「さいごに胸を見せて」「えっ?」地方出身の女子大生を驚かせた“すべてをさらけ出す”『東京・女優オーディションの衝撃』【1982年プレイバック】〉から続く

 オーディション会場に響いた「おっぱいを見せてください!」の声。若さの勢いでブラジャーを外した瞬間、会場はどよめいた――。のちに激動の80年代を席巻することになる女子大生のその後とは?

【衝撃グラビア】「超巨大バスト」「ラブシーンで身悶え」『伝説の女優』に変身した彼女の写真を見る【タモリ、志村けんとも共演】

 作家・本橋信宏氏『歌舞伎町アンダーグラウンド』(新潮社)より一部抜粋でお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)


写真はイメージ ©getty

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優勝したのは⋯

 だが勢いというのか、若さというのか、80年代初頭という熱気がそうさせたのか、女子大生も自分でブラジャーを取った。

 オーッ!

 どよめき。

 静岡県立大学の女子大生の乳房は、出場者のなかでもっとも大きかった。まだ巨乳という言葉も一般化されなかった時代である。

 のちに彼女は「Dカップ京子」と呼ばれ、Dカップは大きな乳房の代名詞となるのだった。

 優勝者は看護師だったが、大事になっていくことに怖じ気づいたのか、当人が賞を辞退し、第2位のYが繰り上げデビューを果たした。

 Yは新婚夫婦がアメリカで銃撃され、のちに保険金殺人ではないかとマスコミが大報道したいわゆる「ロス疑惑」騒動に巻き込まれた。

 被害者の女性が殺害される前に、ホテルで何者かに殴打された事件があった。その加害者がYだったのである。コンテスト出場のとき、すでにYは殴打事件を起こしていたのだった。

 コンテストは出場者の人生を翻弄していく。女子大生は惜しくも入賞を逃したが、東京の取材陣からたくさん名刺をもらい、ヌードモデルの仕事が舞い込んできた。

 もっとも当の本人はいたって吞気だった。就職活動を控えていたので、彼女は地元静岡で一番給料が高くて夕方5時には帰宅できる消費者金融の入社試験を受けてみた。

 本人は受かるつもりだったが、甘えんぼうのような語尾を伸ばすしゃべり方がまずかったのか、落ちてしまった。

 そのころ、東京でヌードモデルの仕事があった。手取り3万円。女子大生の初任給が14、5万円の時代、これは大きかった。

最初の仕事は「週刊ポスト」

 静岡県立大学生の最初の仕事は、週刊ポストの女子大生ヌードだった。

 東京へはヌード撮影の仕事のたび、静岡から新幹線で上京した。

「最初に東京きたときって、けっこう人の家を転々としてたんですよ。ある人の紹介で、ホストの家に3日間泊まっていいよって」

「ホストって歌舞伎町のホスト?」

「うん。紹介されて。『京子ちゃん、泊まるところなかったら、知り合いのホストが時間帯が違うから』って。わたし、週5はグラビア撮影だったんで仕事終わるのが夜10時11時じゃない。ホストはその時間に1回も帰ってこないから会うこともなくて。だから、“ありがとうございます、助かりました。お金ないんで4000円置いておきます”って書き置きを残して。わたしってそういうのきちんとしてるじゃん。どんなホストかも会ったことないからわからないまま。ホストの部屋は飯田橋あたり。だから、そのあと東京に引っ越してきたとき、飯田橋とか神楽坂に住もうと思ったもん」

 そのころの80年代半ばは、AVという新たなメディアが誕生したときだった。

「ビデオに出るときは、芸名なんてなくて、『女子大生真理子』、『人妻淳子』とそのときの役柄によって名前を変えてた。当時はみんなそうだったよ」

 中村京子の芸名は仕事をはじめて3日目、仕事場でカメラマンが即興で考えた、ごくありふれたものだった。

 中村京子のAV初出演は、1982年VIPから発売された『VIP劇画シリーズ静香・濡れてオナニー「覗かれて」』だった。

 陵辱系官能漫画の笠間しろうの挿絵と、中村京子のヌードが合体した30分物だった。

「スライドみたいな絵とわたしを組み合わせたビデオだったんですよ。胸触ったり、オナニーするときはわたしが、アアアンってやるの。当時はからみがなくてオナニー物全盛だったんですよね。代々木忠監督の『ザ・オナニー』がブームになってわたしも最初の5、6本はオナニー物しかしなかった」

