ロシアは「ファシズム」なのか? 現在のヨーロッパやロシアの状況を表わす用語は「反リベラリズム」 【橘玲の日々刻々】
歴史家マルレーヌ・ラリュエルの『ファシズムとロシア』(翻訳:浜由樹子/東京堂出版)は、原題の“Is Russia Fascist?(ロシアはファシストか?)”のとおり、現在のロシアを「ファシズム」と定義できるかを論じている。この問題を考える前段として、ソ連崩壊後に、中東欧やバルト三国から提起された「記憶をめぐる戦争」が、西欧とロシアの「歴史戦」になっていることを前回紹介した。
[参考記事]
●ウクライナ侵攻の背景にあるロシアと中・東欧・バルト諸国の「記憶をめぐる戦争」
ロシアはファシズムなのかを問うには、「ファシズムとは何か」を定義しておかなくてはならない。だがラリュエルが述べるように、これは一筋縄ではいかない。
歴史的に見れば、「ファシズム」はイタリアのベニート・ムッソリーニが1919年に設立した政党「イタリア戦闘ファッシ」から始まる一連のイデオロギーと政治運動、および統治体制をいう。問題は、この「ファシズム」をどこまで拡張できるかで意見の一致が困難なことだ。
現代史家のなかには、イタリアのファシズムとドイツのナチズムのちがいを厳密に論じる者もいる。その一方で、特定の政党・政治家に「ファシズム」や「ファシスト」のレッテルを貼って批判することがしばしば行なわれている(もちろんこれは日本だけのことではない)。「ファシズム」の定義は、まさに論者の数だけあるのだ。
ファシズムはずっと「不可解なイデオロギー」だった
ファシズムはずっと、社会科学にとって「不可解なイデオロギー」だった。そのため当初の議論では、「イタリア・ファシズムとドイツ・ナチズムは世界史の中で例外的で、この現象を説明するのに比較研究は役に立たない」とされた。こうしてしまえば、ファシズムを定義すること自体が不要になるので、都合がよかったのだ。
もうひとつの有力な説は、ファシズムに真のイデオロギー的な中身(イズム)があるわけではなく、それは「反共産主義」や「反ユダヤ」のような反動にすぎないというものだった。このような消極的な定義を採用しても、ファシズムを積極的に定義する必要はなくなる。
マルクス主義学派にとって、ファシズムとは「資本主義の矛盾を通じて説明可能な反動的運動」だった。だがこの理論では、ナチズムの人種主義的な側面は切り捨てられることになってしまう。
ファシズムを共産主義への応答と見なし、両者を互いに影響し合う二つの産物として論じる者もいた。この立場では、どちらも近代(進歩主義)の行きついた果てに生まれたイデオロギーになるが、それとは逆に、「進歩、普遍主義、ヒューマニズムを否定した反啓蒙主義イデオロギー」としてファシズムを位置づける者もいた。
ラリュエルによれば、ファシズム研究にはいくつかの流派がある。
「ウェーバー的見地」では、ファシズムを「社会変革があまりに急速で、全員に平等に利益をもたらすわけではない場合に生じる、近代化の犠牲者の反応」として説明する。それが「失われた確かさを取り戻す新しいユートピアを創造し、スケープゴートを見出す」というのだ。
フランスのポスト・モダンの思想家ミシェル・フーコーの「統治性」概念では、ファシズムは「社会における私的・公的生活のあらゆる面を支配する統治性の極端な全体主義的事例」だと見なされた。同じくポスト・モダンの精神分析学者ジャク・ラカンは、「全能の支配的男性とみなされる指導者に容易く操られ、暴力に訴える傾向のある大衆の、本能的なパターン」を分析した。ラカン的にいえば、「ファシズムの歓喜は人民のナルシスティックな自我に侵入し、集団的精神病を促す」のだ。
ファシズムはなによりも「(ユートピアを目指す)革命運動」
こうした社会科学の議論とは別に、ファシズムを経済学的に定義しようとする試みもあった。それによればファシズム体制は「経済にまで国家の支配を及ぼし、主要産業を国有化し、巨額の国家投資を行い、計画経済や価格コントロールのいくつもの方法を導入した」国家運営ということになる。またカルチュラル・スタディーズは、視覚的プロパガンダ、審美論、劇場型演出の重要性を探求することで、ファシズムを文化(サブカルチャー)としてとらえる方法を開拓した。
これらの議論を踏まえ、1990年代に歴史家のロジャー・グリフィンが、より研究上の合意を得られるファシズムの定義を提出した。それは、「保守主義、無政府主義、リベラリズム、あるいはエコロジー主義同様、ファシズムも、理想の社会についての特定の『前向きな』ユートピア的ヴィジョン――核となる原理の組み合わせを保ってはいるものの、その地域の状況によって決まるいくつもの特徴的形態とみなすことができるヴィジョン――を掲げるイデオロギーとして定義が可能である」というものだった。
急速な文化的衰退は、文化的悲観主義を喚起するのではなく、代わりに「国家・民族の復活についての革命的思考を希求する動き」を促すとグリフィンは考えた。ファシズムは「新生を掲げるウルトラナショナリズム」なのだ。――2012年には、「形成される状況と国家・民族的(ナショナルな)文脈によって独特なイデオロギー的、文化的、政治的、組織的表現を帯びる、ナショナリズムの革命的な形態」というより明快なファシズムの定義を提案している。
ラリュエルはグリフィンのこの定義を踏まえたうえで、「神話の再生」に重きを置く。ファシズムとは、「暴力的手段によって再構成された、古来の価値に基づく新たな世界を創造することで近代を徹底的に破壊することを呼びかける、メタ政治イデオロギー」なのだ。この場合、重要なのはファシズムの「極端な」ナショナリズムではなく、「ファシズムの黙示録的な特質――再建のために破壊する」になる。
この見方では、ファシズムはなによりも「(ユートピアを目指す)革命運動」だ。歴史的にこれに当てはまるのは、イタリアのファシズム、ドイツのナチズム、ロシア革命(レーニン主義)とスターリズム、中国の文化大革命、カンボジアのポルポトなどだろう。戦前の日本の国家総動員体制は「全体主義」ではあるものの、そこに「革命」や「ユートピア(八紘一宇)」の要素がどれほどあるかは議論が分かれるのではないだろうか。
