「緊急外来で母は頭を下げた」1歳で希少がんが発覚「治療法ない」と言われた少女。明るく振る舞う裏で母は枕を濡らし
「病院では風邪だと言われたものの、母は異変を感じていたんです」。1歳2か月で希少がん「ユーイング肉腫」を発症した愛迷みんみんさん。病気の発覚は懸命な母のおかげでした。5歳までに再再発も経験し、一時は「治療法がない」とまで言われたものの、「どうして自分だけ」と悲観しなかったのは、笑顔を絶やさないでくれた母の存在があったからだそうです。
【写真】がん治療で体重は激減。幼少期の愛迷みんみんさん ほか(全16枚)
「がんになってガーン」ギャグで知った自分の病
── モデルとして活躍している愛迷さんですが、幼少期にがんを発症し、長い年月を病院で過ごしたそうですね。ご自身ががんだったと知ったのは、小学3年生のときだったとか。
愛迷さん:はい。きっかけは、軽い気持ちで言ったギャグでした。母の前で何の気なしに「がんになった、ガーン」と言った途端、母が「そんなことを冗談で言ってはだめ」と怒り出して泣き始めたんです。そのときに「あなたは小さかったころ、がんで入院していたのよ」と教えてもらいました。
── それまでご自身ががんだったことは知らなかったんですね。お母さんの話を聞いて、どんな気持ちになりましたか?
愛迷さん:妙な納得感がありました。白い壁と天井に囲まれた部屋、自分の腕をつなぐ細い管、それから銀のお皿が私の記憶には残っていて…。だから、母から「がんだった」と聞いて、それらが病室や点滴、吐き気を催したときに使う容器だったと理解できたんです。
小学生になってからも、月に一度は通院して血液の数値に問題がないか検査をしていたので、「そういうことだったんだ」って。点と点が線になったような感覚でした。
── 1歳で発症して寛解するも、その後2度再発したそうですね。
愛迷さん:はい。3歳と5歳のときに再発しました。私が発症したユーイング肉腫は、骨や軟部組織に発生する進行性の悪性腫瘍。発症時も再発時も深刻な状態だったらしく、5歳のときには「治療法がもうない」と言われたそうです。でも、体全体に抗がん剤を行き渡らせる治療が幸いしたのか、奇跡的に寛解したと母に聞かされました。
── 何度も入退院を繰り返し、つらい日々だったのではないでしょうか。
愛迷さん:そのころの私は、「病院にいるのが当たり前」のような生活だったので、「みんな、私と同じように入院したりしているんだ」と思っていたんです。だから入院中も、落ち込んだりすることはありませんでした。抗がん剤による吐き気や気分の悪さには苦労した記憶が残っていますが、「どうして私ばっかり」というような悲しさや悔しさは感じたことはありません。
それに、治療に寄り添ってくれる母が、いつも明るく振る舞っていてくれたからこそ、私も前を向いていられたのかもしれません。
「お母さんがいたから、生き延びられた」
── お母さんは、愛迷さんにとってどんな存在でしたか?
愛迷さん:優しくて明るく、強い人です。手遅れになる前に、がんだとわかったのも母のおかげ。私は、1歳を過ぎたころから夜になると微熱を出すようになったそうですが、病院では「風邪でしょう」と言われていました。でも、母は何かしらの異変を感じていて、何件も病院をまわり、最終的には救急外来で「検査をしてほしい」と頭を下げてお願いしたそうです。そのときに撮ったレントゲンには、私の胸部に大きな白い影が写っていました。これがきっかけで精密検査に繋がり、がんであることがわかったんです。
── 母親の勘を信じたおかげで、愛迷さんの命が繋がったのですね。
愛迷さん:そうですね。手術で取り出した腫瘍は、大人の拳ほどの大きさ。医師からは「あと1~2週間発見が遅れていたら助からなかった」と言われたそうです。だから、私が生き延びられたのは母のおかげだと思っています。
入院中も、母が泊まりがけで付き添ってくれたから寂しくなかったし、いつも笑顔で話しかけてくれたから、自分が大きな病気をしていると思わなかったんだと思います。
── 当時の闘病生活について、お母さんと話すことはありますか?
愛迷さん:はい。大人になってから、「入院していたころ、いつも笑顔でいてくれたよね」と母に話したことがありました。そうしたら、母が「あなたが眠った後に、枕に顔を埋めて泣いていたのよ」と聞いて。私の前では、涙を見せず、笑顔を貫いていたことを知りました。
今の私は、あのころの母と同じくらいの年齢になりました。そして、私も母になったからこそ、母のすごさを改めて感じています。わが子が抗がん剤で苦しんで、髪が抜けて、ベッドの上から降りられない。そんな様子を想像するだけで、私は涙が出てしまいます。
強い「死の恐怖」に襲われた18歳の誕生日
── 大人になったからこそ、当時のお母さまの複雑な心境を想像することができますね。
愛迷さん:そうですね。寛解後も、さまざまな後遺症や副作用が残っていましたが、母が支えてくれていたから乗り越えられたと思っています。でも、私が高校3年生のとき、母が大きな事故に遭ってしまい…。あのときの恐怖は今でも忘れることができません。
── どのような状況だったのですか?
愛迷さん:原付バイクに乗っていた母が、10トントラックにはねられたんです。
その日、私は側弯症の手術のために入院していました。長期間、放射線治療を受けてきた私は、脊柱が曲がってしまい、手術をして治すことになっていたんです。翌日は私の18歳の誕生日。お見舞いに来てくれていた母は、「明日は誕生日ケーキを買ってくるからね」と言って帰っていきました。その直後、事故に遭ったんです。
翌日の誕生日に来たのは、母ではなく、父と祖母でした。父から、母が事故にあったことや、私と同じ病院のICUに入院していることを聞きました。このときほど、恐怖を強く感じたことはありません。大切な母がいなくなってしまうかもしれない。自分ががんだったころよりも、死を間近に感じた瞬間でした。
── その後の容態は…?
愛迷さん:母は片足を切断することになりましたが、命は繋ぎ止めました。私の手術も無事に終わり、母娘で並んでICUに入っていたことを、今でも鮮明に覚えています。
でも、ここからが母のすごいところで。2年間の入院やリハビリを乗り越えた母は、義足になっても臆せずに外に出ていき、趣味として卓球をスタート。そうしたら、どんどん上達して、全国障害者スポーツ大会の市の代表選手に選抜され、優勝までしてしまいました。今では、私よりも歩くスピードが速いくらい(笑)。本当に、母のパワーには昔も今も驚かされてばかりです。
「治って終わりではなかった」今も続く後遺症
── 側弯症以外にも、今でも残っている後遺症があるそうですね。
愛迷さん:はい。心不全、片肺機能不全、左腕の可動域の制限があります。幼少期に大量の放射線を浴びたため、このような後遺症が残り、現在も薬を飲み続けながら、悪化しないようにコントロールしています。
── 日常生活にも制限があるのではないでしょうか。
愛迷さん:そうですね。階段を上るだけで息が切れてしまいますし、左腕が肩より上に上がらないので、わが子を抱っこするのもひと苦労です。
でも、病院の先生や母、パートナー…みんなに支えられてきたから、病を乗り越え、後遺症と向き合いながら生きていられると感じています。特に母の存在は、私の人生そのものを支えてくれていると思います。今、自分も母になったからこそ、あのころの母の強さと愛情の大きさを、改めて実感しています。
取材・文:佐藤有香 写真:愛迷みんみん