はじめてからみがある⋯

 1983年、はじめてからみがあるAVに出演した。

「わたしがはじめてからんだのはセーラー服物で、速水健二君が相手役でした」

 当時は人気AV女優というのも出現前で、誰々が出演しているから売れる、という時代ではなく、モデルの出演料は一律だった。

 だが、中村京子人気は凄まじく、ピンク映画でも、愛染恭子主演『愛染恭子の未亡人下宿』と中村京子主演『巨大バスト99 Dカップの女』が日活の正月映画になったほどだった。

 中村京子をはじめヌードモデルたちは、皆フリーで、人脈や情報をもとに、仕事を取ってくる時代だった。

「ヘアメイクやスタイリストもつかなかったから、自分でお化粧してた。自分で重い荷物持って現場に行ってたし」

 AV男優という職業もまだ確立される前で、雑誌編集者や映画俳優が兼業で務めていた。

「いまみたいに、男優の数も多くなかったので、現場に行くと、みんな友だちみたい。なかでも雑誌の人たちとウマが合ったの。ビデオの人は、あわよくば本番させようと、お互い腹の探り合いだったし」

 中村京子も前貼りをつけて出演していたが、そのうち前貼りなしで裸になった。

「タモリ倶楽部」で安部譲二から⋯

 時代は過激になっていく。その一方で中村京子は、頑に擬似本番を貫いた。

 体格もよかったので、女相撲企画にもよく呼ばれ、何度も優勝した。

「タモリ俱楽部の柔道大会で、わたし優勝して、作家の安部譲二から黒帯もらったの。ちょっとルールが違ってて、みんなルーズソックスを履いて組み合って、ルーズソックスを脱がしたら勝ちっていうやつ。わたし、そういうのがんばっちゃうの」

 愛嬌があった彼女はスタッフからも愛されて、仕事が途切れなかった。出版業界でも人気が高かった。

 評論家の奥出哲雄と付き合っていたころ、当時の『噂の真相』副編集長が部屋に居候していたこともあった。

 ゴールデン街で店を出すと、Dカップ京子時代からのファンが客となった。

「でもわたしの昔からのファンは、どんどん減ってます。わたしが、そういう人には意外と冷たいんで。昔のことばっかりいわれたら、普通の話ができなくなっちゃうじゃない。あと、(店に飾ってある絵画をさして)絵を描いてる子とかのお母さんとわたしはほぼ同世代だから、その世代の子はわたしのことなんか知らないわけ。そうなると、みんなで面白い話とか、たまにはちょっと真面目な話したりとかのほうがいいんですよ」

 ここで担当編集の勝浦基明が、控え目な口調で打ち明けた。

「胸の大きな女性は頭が悪い」という俗説にも負けず

「僕が新人編集者のころ、京子さんの原稿を取りに行かされたのは、新宿のどこだったんだろう、女相撲か泥レスをやってるところに行きました」

「昔あったビアガーデンかな。泥レスじゃないよ。女相撲だから。わたし、泥レスやらないから」

 ヌードモデルをやりながら、いくつもの雑誌で文章も書いていた。

 80年代前半、いまでは信じられないが、胸の大きな女性は頭が悪い、という俗説が残っていた。

「ひどいこともあったんだよ。ある出版社から原稿依頼があって、『書き出すとき、段落落とすの知ってる?』っていわれて。知ってるような気がしますって、そういうしかないじゃん。ちょっとびっくりして。『文章が終わったら、行替えするとか大丈夫ですよね?』とかもいわれたよ」

