「プーチンの演出家」ウラジスラフ・スルコフの うすら寒くなるようなニヒリズムとは? 【橘玲の日々刻々】
ロシア(ウクライナ)系イギリス人のピーター・ポマランツェフは、2006年から10年までモスクワのテレビ局でリアリティ・ショー(ドキュメンタリー)の制作に携わった体験を『プーチンのユートピア 21世紀ロシアとプロパガンダ』(翻訳:池田年穂/慶応義塾大学出版会)にまとめた。そこでは、ロシアのメディアが“Nothing is True and Everything is Possible”(真実などどこにもなく、すべてがでっちあげ)という並行現実(パラレル・リアリティ)をつくりあげていることが、さまざまな興味深い事例とともに描き出されている。
[参考記事]
●現在のロシアは「ポストモダンの独裁制」。真実などどこにもなく、すべてがでっちあげの「モダンの偽物」で合理的な人間も陰謀論者になる世界
『プーチンのユートピア』の登場人物なかでも、際立って興味深いのはウラジスラフ・スルコフだろう。「クレムリンの創造主(デミウルゴス)」「ロシア史上最高の政治工学者」の異名をもち、それ以外にも「宰相(ワズィール)」「灰色の枢機卿」「オズの魔法使い」などとも呼ばれている。
スルコフは2011年12月から13年5月まで、プーチン政権とメドヴェージェフ政権で副首相を務め、その後は20年2月まで大統領補佐官だった。その役割をひと言でいうなら、「プーチンの演出家」になるだろう。
スルコフは2008年に、自身の経験に基づく小説“Almost Zero(ほとんどゼロ)”を(筆名で)出版している。その華やかな経歴とこの風変りない小説からは、うすら寒くなるようなニヒリズムが感じられる。
「プーチンの演出家」ウラジスラフ・スルコフの生い立ち
ウラジスラフ・スルコフはソ連時代の1964年(62年の説もあり)にチェチェン・イングーシ自治共和国で、チェチェン人の父親とロシア人の母親とのあいだに生まれた。両親は共に教師だったが、父親はスルコフの幼少時に家を出ていった。その後、母親とともにモスクワの南のリペツク州に移り、名前をアスラムベクからロシア風のウラジスラフに変え、ロシア正教の洗礼を受けたといわれている。出生時の状況には諸説あるものの、父親がチェチェン人であること、母子家庭で育ったこと、子どもの頃からきわめて優秀だったことは間違いない。
ポマランツェフによれば、高校時代のスルコフは反抗的な若者で、「ベルベットのズボンをはき、ピンク・フロイドのように髪を長く伸ばし、詩を作り、女の子に人気があった」。文学や演劇、音楽などに傾倒し、「彼はオールAの優等生で、文学作品に関する彼の作文をよく教師たちが教員室で読み上げていたほどだ」とされる。――クリミア併合後の2014年3月、スルコフはオバマ政権による制裁で米国への入国を禁止されるが「アメリカで興味があるのは2パック・シャクール(ラッパーで96年に銃撃により死亡)、アレン・ギンズバーグ(ビート世代の詩人)、ジャクソン・ポロック(抽象画家)だけだ。彼らの作品にアクセスするためにビザは必要ない」と述べた。
1982年にモスクワの国立科学技術大学に進学したスルコフは、金属学を専攻したが興味をもてなかったらしく、1年で中退すると83年から85年まで軍歴についた。公式の経歴ではハンガリーのソ連砲兵連隊に配属されたたとされるが、参謀本部情報総局 (GRU) に所属していたとの説もある。
除隊後はモスクワ文化学院で演劇を学んだが、ペレストロイカで民間企業が解禁されるとふたたび大学を中退し、87年にミハイル・ホドルコフスキーの金融事業の広告部門の責任者に就任する。スルコフはこのとき弱冠24歳で、PRについてなんの経験もなかったのだから、まさに大抜擢だ(90年代後半にモスクワ国際関係大学の経済学修士を取得している)。
ホドルコフスキーはロシア初期のオリガルヒ(新興財閥)の一人で、1963年生まれだからスルコフと同世代だった。エリートとして大学卒業後にコムソモール(共産党の青年組織)の書記となったホドルコフスキーは、民間事業の可能性にいち早く気づき、88年に科学技術進歩商業革新銀行を設立(その後、メナテップ銀行と改称)した。ソロコフがどのような伝手でホドルコフスキーと知り合ったのかは不明だが、この“ベンチャー企業”の幹部として広告・広報部門を仕切ることになる。
91年にソ連が崩壊し、ボリス・エリツィンがロシア連邦の初代大統領になると、「自由化」の名の下に国の資産が割安で売りに出され、西部開拓時代のゴールドラッシュのような「一攫千金」の混乱が生じた。ホドルコフスキーはこの千載一遇のチャンスを見逃さず、民営化された多くの会社の株式を買い占め、メナテップ銀行を中心に巨大な持ち株会社をつくりあげた。
スルコフの最初の大きな仕事は、92年のメナテップ銀行の広告キャンペーンだった。「ロシアで最もハンサムなオリガルヒ」と呼ばれたホドルコフスキーが、「楽に金儲けしたければ、僕の銀行にどうぞ」「僕は成功した、君もできるさ!」と満面の笑みを浮かべて札束を差し出すポスターを街じゅうに貼り出したのだ。
ソ連時代に「資本主義は悪」と徹底して教育されてきた国民にとって、この広告はとてつもない衝撃だった。それまで金持ちは自分の成功を隠さなければならなかったが、スルコフは時代の変化にいち早く気づき、「富は美徳だ」と宣言したのだ。
