジェンダー論。自身も主体的に家事育児を担う。主著に『お笑いジェンダー論』『東アジアの家父長制』など。
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(東京大学教授 瀬地山 角)