 ゴールデン街で営業していると、事件にも遭遇してきた。

「お正月前の大掃除をバイトの子とやって、正月明けの4日に、トイレの扉を開けたら、ひゅーって風が吹くから何? と思ったら、窓が外されてトイレから泥棒が入ってたの。いつもカウンターに3万円置いてるんだけど、それがなくなってた。どうしようかなと思ったら、ほかのゴールデン街のお店も7軒被害にあってて。交番に行ったら『待ち5(番目)だからね』っていわれて。アハハハ。1軒ずつ検証に行くんで5番目。“あんなに窓が綺麗に外されるんだね”ってみんなで見てたら、全員指紋取られた。指1本ずつ取るのは知ってたけど、手の横とかも取るんだね。捜査には、鑑識課で沢口靖子みたい(科捜研の女)な人もきて。便座に靴跡があったから。で、結局、犯人は捕まったんだけど。赤坂署の刑事の人から電話をもらったから、犯人はどんな体型ですかって聞いたら『瘦せてる』って。やっぱり」

 つい最近では、店の脇から失火して消防車が出動する騒ぎが起きた。

「この辺は謎の事件はいっぱいあるの。人を刺したり殺したりはなくて、死ぬ人は階段から落ちても死ぬし」

 2階の急な階段は酔っていると、きわめて危険な凶器になるのだ。

「ゴールデン街にはぼったくり店もあるよ。その店の人は女装の人で、いつも着物なんだけど。本人曰く、菅さん(菅直人)がきたことがあるって」

「菅さんがぼったくられたの?」

「菅さんがまだ、ペーペーのころじゃない? ああいう店の人たちって、人を見てぼったくるから。以前、うちにマッチョなお客さんがきてて。ちょうど斜め前のお店もぼったくりだったのね。そこ、1杯なんでも5000円なんだけど、そのマッチョな人が行って、“5000円”っていわれたから『あぁ?』ってすごんだら、“500円でいいです”って。よかったじゃん、うちより安いねーって。アハハハ。夫婦でやってたんだけど、二人とも餓死しちゃった。菅さんをぼったくった人も何年か前に死んだみたい」

「ゴールデン街で生き残るコツはありますか?」

「いま、ゴールデン街では若い女の子もバイトしてるから、その子たちが毎日発信してるの。『わたしは毎日お店に出てるから』って、キャバクラみたいになってる。お目当ての子が出勤したときだけ行くおじさんたちもいるし」

「表に出ろ!」酔客同士が口論

 ゴールデン街名物、酔客同士が口論となって、「表に出ろ!」という光景はいまでも見かける。

「この前は、テレビ関係の人と雑誌関係の人が表に出ろってなってた」

「発端は?」

「きっと、ささいなことですよ。面白かったのは、二人とも喧嘩に慣れてないから、ボクシングの一番最初の選手、前座? みたいな感じで猫パンチになってて。聞いたら、店の中ではファイトしたけど、外に出たら喧嘩しなくて、あとで謝ってきたみたい。たぶん、二人とも連れがいたので、見栄の問題だったんでしょ。飲んでればいろいろあるよ」

いまもモテる

 かつてのDカップ京子は独身。いまもモテる。

 80年代からの知り合いである私は、元Dカップの女王にifを尋ねてみた。

「もし、消費者金融に就職していたら?」

「とっくに結婚していたでしょうね。結婚しようと思ったこと、29歳のころにあった。相手は雑誌の編集者。でももう結婚は、一生しないんじゃないかな」

 中村京子は大学時代に付き合っていたあのときの彼氏と偶然、東京で再会した。彼は車関係の業界誌で働いていた。

 もしも喧嘩しなければ、東京のサンシャイン60で催されたコンテストに参加していなかっただろう。ヌードモデルにもならなかっただろうし、ほかの会社に就職して……。

歌舞伎町という街のふところ

 ifは至るところに棲息し、運命を弄ぶ。

 一番平凡な芸名をつけたつもりだったが、40年以上過ぎたいま、中村京子という名はもっとも存在感のあるものとして生き残った。

 迎え入れてくれたのは、ここ歌舞伎町だった。

(本橋 信宏/Webオリジナル(外部転載))